第十三話 作戦通りだ、たぶん
野宿から戻って、三日経った。
俺は眠れていなかった。
「旦那、顔色が悪いぞ」
鉄床亭のカウンターで、ガドが心配そうに言った。
「寝てないだけだ」
「三日もか」
「四日だ」
「死ぬぞ」
「死なねえよ」
厨房の奥から、皿を洗う音が聞こえている。規則正しい音だ。一枚も割れていない。
俺はその音を聞きながら、エールを飲んでいた。四日前の夜、俺の腕は下りなかった。
理由は考えていない。考えないようにしている。
◆
その翌日、ザガンが店に来た。
四本の腕に外套を着込み、角を布で巻いて、明らかに無理のある変装をしていた。
「勇者カイル」
「なんでお前が街にいるんだよ」
「使いです」
ザガンは懐から木札を取り出し、カウンターに置いた。
俺の受付票と同じ形だった。だが、彫ってある字が違う。
『勇者・カイル 被予約者番号〇〇二番』
「被予約者」
「はい」
「なんだそれは」
「リリス様が、あなたを予約なさいました」
「されるのか、俺が!?」
「制度は双方向です」
「いつからだよ!」
「昨日からです」
ザガンは書類を開いた。
「面会日時、明日の日没。場所、城下町広場。所要時間、一時間を想定。議題――」
「議題まであるのか」
「あります」
ザガンは読み上げた。
「『宿題の結論報告』」
◆
翌日の日没。
広場の噴水は、まだ工事中だった。俺が十二万セロ払った現場だ。囲いの向こうで石工が働いている。
その手前に、リリスが立っていた。
新しい服を着て、外套は持っていない。手には、紙を持っていた。
「来たな」
「予約されたからな」
「座れ」
「立ち話でいいだろ」
「座れ」
俺は石段に座らされた。彼女は隣ではなく、正面に立った。
完全に、報告の姿勢だった。
◆
「調査を完了した」
「……はい」
「結論を報告する」
リリスは紙を広げた。几帳面な字が並んでいる。ザガンの書式が完全に染みついている。
「先般、私は『恋』という仮説を棄却した」
「したな」
「理由は、五千年にわたり一度も心を乱されたことがない、という統計的根拠による」
「言ってたな」
「これを、撤回する」
噴水の工事の音が、やけに遠く聞こえた。
「……撤回」
「撤回だ」
「なんでだ」
リリスは紙から目を上げた。
「四日前の夜、私は眠った」
俺の心臓が、一度、大きく打った。
「五千年、私は誰かがいる場所で眠ったことがない。眠る必要がなかった。眠れば隙ができる。隙ができれば殺される。それが五千年の前提だった」
「…………」
「それが、崩れた」
彼女は紙を畳んだ。
「私は、お前がいる場所で、剣を手の届かない位置に置いて、目を閉じた。そして眠った。よく眠った」
「……ああ」
「なぜそうしたのか、私にはいまだに説明できん」
リリスはまっすぐ俺を見た。
「説明できない現象が起きた場合、棄却した仮説を再検討するのが筋だ。よって、私は仮説を採用する」
「採用」
「私は、お前に恋をしている」
◆
噴水の工事の音が止まった。
石工が休憩に入ったのだ。それだけだ。それだけなのに、広場が急に静かになった。
俺は、何も言えなかった。
――作戦は、成功した。
六度勝てなかった相手が、今、自分から丸腰でここに立っている。三ヶ月かけて、俺はこれを狙ってきた。惚れさせて、油断させて、隙をつく。そのための三ヶ月だ。
完璧だ。
完璧なのに、なぜ、俺は今、逃げ出したくなっているんだ。
◆
「で、お前はどうなのだ」
「……は?」
「報告は済んだ。次はお前の番だ」
「いや、俺の番って」
「私だけが結論を出して、お前が出さないのは不公平だ」
正論だった。
俺は口を開いた。
三年間、この場面を何十回もくぐってきた。言うべき台詞は、体が覚えている。喉まで出かかっていた。「俺も、お前のことが――」
「待て」
リリスが手を上げた。
「なんだよ」
「今から言うそれは、語録にあるやつではないだろうな」
「……」
「あるのか」
「……ない」
「本当か」
「たぶん」
「たぶん?」
「……ある」
「言い直せ」
「厳しくないか!?」
◆
俺は頭をかいた。
語録を通せる言葉が、俺の中にはほとんど残っていなかった。三年分の在庫が、全部押収されたようなものだ。
だから、在庫にないものを探すしかなかった。
「……お前が、七十二セロ握って、重いって言った時な」
「なんだ、急に」
「あの時、俺、なんか、変な気持ちになったんだよ」
「変な気持ち」
「うまく言えない。でも、あれが最初だった気がする」
リリスは黙って聞いていた。
「あと、皿を四十枚割った時。あれも良かった」
「割ったのを褒めるな」
「褒めてる。あの後、お前、三十秒かけて一枚洗っただろ。震えながら。あれ見て、なんか、」
「なんだ」
「……この女、負ける気ないんだなって思った」
俺は自分の膝を見た。
「俺は、そういうのに弱いんだと思う」
しばらく、返事がなかった。
顔を上げると、リリスがそっぽを向いていた。
尻尾が、ぶわっと膨らんでいた。
「……採用する」
「何を」
「今のは、語録にない」
「そりゃそうだろ」
「以後、そういうものだけを言え」
「難易度が高すぎる」
◆
「では、条件を確認する」
リリスが懐から、別の紙を取り出した。
「また書類か!」
「双方の合意事項を明文化しておかねば、後で揉める」
「誰の入れ知恵だ」
「ザガンだ」
「あいつのせいか!」
彼女は読み上げた。
「一つ。週に一度の面会は継続する。ただし予約は双方向とする」
「もうそうなってるだろ」
「二つ。私の正体を明かすな。面倒になる」
「それは最初に聞いた」
「三つ。まずいものを出したら、斬る」
「まだ生きてたのかその条項!」
「基本条項だ」
「基本!?」
リリスは紙をめくった。
「四つ。今後、お前が私に言う言葉は、すべて新規のものとする。既出の場合は無効とし、言い直しを命じる」
「厳しいって言ってるだろ!」
「五つ」
「まだあるのか」
彼女は少しだけ、言い淀んだ。
「……手を、繋いでもいいことにする」
俺はしばらく紙を見つめた。
「それ、条件なのか」
「条項だ」
「条項なんだ」
「文句があるか」
「ない」
◆
帰り道、俺たちは手を繋いで歩いた。
条項四番のせいで、俺は道中ほとんど喋れなかった。何を言おうとしても、既出のような気がして口を閉じてしまう。
リリスは満足そうだった。
「静かでいいな」
「お前のせいだよ」
「効果が出ている」
「効果って言うな」
彼女の手は、思ったより小さかった。皿洗いのせいで、少し荒れていた。マーサの手袋は、どうやら使っていないらしい。
◆
城の門の前で、リリスは足を止めた。
「カイル」
「なんだ」
「一つ、頼みがある」
「……なんだよ、あらたまって」
彼女はしばらく黙ってから、言った。
「近いうちに、父に会ってほしい」
◆
夜風が吹いた。
門の向こうで、ザガンが書類を閉じる音がした。
「……父」
「そうだ」
「父って、あの」
「一人しかいない」
俺は、自分の顔から血の気が引いていくのを、はっきりと感じた。
――作戦は、順調だ。
俺は心の中で、そう唱えた。
唱えたが、今夜は一度も、意味が入ってこなかった。
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