第十八話 娘を不幸にしたら、殺す
扉が閉まって、玉座の間には二人だけになった。
魔王は玉座を見ていた。誰も座っていない椅子だ。埃は積もっていない。
「あれには、座らんのだ」
「……座らないんですか」
「座ると、皆が畏まる。畏まられると、話ができん」
魔王は卓に肘をついた。
「立って話す王など、しまらんがな」
俺は何も言わなかった。四十七条には、この場面に当てはまるものが一つもない。
◆
「あれは、五千年生きている」
魔王は指を組んだ。
「その五千年で、人を連れてきたのは、今日が初めてだ」
「……そうですか」
「初めてだ」
二度、言われた。
「千年ほど前になるが、あれは一度、城を出たいと言った」
「出たい」
「人間の町で暮らすと言った。市が見たい、と」
「止めたんですか」
「止めた」
魔王は俺を見た。
「人間は、あれを殺そうとするからだ」
俺は膝の上で手を握った。三年間、俺がやってきたことだ。
「その頃は、使者が来ていた」
「使者」
「人間の王城から。年に一度か、二度。書状を持ってな」
「なんと書いてあったんですか」
「読めん。あちらの書式はこちらと違う。ザガンが訳したが、要するに毎回、同じことが書いてあった」
「同じこと」
「『応答せよ』だ」
俺は顔を上げた。
「返事は」
「出した。毎回、出した」
「……届いたんですか」
「知らん」
魔王は指を組み直した。
「ある時から、使者が来なくなった。それきりだ」
「いつからですか」
「三年ほど前になる」
三年前。
俺が村を出た年だ。
俺は口を開こうとして、やめた。
◆
「一つ、聞いていいですか」
「うん」
「リリスは、あなたのことを『最近は落ち着いている』と言いました」
魔王の指が止まった。
「そう言ったか」
「はい。それ以上は、答えてくれませんでした」
しばらく、返事がなかった。
やがて魔王は、卓の木目に目を落としたまま言った。
「落ち着いているのは、諦めたからだ」
「……誰がですか」
「あれがだ」
魔王は続けた。
「千年前に止められてから、あれは二度と、出たいとは言わなくなった。代わりに、退屈だ、としか言わなくなった」
「…………」
「五千年生きて、九百年、退屈だと言い続ける娘を見たことがあるか」
「ありません」
「私もない。私が作った」
◆
「ザガンの業務日誌を知っているか」
「読み上げられました」
「あれは毎晩、私のところに上がってくる」
「毎晩」
「私はそれを読む。八百年、読んでいる」
魔王は少し笑った。今度は、和んだ笑い方だった。
「あれの欄には、ずっと同じことが書いてあった。『異常なし』とな。九百年、ほとんど毎日だ」
「…………」
「三ヶ月前から、字が増えた」
俺は卓を見ていた。
「外出。城下町。帰城、日没後。所持品、木の札一枚」
魔王はそらで言った。
「手に傷。原因、皿。この一行を読んだ夜のことは、覚えている」
「……傷は、皿洗いです。安い店ではないんですが、数が多くて」
「知っている。あれが話した」
「話したんですか」
「毎晩、話す。九百年、何も話さなかった娘がだ」
魔王は俺を見た。
「私は、それを聞くのが、今、いちばん楽しい」
◆
「一つ、聞く」
「はい」
「お前は、あれを預かる気があるか」
同じことを、四日前に聞かれた。
マーサの店の鏡の前で、俺は答えなかった。答えないという形で、逃げた。
ここでは逃げられない。
嘘をつけば、この場は終わる。三年間、俺はそうやって全部の場を終わらせてきた。適当な言葉を選んで、相手の顔が緩むのを見て、次の町へ行った。言葉は在庫にあった。今も在庫にある。
俺は口を開いた。
「……わかりません」
自分の声が、思ったより低かった。
「わからん、か」
「はい」
「嘘をつくと思っていた」
「つけませんでした」
「なぜだ」
俺は少し考えた。考えて、出てきた言葉は、俺が今まで一度も使ったことのないものだった。
「あなたの娘が、嘘をつかないので」
◆
魔王はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「あれは、お前を選んだ」
「……はい」
「私は五千年、あれの目を疑ったことがない」
俺は膝の上の手を見ていた。
――逃げ道あるの?
四日前に、ミラに聞かれた。
ないんだ、と彼女は言った。
「だから、一つだけ言っておく」
魔王が立ち上がった。
そして、笑った。
◆
平伏しなければならない。
第二十二条。陛下が笑われた場合、直ちに平伏せよ。
俺は覚えていた。完璧に覚えていた。今朝、街道で三周した。
体が、動かなかった。
天窓から落ちていた光が、消えた。何かが遮ったわけではない。光がそこにあるのに、届かなくなった。
空気が重い。
耳の奥が鳴っている。
卓の上の皿が、かたかた、と鳴った。床の石が軋んだ。俺の座っている椅子の脚が、床にめり込んでいく音がした。
三年間、俺は戦い続けた。魔物と、盗賊と、崩れる崖と、増えた川と。
六度、この城でリリスに沈められた。
あれは、殴られたのだ。
これは、まだ、何もされていない。
何もされていないのに、俺は椅子から立てなかった。
「娘を不幸にしたら、殺す」
怒鳴られたわけではなかった。
目の前の男は、さっきと同じ顔をしていた。誰かの父親がしている顔だった。
◆
光が戻った。
空気が軽くなり、皿が鳴りやみ、耳鳴りが消えた。
魔王は椅子に座り直した。そして卓の皿に手を伸ばし、唐揚げを一つ、口に入れた。
「すまんな。年寄りは加減が下手でな」
俺は返事ができなかった。
手が震えていた。膝の上で押さえたが、止まらなかった。
「答えなくていい」
「……はい」
「答えを聞く場ではない」
「では、何の場ですか」
魔王はもう一つ食べた。
「通告だ」
◆
扉が開いて、リリスが戻ってきた。
鍋を厨房に返してきた彼女は、卓の様子を見て、それから俺を見た。
「顔が白い」
「そうか」
「何を話した」
俺は口を開いた。
「……天気の話だ」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
三年ぶりに、俺は本当に必要があって嘘をついた。
リリスは俺を三秒見た。
彼女の尻尾が、途中で、止まった。
「……そうか」
それ以上は聞かなかった。
卓の向こうで、魔王が娘に何か言い、リリスがそれに答えていた。普通の親子の声だった。
◆
門で、ザガンが待っていた。
木札を渡すと、剣が返ってきた。
鞘ごと受け取って、腰に戻す。金具を留める。手が覚えている動作だった。
重かった。
朝、預けた時は軽くなったと思った。同じものが、今は重い。
「本日の記録が決まりました」
「……なんて書く」
「『来客あり。異常なし』」
俺はザガンを見た。四本の腕のうち一本が、羽ペンを持っていた。
「異常なし、か」
「はい」
「異常だらけだったぞ」
「業務日誌は、正確に書く決まりですので」
「今の、どこが正確なんだよ」
ザガンは日誌を閉じた。
「陛下がご無事で、リリス様がご無事で、来客がご無事に帰られました。異常はございません」
◆
日が傾いていた。
街道を、二人で歩いた。
鍋は空で、石も冷えている。行きより荷は軽い。軽いのに、足が進まなかった。
途中で一度、焚き火をした場所を通った。石を焼いた跡が、まだ黒く残っていた。
リリスは何も聞かなかった。
俺も、何も言わなかった。
二時間ほど歩いたところで、俺は足を止めた。
「なあ」
「なんだ」
「お前、皿洗い、あと何年だ」
リリスも足を止めた。
「四年六ヶ月と、少しだ」
「そうか」
「なぜ聞いた」
俺は街道の先を見ていた。空が赤かった。
「……四年半後に、俺があの店にいるかどうか、考えてた」
リリスは動かなかった。
「いるのか」
「わからん」
「わからんのか」
「わからん。でも、考えた」
風が吹いて、リリスの外套がめくれた。
尻尾が、一度、ゆっくり動いた。
「記録しておく」
「日誌かよ」
「私の中にだ」
◆
そこから城下町までは、また黙って歩いた。
考えていたのは、作戦のことだった。
俺は玉座の間に入った。武器は門に預けたが、卓には皿があった。皿は割れる。割れれば刃になる。距離は三歩だった。
その三歩を、俺は一度も測らなかった。
測らなかったどころか、床に伏せることすらできなかった。
三年かけて、俺はあの部屋に入った。
入って、唐揚げを食わせて、娘の皿洗いの傷の話をされて、通告を受けて、帰ってきた。
作戦は、と俺は口の中で言ってみた。
続きは出てこなかった。
◆
城下町の門をくぐった時には、すっかり夜だった。
三番通りを抜けて、鉄床亭の角を曲がる。窓に灯りがついている。中から笑い声がする。
その灯りの手前に、人が立っていた。
杖を担いだ、背の低い影だった。
「遅い」
ミラだった。
「待ってたのか」
「三時間ね」
「悪かったな」
「あんた、呼ばれてるよ」
俺は足を止めた。
「誰に」
「王城」
ミラは杖の先で地面をつついた。こちらを見なかった。
「三年ぶりだってさ」
リリスが、俺の隣で立ち止まった。
「なんて言ってきた」
「『討伐の進捗を報告せよ』」
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