最終話 最初から、知っていた
翌朝の鉄床亭は、卓が一つ足りなかった。
脚が二本折れている。ガドがそれを裏庭に運び出して、しばらく眺めてから、鋸を取りに行った。
俺は割れた皿を数えていた。
「十一枚だ」
「十一か」
「昨日の分だけでな」
「割ったのは俺じゃないぞ」
「知ってる。あんたの分はもう別勘定だ」
ガドは鋸を持って戻ってきた。
「四百二十セロ。三十五時間」
「覚えてたのか」
「店主が忘れるかよ」
厨房から、皿を洗う音がしていた。いつもと同じ速さだった。昨日、この店で二十二人が床に頭をつけたことが、まるでなかったような音だった。
◆
昼前に、ザガンが来た。
城下町を四本の腕で歩く八百年ものの事務屋というのは、それなりに目立った。通りの子供が三人ついてきていた。
「勇者カイル」
「なんだよ」
「書類をお持ちしました」
嫌な予感がした。
「様式ができました」
「なんの」
「損害賠償請求書です」
ザガンは卓の上に、一枚を置いた。
「城内損害、累計四十七万セロ。壁、天窓、柱、床石、扉。うち門扉の修繕が三度」
「……八百年、様式がなかったんじゃないのか」
「昨夜、作りました」
「なんで昨夜なんだよ!」
「必要になりましたので」
俺はその紙を見た。魔族の文字と、人間の文字が並記してある。訳したのだろう。丁寧な仕事だった。
「時給十二セロで、三万九千二百時間ほど」
「計算するな」
「一日六時間で、六千五百三十三日」
「やめろ」
「十七年と、十一ヶ月ほどです」
俺は椅子の背にもたれた。
厨房の音が止まった。
前掛けをつけたリリスが暖簾から顔を出して、静かに言った。
「私のほうが、先に終わる」
「そうだな」
「四年六ヶ月と、少しだ」
「知ってるよ」
◆
「一つ聞いていいか」
「はい」
「なんで、今まで請求しなかったんだ」
ザガンは羽ペンを持ち上げなかった。
「リリス様が、請求するなと」
俺は暖簾のほうを見た。
リリスは戻っていた。皿の音が再開している。
「……なんでだ」
「私は、うかがっておりません」
「お前、八百年仕えてて、聞かなかったのか」
「うかがう必要のないことでしたので」
ザガンは書類を揃えた。
「ですが、推測は申し上げられます」
「言え」
「請求書を送れば、人間の王城に記録が残ります」
俺は顔を上げた。
「魔王城が、人間の国に金を請求したという記録です。金銭の請求というのは、こちらの言い分がある、という意味です」
「……言い分があるってことは」
「揉めているという意味です」
ザガンは書類を脇に挟んだ。
「揉めている記録が一つあれば、それは交戦の証拠になります。四つの様式のいずれかには、必ず載る」
俺は厨房のほうを見ていた。
五千年、あの女は記録を作らないようにしてきた。銅貨を一枚だけ内ポケットに入れて、街道で倒れていた男のことを誰にも調べさせず、六度とも峰で打って歩いて帰らせた。
その同じ八百年、この事務屋は日誌を毎日つけてきた。
「お前と、正反対だな」
「はい」
ザガンは頷いた。
「私は、書く係ですので」
◆
王城が動いたのは、五日後だった。
動いた、というより、動けないことが判明した、という言い方が正しい。
二百四十年の戦争を終わらせるには、終戦の書類が要る。終戦の書類には、誰かの名前が要る。名前を書いた者は、二百四十年を無駄だったと認めることになる。三年前に村から一人連れてきて剣を握らせたことも、その中に入る。
誰も書かなかった。
三日目に、書記官が四人がかりで様式を探し、四日目に、宰相が過去の記録をひっくり返し、五日目の朝に、白い法衣の司教が言った。
「開戦の記録がございません」
広間が静まったそうだ。俺はその場にいなかった。あとでエルザが会報用に取材してきた話だ。
開戦の書類がない。二百四十年前、誰も開戦を宣言していない。
書式の上では、あれは戦争ではなかった。
「では、あれは何だったのですか」
誰かが聞いた。
書記官が帳面をめくって、事務的な声で答えた。
「照会でございます。継続中の照会です。八百年前より、年に一度ないし二度、『応答せよ』との照会を発出し続けております」
「応答は」
「昨夜、受領いたしました」
◆
そこから先は、書類の話になった。
照会に応答があったので、照会は完了した。完了した照会は、閉じる。閉じるのに要る名前は、担当書記官のものだけだった。
二百四十年は、三日で閉じた。
閉じるための署名は、若い書記官が一つ書いた。
ガドはその話を聞いて、しばらく笑ってから、ぼそりと言った。
「……そんなもんかね」
「そんなもんらしい」
「じゃあ、なんで二百四十年かかったんだ」
「誰も、応答しに行かなかったからだ」
◆
司教も宰相も、罰せられなかった。
誰も、罰しようがなかったからだ。二百四十年前に始めた者はもういない。維持した者は、維持しているとすら思っていない。書式に従っていただけだ。
俺は司教を糾弾しに行かなかった。
あの男は「あなたが村を出た年から決まっていました」と言った。それはひどい話だと思う。
だが、俺は三ヶ月前に、剣で勝てない相手を惚れさせて油断させて殺す作戦を立てて、それを誰にも言わずに実行していた。
人のことを言える立場ではなかった。
◆
銅貨の話は、応援する会が引き受けた。
俺が頼んだわけではない。エルザが会報に「三年前、王都から東へ発った使者について」という一行を載せたら、ニナが乗り出してきた。
「あたし、探します」
「……いや、名前も分からないんだぞ」
「分かりますよ」
ニナは会報の紙の裏に、線を引き始めた。
「三年前の春に王都を発って、帰ってこなかった若い男の人。二十歳前。剣を持ってない。持ち金は銅貨一枚」
「よく覚えたな」
「エルザさんの記録が正確なので」
「あたしは書いただけ」
「三年前に王都から人が消えたら、どこかの村で、誰かが待ってます」
ニナは線の一つ一つに、町の名前を書いていった。レンドル、ドレク、サルカ、北の峠。会員の出身地が、この国中に散らばっていた。
「待ってる人は、たいてい、まだ待ってます」
彼女はそう言って、少し笑った。
「あたし、返事の来ない手紙を三十通出した女ですから」
俺は何も言えなかった。
「あ、今のは嫌味じゃないですよ」
「……嫌味だろ」
「半分です」
◆
名前が分かったのは、ひと月後だった。
南の農村の出だった。ソフィの村の、二つ隣だ。母親と、妹が二人いた。
銅貨は、リリスが自分で持っていった。
俺はついていったが、家の中には入らなかった。彼女がそう言ったからだ。
「私が受け取った」
「ああ」
「だから、私が返す」
外套のフードで角を隠して、彼女は一人で入っていった。
俺は道端に座って待った。
半時間ほどで出てきた。
「どうだった」
「受け取らなかった」
「……そうか」
「あの子の稼いだ銭だから、あんたが持っていなさい、と言われた」
リリスは外套の内ポケットに手を当てた。
「私は、人間から二度、銭を受け取った」
◆
その次の週、俺たちは討伐の依頼を受けた。
東の街道。魔物の群れ。二日行程。報酬一万二千セロ。
「今度は角を残せよ」
「善処する」
「前は全部消し飛ばしたからな。二千セロになったんだぞ」
「あれは加減が難しい」
「五千年生きてて難しいのか」
「難しい」
依頼書を持っていくと、ギルドの受付が固まった。魔王の娘が討伐依頼を受けるという様式が、まだなかったのだ。
三十分待たされて、受付は結局「同行者」の欄に彼女の名前を書いた。
どこの国も、様式で苦労している。
◆
街道を二日歩いて、魔物を片付けた。
今回は十四体のうち九体分の角が残った。上出来だった。
野宿になった。
同じ場所だった。街道から少し外れた、木の生えていない斜面。三ヶ月前、俺がここで剣を抜いた場所だ。
火を焚いて、干し肉を焼いて、二人で食った。
やがてリリスが立ち上がって、自分の剣を外し、五歩ほど離れた岩の上に置いた。
毛布を敷いて、俺のほうを向いて横になった。
三ヶ月前と、一つも変わらなかった。
「なあ」
「なんだ」
「なんでいつも、そうやって寝るんだ」
彼女は目を閉じたまま、少し黙っていた。
それから、静かに言った。
「お前が、私を殺しやすいようにだ」
◆
火が一つ、爆ぜた。
俺は動けなかった。
「……いつからだ」
「二度目だ」
「二度目」
「お前が『腹、減ってないか』と言った日だ」
リリスは目を開けた。火の色が、青い目に映っていた。
「五千年生きた。剣で六度勝てなかった相手を、七度目に食事に誘う人間を、私は一つしか思いつかなかった」
「…………」
「惚れさせて、油断させて、隙を突く」
俺は口を開いた。声は出なかった。
「合っているか」
「……合ってる」
「そうか」
彼女はそれだけ言った。
責めなかった。怒らなかった。三ヶ月前と同じ顔で、火を見ていた。
◆
「なんで乗った」
俺はやっと、それを聞いた。
「三つある」
「三つもあるのか」
「一つ。退屈だった。これは本当だ」
「……ああ」
「二つ。千年前、私は人間の町で暮らしたいと言って、止められた。九百年、諦めていた」
彼女は上体を起こした。
「そこへ、人間の町に入る口実が、向こうから歩いてきた」
「……口実かよ」
「口実だ」
リリスは膝を抱えた。
「三つ目は、言わないほうがいいかもしれん」
「言え」
「言うぞ」
「言え」
「殺されるなら、それでもいいと思った」
◆
火が小さくなっていた。
俺は薪を足さなかった。手が動かなかったからだ。
「人間に殺された魔族が一人いても、戦争にはならん」
リリスは淡々と続けた。
「私は父の娘だが、軍ではない。父は動かん。動けば、二百四十年が本物になる。それは父が一番よく分かっている」
「……あんたの父上は」
「悲しむだろう。だが、動かん」
「そういう話をするな」
「事実の話だ」
彼女は俺を見た。
「五千年で、初めて外に出られる機会だった。その代金が私一人なら、安い」
◆
「じゃあ、剣は」
俺は岩の上を見た。彼女の剣が、火明かりの届かないところに置いてある。
「なんで、そこに置く」
「お前が、自分で決められるようにだ」
「決める」
「私が剣を持っていれば、お前は言い訳ができる。抜かれたから斬った、と。危なかったから斬った、と」
リリスは岩のほうを見なかった。
「私が丸腰で、背中を向けて眠っていれば、言い訳はできん」
「…………」
「言い訳のきかない形にした。そのほうが、お前が後で困らんと思った」
「……逆だろ。それだと、俺は」
「逆ではない」
彼女は首を振った。
「三ヶ月前、お前はここで剣を抜いた」
俺は顔を上げた。
「知ってたのか」
「起きていた」
「…………」
「刃が持ち上がる音がした。そのあと、鞘に戻る音がした。間は、十七を数えるくらいだった」
◆
俺は自分の膝を見ていた。
あの夜、俺は理由を考えなかった。考えたら答えが出てしまうと思ったからだ。三ヶ月、考えないようにしてきた。
「なんで、そのあとも同じように寝るんだ」
「習慣だ」
「習慣にするな!」
「それと」
リリスは膝を抱え直した。
「あの夜、私は初めて、誰かがいる場所で眠った」
「……知ってる。お前が言った」
「あれは本当だ」
「両方本当なのかよ」
「両方本当だ」
彼女は少しだけ、口の端を動かした。笑ったのだと思う。
「人間は、一つの行いに理由が一つだけあると思いすぎる」
◆
「一つ、言っておく」
リリスは俺を見た。
「お前は、私に一度も嘘をつかなかった」
俺は笑った。今度は、本当に笑った。
「つきまくってただろ」
「ついていない」
「使い回しの台詞を言ったぞ。ニナに言ったのと同じやつを」
「あれは嘘ではない」
彼女は言った。
「他の女に言った言葉を、私にも言っただけだ。腹は立ったが、嘘ではない」
「……あの時、怒って帰っただろ」
「怒っていない。言葉には二種類あると言った。それだけだ」
リリスは火に手をかざした。
「お前が私に隠していたのは、殺すという一点だけだ」
「…………」
「それは、最初から知っていた」
◆
だから、と彼女は続けた。
「私にとって、お前は一度も嘘をついていない」
俺は火を見ていた。
三年間、俺は嘘で人の顔を緩ませてきた。町ごとに、宿ごとに、女ごとに。ついた数を数えたことはない。
その全部を通り抜けて、目の前の女は、俺が一度も嘘をついていないと言った。
理屈は合っている。この女の理屈は、いつも腹が立つほど合っている。
◆
俺は薪を足した。
火が大きくなって、彼女の角の影が斜面に長く伸びた。
「言うことがある」
「聞こう」
「……先に言っておくが、たいした話じゃない」
「聞こう」
俺は言葉を探した。
三年分の在庫が、頭の中に全部並んでいた。この場面に使える、きれいで、整っていて、女の顔が緩む言葉が、いくらでもあった。エルザの語録に日付と場所つきで残っているやつだ。
全部、使えなかった。
だから、みっともないほうを言った。
「お前の借金、四年六ヶ月だろ」
「そうだ」
「俺のは十七年十一ヶ月だ」
「そうだな」
「先に終わるのは、お前だ」
「そうだな」
俺は火を見たまま言った。
「終わっても、見ててくれ」
リリスは何も言わなかった。
「十七年、皿を洗うところを、見ててくれ」
◆
風が吹いて、火が横に流れた。
リリスは膝を抱えたまま、しばらく黙っていた。
「十七年か」
「長いな」
「長い」
彼女は毛布を引き寄せた。
「……まあ、急ぐ理由もない」
三ヶ月前、この道で、俺が言った台詞だった。
俺は返事をしなかった。
寝不足で、頭がうまく回らなかったからだ。
たぶん、そうだ。
◆
「第六条を追加する」
リリスが言った。
「まだ増えるのか」
「増える」
「五条までだっただろ」
「五条までだった」
彼女は立ち上がって、岩のほうへ歩いていった。
剣を取って、戻ってきて、毛布のすぐ横に置いた。手を伸ばせば届く場所だ。
そして、横になった。
「第六条。眠る時、剣は、手の届く場所に置く」
俺は何も言えなかった。
「異議はあるか」
「……ない」
「では、成立だ」
リリスは目を閉じた。
尻尾が、一度、ゆっくり動いた。
◆
半年が過ぎた。
鉄床亭は、水曜が休みになった。ガドが「腰にくる」と言い出したからだ。五十年やって初めての定休日だった。
俺は皿を洗っている。時給十二セロ。残り十七年と四ヶ月。
リリスも皿を洗っている。残り四年一ヶ月。
同じ流しに二人並んで立つと、彼女のほうが明らかに速い。俺が一枚洗う間に、彼女は四枚洗う。速く、壊さない。
「遅い」
「うるさい」
「遅い」
「二回言うな」
◆
魔王は、月に一度来る。
予約制になった。ザガンが受付をしている。木札に『陛下・グラ』と彫ってあって、途中で呼び出されたらしい。
初めて来た日、店の客が全員立ち上がって、どうしていいか分からずに立ち尽くした。
魔王は困った顔をして、カウンターの端に座り、六年物のエールを頼んだ。
三度目からは、誰も立たなくなった。
ガロンが腕相撲を挑んで、〇・三秒で負けた。ゴズの記録を〇・一秒更新したというので、ゴズが本気で悔しがっていた。
「俺の負けのほうが速えんだよ!」
「威張るところか?」
ノエルは魔王の角を触らせてもらって、「つるつるですね」と言っていた。ミラだけが少し離れたところで飲んでいて、俺と目が合うと、杖の先で床をつついた。
「……あんた、逃げ道なかったもんね」
「なかった」
「よかったじゃない」
◆
マーサは、リリスの服をもう三着作った。
尻尾の穴の位置が毎回違うので、三着目でようやく満足したらしい。
「カイルちゃん」
「なんだよ」
「あんた、あの時、鏡の前で答えなかったね」
「……覚えてんのか」
「覚えてるよ。あたしは人をよく見るんだ」
マーサは糸を切った。
「今は、答えられるのかい」
俺は少し考えて、正直に言った。
「借金があるうちは、逃げられない」
「そりゃ答えになってないよ」
「なってないな」
マーサは笑って、俺の襟を直した。
「まあ、いいさ。十七年もあるんだ」
◆
応援する会は、まだ続いている。
会長ニナ、会計マレナ、書記エルザ、会報担当ソフィ。会費は月五セロ。今のところ黒字らしい。
会の名前は『勇者カイル様を応援する会』のままだ。変えないのか、と聞いたら、ニナが真顔で言った。
「応援してますから」
「……何を」
「返済を」
会報『カイル通信』の最新号には、俺の残り返済期間が載っていた。前号との差分つきで。
エルザの記録は、相変わらず正確だった。
◆
ザガンの業務日誌は、今も毎晩、魔王のところへ上がっていく。
一度だけ、中身を見せてもらったことがある。
リリス様の欄には、字がびっしり詰まっていた。日付と、行き先と、帰城の時刻と、その日にあったこと。皿を何枚洗ったか。手の傷が治ったかどうか。
九百年、「異常なし」の四文字だけだった欄だ。
「これ、全部読むのか」
「陛下は、毎晩お読みになります」
「……長いだろ」
「長いものは読まん、とおっしゃっておりましたが」
ザガンは日誌を閉じた。
「あれだけは、最後までお読みになります」
◆
三年かけて、俺は魔王を倒しに行った。
倒せなかった。六度負けて、七度目に飯に誘って、唐揚げを三十皿持って挨拶に行って、通告を受けて、借金を四十七万セロ増やした。
戦争は終わった。書記官が一人、名前を書いて閉じた。二百四十年が、三日で終わった。
誰も応答しに行かなかっただけだった。
俺は今日も皿を洗っている。
隣で、五千年生きた魔王の娘が、俺の四倍の速さで皿を洗っている。
――作戦は。
俺は口の中で、そこまで言ってみた。
続きは、もう出てこなかった。
出てこなくていい、と思った。
◆
「遅い」
「うるさい」
「遅い」
「三回目だぞ!」
「記録しておく」
「日誌かよ」
「私の中にだ」
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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