第二十話 戦争の作り方
「お前は今、二度、口を閉じた」
裏口の壁に、リリスの影が長く伸びていた。
俺は前掛けを畳む彼女の手を見ていた。皿洗いで荒れた手だ。指の付け根に、まだ治りきっていない傷がある。
「……全部話す」
「聞こう」
「長い」
「私は五千年生きた。長い話には慣れている」
◆
三日間の全部を話した。
二日待たされたこと。書式が三種類あったこと。跪いたまま、魔王城に入ったと報告したこと。誰も笑わなかったこと。
司教が、俺の心を心配したこと。
書記官が、三番通りの被害を「魔族による攻撃」として読み上げたこと。石畳四十七枚。噴水一基。天幕十一張り。屋根瓦二十三枚。死傷者ゼロ。
王が「二百四十年前からだ」と言ったこと。
そして最後に、司教が言ったことを話した。引き続き城内に留まり、信を得て、内側から時を待て。それが最も犠牲の少ない道です、と。
俺はそこまで話して、口を閉じた。
三度目だった。
リリスは気づいていたが、何も言わなかった。
「一つ聞く」
「なんだ」
「お前が村を出た年に、使者が止まった。それを、お前は今日知ったのか」
「三日前に、あんたの父上から聞いた」
「そうか」
彼女は前掛けを腕にかけた。
「私は、お前を疑っていない」
俺は何も返せなかった。
三年間、俺は嘘で人の顔を緩ませてきた。今、俺は本当のことを八割話して、二割隠した。そして疑われなかった。
これが一番きついとは、思っていなかった。
◆
翌朝、俺たちは街道を東へ歩いた。
予約は取っていない。門でザガンにそう言うと、四本の腕のうち一本が羽ペンを持ち上げた。
「予約者番号〇〇一番、勇者カイル。飛び込みですね」
「駄目か」
「規約集第九条に、緊急時の例外がございます」
「あるのか、そんなの」
「私が三ヶ月前に作りました」
「なんでだよ」
「使う日が来る気がしたので」
◆
書庫は、塔の三階にあった。
埃と、古い紙と、獣脂の匂いがした。棚が壁を埋めていて、上のほうは梯子を使わないと届かない。
「こちらです」
ザガンが持ってきたのは、細長い箱だった。中に、束ねた紙がぎっしり詰まっている。
「人間の王城からの書状と、こちらからの返書の控えです」
「……全部あるのか」
「八百年分ございます。私が着任してからのものです。それ以前は下の段に」
俺は一番上の束を取った。
人間の文字だった。俺の知っている文字だ。書式は古いが、読める。
短い。一行しかない。
『応答せよ』
次の束を取った。同じだった。
その次も。その次も。
「返書の控えは」
ザガンが別の束を出した。
こちらは魔族の文字で、俺には読めない。
「なんて書いてあるんだ」
「毎回、同じです」
ザガンは読み上げた。
「『我らは貴国と交戦していない。使者の安全を保証する。話し合いを望む』」
俺は束を持ったまま立っていた。
「……八百年、同じ返事を出してるのか」
「はい」
「向こうは、同じ一行しか送ってこないのか」
「はい」
「なんでだ」
ザガンは箱の蓋を閉めた。
「こちらには、わかりかねます。届いているかどうかも、わかりませんので」
◆
俺は王城の広間を思い出していた。
書記官が四人いた。四つの帳面に、四つの様式で、同じことを書いていた。あの国は、書いたものは絶対に捨てない。捨てられないから、様式が三種類に増える。
その国に、八百年分の返書が一通も残っていない。
届いていないか、届いた上で残っていないか、どちらかだ。
「最後の書状は、いつだ」
ザガンが日誌を出した。分厚いほうだ。
「三年前の、春です」
「使者は」
「一名。若い男でした」
ザガンは指を滑らせた。
「記録がございます。『使者一名、来訪。書状受領。返書を託す。応答なし』」
「応答なしって、どっちの」
「使者が、一言も喋らなかったという意味です」
◆
「私が対応した」
声がしたので振り返った。
リリスが棚の前に立っていた。
「門の前で、震えていた」
「……三年前のか」
「そうだ。二十歳前だろう。剣も持っていなかった。書状を持つ手が震えて、渡すのに時間がかかった」
リリスは棚の縁に指を置いた。
「水をやった。飲むまでに、また時間がかかった。毒だと思ったのだろう」
「飲んだのか」
「飲んだ。飲んでから、礼だと言って、これを出した」
彼女は外套の内ポケットに手を入れた。
小さな銅貨だった。真ん中あたりで、大きく歪んで折れ曲がっている。
「あの男が持っていた銭は、これ一枚だった」
「……全部か」
「全部だ」
俺はその銅貨を見ていた。
一枚。十二セロの時給なら、一時間も働けば得られない額だ。
「受け取ったのか」
「受け取った」
「なんで」
「働いて得た銭だからだ」
リリスは銅貨を指の間で立てた。
「私は五千年、人間から銭を受け取ったことがなかった。奪ったものならある。落ちていたものならある。差し出されたのは、あれが初めてだった」
◆
「その男は、どうなった」
リリスは答えなかった。
俺は待った。
やがて彼女は、銅貨を握り込んだ。
「三日後に、街道を見に行った」
「……見に行った」
「気になったからだ。理由は、それだけだ」
「それで」
「倒れていた」
書庫の中は、静かだった。
「魔物ではなかった」
「なんで分かる」
「魔物は矢を使わん」
俺は棚に手をついた。
「誰がやった」
「知らん」
「調べなかったのか」
「調べれば、こちらから人間の国に入ることになる」
リリスは俺を見た。
「私が一人でも人間を殺せば、その日から、二百四十年は本物になる」
◆
俺は書庫の床に座り込んだ。
組み立ててみた。三年間、一度もやらなかったことを、やってみた。
この国は、二百四十年前から魔王と戦争をしている。
その二百四十年で、両軍が衝突した記録は一つもない。
人が実際に死ぬのは、野の魔物と、盗賊と、崩れる崖と、増えた川によってだ。それは本物の被害で、俺はそれを三年間片付け続けた。あれは本当に人の役に立った仕事だった。
だが、その仕事は「戦争」として計上される。
魔物が魔王の手先だということにしておけば、鼠を駆除する費用も、崖を掘り返す費用も、軍事の帳簿に載る。教会は聖戦の名で献金を集められる。村の子供を一人選んで、剣を握らせて、勇者と呼ぶことができる。
俺は自分の三年間の値段を、初めて考えた。
そして、東の城でも同じことが起きていた。
侵入者が一名確認されるごとに、警備費が計上できる。予算会議は年に二回。四天王が門番をしている。門の修繕費が高くつく。
どちらの側にも、相手が要る。
殺し合う必要はない。
むしろ、殺し合ってしまえば終わってしまう。必要なのは、終わらせないことだ。
そのために、たった一つだけ、絶対にしてはならないことがある。
返事を届けることだ。
「……八百年、応答せよって送り続けて」
俺は自分の声を聞いていた。
「八百年、応答があったのに」
ザガンが箱を棚に戻した。
「業務日誌は、正確に書く決まりですので」
◆
もう一つ、確かめなければならないことがあった。
「リリス」
「なんだ」
「なんで六回とも、俺を殺さなかった」
彼女は棚の前から動かなかった。
「一度目に、お前を殺したとする」
「ああ」
「次は十人来る。十人殺せば、軍が来る。軍が来れば、こちらも出さねばならん。そうなれば」
「二百四十年が本物になる」
「そうだ」
俺は笑おうとして、失敗した。
「じゃあ、六回とも」
「六度とも、峰で打った。骨は折らんように加減した。歩いて帰れる程度に」
「……そこまで計算してたのか」
「していた」
リリスは俺を見た。
「六度目に、お前が食事に誘った」
「ああ」
「だから、七度目がなかった」
◆
城下町に戻ったのは、日が落ちてからだった。
三番通りは新しい石畳になっている。噴水も直った。そこを抜けて、鉄床亭の角を曲がった。
店の前に、エルザが立っていた。
背が高くて、目つきが鋭い。腕を組んで、通りの反対側を見ている。
「カイル」
「……なんでお前がここに」
「会報の取材。ソフィに頼まれた」
エルザは通りから目を離さなかった。
「三日前から、店を見てる連中がいる」
「連中」
「四人。交代で。同じ宿から出てくる。冒険者じゃない。歩き方が違う」
「なんで分かる」
「あたし、元冒険者だよ。それに」
彼女は初めてこちらを見た。
「記録を取るのが趣味なの。知ってるでしょ」
◆
店の中から、笑い声が漏れていた。
ガドの声と、ゴズの声。皿の音。エールの注ぎ口の音。
リリスは裏口のほうを見ていた。彼女は明日も皿を洗う。時給十二セロで、四年六ヶ月と少し。
エルザが低い声で言った。
「あんた、王城に呼ばれてたよね」
「呼ばれた」
「何を話した」
「……魔王城に入ったって話した。玉座の間まで通されたって」
「他には」
「手土産の話だ。唐揚げを三十皿持っていったって」
エルザの目つきが変わった。
「どこの唐揚げか、言った?」
俺は口を開いた。
鉄床亭の、と言ったのを、はっきり覚えていた。
王城の広間で、書記官が四人、四つの帳面に、四つの様式で、それを書き取っていた。
魔王の娘が、城下町の鉄床亭で、皿を洗っている。
その情報を、三日前に、俺が喋った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります!
この作品が面白いと思ったら
『( ゜∀゜)o彡°』
とだけコメントください




