第十一話 五千年目の初めて
冷静に、状況を整理しよう。
俺は宿の寝台に寝転がり、天井を見つめながら、これまでの成果を数えた。
一つ。魔王城への立ち入りが認められた。週に一度、予約制で。
二つ。彼女は人間の街に降りてくるようになった。
三つ。人間の服を着るようになった。
四つ。皿を洗うようになった。
――作戦は、順調だ。
俺は起き上がり、自分に頷いた。順調だ。極めて順調だ。
なにしろ、六度殺し合った相手が、今や城下町で時給十二セロで働いている。これを戦果と呼ばずして何と呼ぶ。
……いや、待て。
どれ一つとして、俺が仕向けたものではないな?
◆
問題は、そこではない。
問題は、隙がないことだ。
俺は思い出せる限りの場面を検証した。
酒場。エールを四杯飲ませたことがある。顔色一つ変わらなかった。五千年生きた肝臓は伊達ではない。
街中。背後を取ろうとしたことがある。取れなかった。人混みでも、彼女は常に壁か柱を背にしている。無意識だ。無意識で完璧だ。
厨房。皿を洗っている最中でも、俺が三歩以内に近づくと、必ず一度こちらを見る。
剣を持っていない時ですら、この女は隙を見せない。
――なら、いつだ。
人間が――いや、生き物が、唯一、完全に無防備になる瞬間は、いつだ。
答えは、一つしかない。
◆
眠っている時だ。
俺は寝台の上で、その結論に到達した。
つまり、あいつが俺の前で眠る関係にならなければ、この作戦は完遂できない。
つまり、そういう関係まで、持ち込まなければならない。
……。
…………。
俺は毛布を頭からかぶった。
「気持ち悪ぃ……」
俺は今、何を考えた。
惚れさせて、寝床に持ち込んで、寝首をかく。
文字にすると最悪だ。声に出したら王都から追放されるやつだ。
――だが、平和のためだ。
俺はそう自分に言い聞かせた。
この女を止められなければ、いずれ誰かが死ぬ。俺の仲間かもしれないし、ニナかもしれないし、名前も知らない誰かかもしれない。そのために俺は三年歩いてきた。
……そのはずだ。
毛布の中は、やたらと暑かった。
◆
一方その頃、リリスは宿題に取り組んでいた。
俺がそれを知ったのは、後になってからだ。
◆
【聞き取り一件目・鉄床亭 ガド】
「なあ、主人」
「おう、なんだい嬢ちゃん」
「症状がある。診断してほしい」
「俺ぁ医者じゃねえぞ」
「胸のあたりが熱い。だが痛い。心臓ではない。喉に近い。特定の人物の話題が出た時に悪化する」
ガドは布巾を置いた。
「そりゃあ、恋だな」
「恋」
「ああ」
「恋とは何だ」
「……いや、そりゃあ、なんだ、こう、好きってこったな」
「好きとは何だ」
「好きは、好きだろ」
「説明になっていない」
「なってねえな」
ガドは腕を組んで唸った。
「二十年客商売やってるが、それを説明できた客は一人もいねえ」
◆
【聞き取り二件目・マーサ衣裳店】
「あらまあ! いい話じゃないのぉ!」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてあるよ」
「私は無表情だ」
「無表情の子ほどわかりやすいんだよ」
マーサは採寸用の紐を首にかけたまま、にやにやしていた。
「で、カイルちゃんのどこがいいんだい?」
「なぜカイルの話になる」
「え、違うのかい」
「…………」
「あら」
「……なぜ、わかった」
「あんた今、名前出されただけで尻尾が動いたよ」
リリスは自分の尻尾を押さえた。
「これは、生理現象だ」
「そうだねぇ。生理現象だねぇ」
◆
【聞き取り三件目・傭兵 ゴズ】
「姐さん! 俺に聞いてくれるとは光栄です!」
「症状の話だ」
「はい!」
「胸が熱い。痛い。喉に近い」
「それは……胸焼けでは」
「違う」
「油ものを控えるといいと聞きます」
「唐揚げは減らさん」
「じゃあ、しょうがねえっす」
リリスはこの男を候補から外した。
◆
【聞き取り四件目・魔王城門前 ザガン】
「……という症状だ。前例はあるか」
「お待ちください」
ザガンは四本の腕で規約集を三冊同時に開いた。
「魔族傷病分類、第一種から第七種まで確認いたしましたが、該当なし」
「ないのか」
「呪詛、毒物、精神干渉、いずれの様式とも一致いたしません」
「では何だ」
「未分類です」
「未分類」
「前例のない症例は、未分類として記録し、経過を観察するのが規定です」
ザガンは羽ペンを走らせた。
「記録いたします。『リリス様、未分類の症状。発症時期、およそ一ヶ月前』」
「一ヶ月前?」
「業務日誌によれば、勇者カイルが門を二時間叩いた日の翌週から、リリス様の外出頻度が増加しております」
「……日誌を閉じろ」
「業務日誌は正確に書く決まりですので」
「閉じろ」
「はい」
◆
【聞き取り五件目・三番通り エルザ】
これが一番まずかった、と後で俺は思った。
「ふうん。それで、あたしに聞きに来たわけだ」
「客観的な意見が欲しい」
エルザは椅子にもたれ、リリスをじっと見た。
「あんた、あの男のどこが良かったんだ」
「良いなどとは言っていない」
「じゃあ質問を変える。あの男の何が、他の男と違った」
リリスは黙った。
長い時間、黙った。
それから、こう言った。
「……あいつは、私に敵わない」
「そりゃそうだろうね」
「敵わないのに、来る」
「うん」
「六度――」
そこで、リリスは口を閉じた。
「六度?」
「……何度断っても、次の日には来た。二時間、外で待っていたこともある」
「二時間」
「待っていた」
エルザは何も聞かなかった。
何を断ったのか。どこの外で待っていたのか。聞けばいくらでも出てくる話を、この女は一つも聞かなかった。聞かないと決めた顔だった。
「そりゃ馬鹿だね」
「馬鹿だ」
リリスは、少しだけ、口の端を上げた。
「……私は長く生きた」
「そうかい」
「私に断られて、次の日また来た者は、あいつが初めてだ」
エルザは長く息を吐いた。
「……あんたさ」
「なんだ」
「それ、もう答え出てるよ」
「出ていない」
「出てるって」
「出ていない」
◆
その夜、リリスは鉄床亭の裏口で俺を待っていた。
手に、紙を持っていた。
「調査結果をまとめた」
「……何の」
「宿題だ」
彼女は紙を広げた。几帳面な字で、証言者と回答が並んでいた。ザガンの影響だ。あの男の書式が完全に移っている。
「一件目、ガド。回答『恋』。ただし定義不能」
「定義不能」
「二件目、マーサ。回答『尻尾が動いた』。診断名なし」
「なんだそれ」
「三件目、ゴズ。回答『胸焼け』」
「そいつは外していいぞ」
「外した」
「四件目、ザガン。回答『未分類』」
「役に立たねえな」
「五件目、エルザ。回答『もう答えが出ている』」
リリスは紙を下ろした。
「以上だ」
「……で、結論は」
「結論。恋という仮説は、棄却する」
「棄却するのかよ!」
「する」
「なんでだよ! 三件のうち二件が同じこと言ってるだろ!」
「私は五千年、誰にも心を乱されたことがない」
リリスは腕を組んだ。
「今さら、そんなものが来るはずがない。統計的にありえん」
「五千年の統計を持ち出すな!」
「持ち出す。私の人生だ」
「その人生、今まさに更新されてるんだよ!」
◆
リリスはしばらく黙って、それから紙を丁寧に畳んだ。
「……お前は、どう思う」
「え?」
「お前は、私が何の病だと思う」
俺は答えようとした。
答えようとして、口を開いて、そして――
自分の腹の中に、ものすごく汚いものがあることを、思い出した。
ここで「それは恋だ」と言えば、たぶん一歩前に進む。作戦は進む。順調に、確実に、寝台の方へ進んでいく。
……そのために、俺は、ここにいる。
そのはずだ。
「……わからん」
俺は言った。
「わからんのか」
「わからん」
「役に立たんな」
「悪かったな」
リリスは肩をすくめて、畳んだ紙を懐にしまった。
「六件目、カイル。回答『わからん』」
「記録するな!」
「記録する。全部残しておく」
「なんで」
「いつか、答え合わせをする」
◆
彼女が城へ帰った後、俺は一人で石段に座っていた。
――言えばよかったのだ。
あそこで「恋だ」と言えば、確実に一歩進んだ。作戦上、正解はそれだった。
なのに、言えなかった。
なぜだ。
俺は自分の胸に手を当てた。
熱い。痛い。心臓ではない。もっと上だ。喉に近い。
「…………」
これ、あいつと同じ症状じゃねえか。
「……いや、違う。違うぞ。俺のは緊張だ。作戦が大詰めだからだ」
誰もいない裏路地で、俺は声に出して言い訳をしていた。
情が湧いているのは、認めよう。認めた上で、割り切ればいい。三年間、俺はずっとそうしてきた。感謝されて、笑って、次の町へ行った。今回もそうすればいい。
平和のためだ。
俺はそう唱えて、立ち上がった。
唱えるのに、今夜は、三回もかかった。
お読みいただきありがとうございます! ブックマークや下の☆☆☆☆☆の評価にて応援していただけますと励みになります! どうぞ、よろしくお願いいたします。




