第十二話 眠っている今なら
冒険者ギルドの掲示板の前で、俺は依頼書を三枚に絞った。
一枚目。下水道の大鼠駆除。報酬三百セロ。日帰り。
二枚目。商隊の護衛。報酬八百セロ。片道半日。
三枚目。東の街道、魔物の群れの討伐。報酬一万二千セロ。街道を二日行程。
俺は三枚目を剥がした。
報酬が良いからだ。十二万セロの借金があるのだから、当然の判断だ。
――二日行程ということは、途中で一泊する。
俺はその事実を、頭の中で一度だけ確認して、依頼書を受付に出した。
◆
「カイル」
ギルドを出たところで、声をかけられた。
ミラだった。杖を肩に担いで、壁にもたれている。待ち伏せだ。
「……よう」
「東の街道の依頼、取ったでしょ」
「なんで知ってる」
「掲示板見てたのよ、あんたの後ろで」
この女、本当に嫌いだ。
「一人で行くの?」
「連れがいる」
「へえ」
ミラは杖の先で地面をつついた。
「あたし、三日前に鉄床亭に行ったのよ」
背筋が伸びた。
「あんた、カウンターの端に座って、皿洗いの子をずーっと見てた。六時間くらい」
「見てない」
「見てた」
「……たまたま目に入っただけだ」
「ふうん」
ミラは顔を上げた。
「ねえカイル。あたしね、あんたの嘘は三年分聞いてるの」
「…………」
「町の娘に言ってた嘘も、宿の女将に言ってた嘘も、全部そばで聞いてた。あんた、嘘つく時、絶対に相手の目を見るのよ。上手いなあって思ってた」
「褒めてるのか」
「褒めてない」
彼女は杖を担ぎ直した。
「でもあの日、あんた、あの子と話す時、一度も目を合わせてなかった」
俺は何も言えなかった。
「あんたが本気で嘘ついてる顔、初めて見たわ」
ミラは背を向けて歩き出した。
「ガロンとノエルには黙っといてあげる。あの二人、心配して泣くから」
「……悪いな」
「それと」
彼女は振り返らずに言った。
「死なないでよ。どっちも」
◆
東の街道は、思ったより退屈だった。
リリスは新しい服の上に古い外套を羽織り、剣を提げて隣を歩いている。人間の速度に合わせて歩くのは、彼女にとってかなりの苦行らしい。
「遅い」
「これが普通なんだよ」
「三倍の速度で移動できる」
「俺が死ぬ」
「背負ってやってもいいぞ」
「勇者が魔王の――」
俺は言いかけて口を閉じ、周囲を見回した。街道に人影はない。
「……勇者が女に背負われて依頼に行くか!」
「合理性より体面か」
「体面も大事なんだよ」
◆
しばらく歩いてから、俺は思い切って聞いた。
「一つ、聞いていいか」
「なんだ」
「今回の依頼、その……気分は悪くないのか」
「なぜだ」
「いや、相手が魔物だから」
リリスは足を止めた。
本気で意味がわからない、という顔だった。
「なぜ私が、あれを気にする」
「同族なんじゃないのか」
「同族?」
彼女は俺をまじまじと見た。
「お前は、野の狼を同族だと思うのか」
「思わないな」
「そういうことだ」
リリスは歩き出した。
「城で飼っているものには印がある。餌をやり、配置し、給金の代わりに肉をやる。逃げられると補充が面倒だ。あれは我々のものだ」
「なるほど」
「だが、野に出たものは違う。誰が育てたものでもない。ただ増えて、ただ腹を空かせて、里に降りる。獣だ」
「……獣か」
「獣だ」
彼女はそこで、少しだけ振り返った。
「まさかとは思うが」
「なんだよ」
「お前たちは、野の魔物を、私の手先だとでも思っているのか」
俺は、答えられなかった。
思っていた。
三年間、ずっとそう思って、斬ってきた。
「……教会が、そう教えている」
「そうか」
リリスは、それ以上何も言わなかった。
言い返されなかったことの方が、なぜか、ずっと重かった。
◆
現場は、街道沿いの雑木林だった。
群れは十四体。中型が十二、大型が二。ギルドの報告書通りだ。
俺は剣を抜き、陣形を考え、崖を背にして戦う算段を組み立て――
終わっていた。
「……は?」
林の中で、何かが倒れる音が三回した。それだけだった。
リリスが戻ってきた。剣を振って、鞘に納める。
「終わった」
「早すぎるだろ」
「十四体だぞ」
「だからなんだ」
俺は林に入った。
そこにあったものを、どう表現すればいいのかわからない。
魔物は倒れていなかった。魔物だったものが、地面に薄く広がっていた。
俺は六度この女に負けた。負けた時、俺はまだ立っていた。歩いて帰れた。
――手加減されていたのだ、と、今さらのように理解した。
六度とも。全部。
「どうした」
リリスが後ろから覗き込んだ。
「……いや」
俺は自分の膝が少し笑っているのに気づいて、それを悟られないように歩き出した。
◆
問題は、報酬の受け取りだった。
「証拠がない」
俺は林の真ん中で頭を抱えた。
「証拠?」
「討伐証明だよ。角とか牙とか、そういうのを持ち帰って、それで報酬が出る」
「持ち帰れる形状のものが、ない」
「ないんだよ!」
リリスは地面を見た。それから、真顔で言った。
「……土ごと持って帰るか」
「一万二千セロ分の土を!?」
「重いな」
「重いとかの問題じゃない!」
結局、俺たちは一時間かけて、原型を留めている破片を探した。二体分の角が見つかった。十四体分の依頼で、二体分。
「……減額だな」
「いくらになる」
「たぶん、二千セロくらいだ」
「一万減った」
「お前が強すぎるからだ」
「理不尽だ」
「理不尽だな」
俺たちはしばらく黙って、それから同時にため息をついた。
「……次から、加減して斬る」
「そうしてくれ」
魔王の娘に討伐の効率を落とさせる冒険者ギルド。制度というのは、つくづく恐ろしい。
◆
日が暮れた。
街道沿いの、小高い草地で野宿することになった。近くに宿はない。
――一番近い宿場町は、この地点から半日先だ。
俺は依頼書を選んだ時、それを知っていた。
◆
焚き火を起こすのに、リリスはひどく苦戦した。
「火が、つかん」
「そりゃ、いきなり太い枝に火をつけようとしてもな」
「魔法で燃やす」
「やめろ。林ごと燃える」
「加減する」
「今日の加減の実績を思い出せ」
リリスは黙った。
結局、俺が細い枝から順に積んで火をつけた。彼女はそれを、しゃがみ込んでじっと見ていた。
「……手順があるのだな」
「あるんだよ」
「私は、五千年、火を起こしたことがない」
「そりゃそうだろうな」
「必要がなかった」
彼女は火に手をかざした。
「必要がないというのは、案外、損をしているのかもしれん」
◆
乾いた肉と硬いパンを分けて食った。
うまくはなかった。だがリリスは「これはこれで悪くない」と言って、二つ食った。
「なあ」
「なんだ」
「五千年生きてて、外で寝たことは?」
「ない」
「一度も?」
「城で寝る。それ以外に理由がない」
「じゃあ、今日が初めてか」
「そうなるな」
彼女は空を見上げた。
街道の夜空は、王都より星が多い。
「……多いな」
「王都は灯りが多いからな」
「そうか」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
火が爆ぜる音だけがしていた。
◆
「寝るぞ」
リリスが立ち上がった。
「見張りは?」
「必要ない。半里以内に生き物がいれば、私にはわかる」
「便利だな」
「便利だ」
彼女は毛布を広げ、焚き火の脇に横になった。
――そして、俺の方を向いて目を閉じた。
俺はそれを見て、少しの間、動けなくなった。
野宿で背中を火に向ける者はいない。熱いし、明るいし、何より、背後が闇になる。剣を持つ者なら誰でも、背を守って寝る。
この女は、逆をやった。
背中を闇に晒して、俺の方を向いて、目を閉じた。
剣は、手の届かない場所に置かれていた。
◆
俺は、火の反対側に座っていた。
距離、四歩。
彼女の呼吸が、深く、長くなっていくのがわかった。
三十分ほど経った。
◆
俺は立ち上がった。
焚き火を回り込んで、彼女の横に立った。
距離、一歩。
寝顔は、思ったより幼かった。角がなければ、街のどこにでもいる女に見えただろう。前髪が一房、頬にかかっていた。
俺は剣の柄に手をかけた。
鞘から抜いた。
音は、しなかった。
刃を下ろせば、届く。この距離なら、外さない。相手が誰であれ、外さない。三年間、そうしてきた。
俺は刃を持ち上げた。
持ち上げて、
そのまま、静止した。
◆
腕が、動かなかった。
力が入らないわけではない。震えているわけでもない。ただ、下ろすという動作が、実行されなかった。
俺は自分の腕を見た。
腕は、俺の腕だった。俺の意思で持ち上げたはずの腕だった。
なのに、下りない。
火が爆ぜた。
リリスの前髪が、少し揺れた。
俺は剣を鞘に戻した。
戻して、火の反対側に座り直した。
◆
それだけだ。
俺は何も考えなかった。言い訳も、正当化も、反省もしなかった。
ただ座って、火を見ていた。
朝まで、一睡もしなかった。
◆
「よく眠った」
夜が明けて、リリスは起き上がるなり、そう言った。
「そうか」
「地面は硬い。だが、悪くない」
「そりゃよかった」
「お前は寝たのか」
「寝た」
「嘘だな」
「なんでわかる」
「顔が死んでいる」
俺は自分の頬をこすった。
「……見張りをしてた」
「必要ないと言った」
「勇者の習性だ」
「そうか」
リリスは毛布を畳みながら、こちらを見ずに言った。
「私は、五千年、誰かがいる場所で眠ったことがない」
「……そうか」
「案外、眠れるものだな」
◆
帰り道。
二体分の角を袋に入れて、俺たちは街道を歩いていた。
「二千セロだと、返済期間はどうなる」
「四年七ヶ月からは減るんじゃないか」
「計算する」
「歩きながらするな」
リリスは指を折って計算していた。
俺は、その横顔を見ていた。
昨夜、俺は剣を抜いた。抜いて、下ろせなかった。
なぜだ、とは考えなかった。考えたら、たぶん、答えが出てしまう。
「二十八日、短縮された」
「そりゃよかったな」
「四年六ヶ月と、少しになった」
「まだ長いな」
「長い」
リリスは袋を担ぎ直した。
「……まあ、急ぐ理由もない」
俺は返事をしなかった。
寝不足で、頭がうまく回らなかったからだ。
たぶん、そうだ。
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