第十七話 陛下が笑われた場合
扉が開いた。
玉座の間は、思っていたより明るかった。天窓が三つあり、昼の光がまっすぐ落ちている。奥に玉座があったが、誰も座っていなかった。座面に埃が積もっていないのは、誰かが毎日拭いているからだろう。
三年かけて辿り着けなかった部屋には、長い卓が一つ置かれ、椅子が並んでいた。
その向こうに、男が立っていた。
背は俺より頭一つ高い。角は四本、後ろに向かって伸びている。髪は黒く、こめかみのあたりだけ白い。着ているものは、マーサの店で言えば中の上、というところだった。
顔は、普通だった。
どこかの職人が、あるいは誰かの父親がしているような顔だった。
「よく来たな」
第三条。陛下の御前では、名を呼ばれるまで口を開いてはならない。
俺は黙っていた。
「……名を呼べばいいのか」
俺は黙っていた。
「カイル」
「はい!」
「そうか。呼ばんと喋らんのか」
魔王は自分で椅子を引いて、腰を下ろした。
「ザガンの手引きだな」
「読まれましたか」
「読んでいない。長いものは読まん。娘に聞いた。四十七条あるそうだな」
「あります」
「私も守らねばならんのか」
「陛下の御前での規則です」
「では、私は関係ないな」
条文が一つ、最初の三十秒で死んだ。
◆
座れと言われて、俺は座った。
第九条。目を合わせてはならない。俺は卓の木目を見ていた。
魔王が身を乗り出して、下から俺の顔を覗き込んだ。
「顔を上げてくれ。話しにくい」
「……第九条が」
「私は読んでいないと言っただろう」
二つ死んだ。
残り四十五条を、俺は頭の中で数え直した。使えそうなものが一つもなかった。
◆
鍋が運ばれてきた。
毛布が解かれ、蓋が開き、湯気が上がった。六時間かけて運んできた匂いが、玉座の間に広がった。
魔王は皿を見て、それから娘を見た。
「これが、手土産か」
「そうだ」
「変わったものを持ってくるな」
俺は何も言わなかった。ここで言い訳をしても、良いことは何もない。
魔王は一つ、指でつまんで口に入れた。
それから、止まった。
しばらく、本当にしばらく、動かなかった。
もう一つ食べた。
「リリス」
「はい」
「これは、どこのものだ」
「城下町の、鉄床亭という店だ」
「店」
「銭を払えば、誰でも食える」
魔王が顔を上げた。
「誰でもか」
「誰でもだ」
「毎日か」
「毎日出している。休みは月に二日だ」
魔王は黙って、三つ目を食べた。
五千年生きた男が、人間の町では毎日これが食えるという事実を、たった今知ったところだった。
◆
「娘が、皿を洗っていると聞いた」
「洗っています」
「時給は」
「十二セロです」
「それは、高いのか」
俺は答えに詰まった。
「……六時間働いて、七十二セロです。この唐揚げが一皿四十八セロ、エールが一杯二十四セロなので」
「ちょうどか」
「ちょうどです」
魔王は指を折って、確かめた。折り方が娘と同じだった。
「その銭で、お前に奢ったのか」
「奢られました」
「そうか」
そして、笑った。
俺は椅子から降りて、床に伏せた。
第二十二条。陛下が笑われた場合、直ちに平伏せよ。
三年分の訓練より、その一条のほうが速く体を動かした。
「……なぜ伏せる」
「第二十二条です」
「なんだそれは」
「陛下が笑われた場合、直ちに平伏せよ、と」
返事がなかった。
俺は床を見たまま待った。
やがて、魔王が娘に聞いた。
「私は、そんなに恐ろしいか」
リリスは答えなかった。
俺は顔を上げた。
誰も、笑っていなかった。
◆
空気が戻るのに、少し時間がかかった。
戻したのは魔王自身だった。四つ目に手を伸ばして、何事もなかったように娘の話を始めた。
「この子は、昔から食べ物にうるさくてな」
「父上」
「二千年ほど前だが、南の谷の果実が気に入って、三十年通った」
「父上」
「三十年目に木が枯れて、三日泣いた」
「父上!」
リリスの尻尾が、後ろで一度、大きく膨らんだ。
俺は笑った。この日、初めて自然に笑った。
卓の端では、四天王の三人が皿を回していた。眼鏡のようなものをかけた小柄なのが、書類を広げて何か言いかけて、魔王に手で制されていた。
「今日はよせ」
「はい」
どこの家にもある光景だった。
◆
三十皿は、半分以上が消えていた。
俺は椅子に座り直して、息を吸った。
「あの」
「うん」
「俺は、あなたを殺しに来た男です」
卓が静かになった。リリスがこちらを見た。
魔王は皿から手を離して、俺を見た。
「知っている」
「六度、来ました」
「聞いている。娘が全部止めたそうだな」
「……はい」
「では、私はお前と一度も戦っていないな」
「はい」
「私は、お前の国に行ったことがない」
俺は顔を上げた。
「五千年、ない」
「……そんなはずは」
「あるかもしれん。私が忘れているだけかもしれん」
魔王はまた皿に手を伸ばした。
「だが、覚えていないことは、たぶん、していない」
俺は口を開こうとして、やめた。
三年間、俺が戦ったものを、順番に数えていけばいい。魔物、盗賊、崖崩れ、洪水、疫病の出た村、橋の落ちた街道。
数えれば、たぶん、すぐに終わる。
俺は数えなかった。
◆
食事は、そのあとも和やかに続いた。
魔王は俺に、剣をどこで習ったかと聞いた。村の男に習ったと答えると、その男は元気かと聞かれた。死にましたと答えると、そうか、と言って、それきり何も聞かなかった。
悪い時間ではなかった。
それが、この日で一番おかしなところだった。
俺は三年かけてこの部屋に来た。今日、半日で入った。武器はないが、卓には皿がある。皿は割れる。割れれば刃になる。距離は三歩だ。
そういうことを、俺は一度も考えなかった。
考えなかったことに気づいたのは、鍋が空になってからだった。
◆
「片付けてくる」
リリスが鍋を三つまとめて抱え、厨房へ立った。
扉が閉まる音を聞いてから、魔王が口を開いた。
「カイル」
「はい」
「少し、二人で話そう」
俺は椅子の上で背筋を伸ばした。
四十七条のうち、この場面に当てはまる条文を探した。
一つもなかった。
「……今からですか」
「今のうちだ」
魔王は玉座のほうを見ていた。誰も座っていない、埃の積もっていない椅子を、見ていた。
「あれが戻ってくると、私は言えなくなる」
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