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第32話:読めないカルテの暗号。元婚約者の焦燥と逆恨み

「はぁッ、はぁッ、はぁッ……! どけ、どかんか貴様らッ!!」


王宮の西翼から王立薬草院へと続く大理石の回廊を、一人の男が狂乱の形相で疾走していた。

かつては純白を誇り、金糸の刺繍が絢爛に輝いていた筆頭錬金術師のローブは、泥と、床に飛び散っていた騎士たちの吐血、そして先ほどミレーヌの爛れ果てた顔面から擦り付けられた黄色い膿によって、無残なまでに汚損されていた。

すれ違う見習い調合師や文官たちが、異臭と鬼気迫る形相に怯えて左右へと飛び退く。だが、ユルゲン・フォン・ブラントの視界には、もはや周囲の人間など塵芥ほどにも映っていなかった。


ドクン、ドクン、ドクン、と耳の奥で早鐘を打つ心臓の音。

喉の奥がカラカラに渇き、鉄の味がする。

脳裏に焼き付いて離れないのは、医務室の床を埋め尽くしていた騎士たちの痙攣と、コーラ色の濁った尿。そして――顔面をドロドロの肉塊に変異させ、獣のようにのたうち回っていたミレーヌの断末魔だった。


(死ぬ……! このままでは、私が死刑台に送られる……ッ!)


中央騎士団長ヴァルター卿の、あの射殺すような冷徹な眼差し。

老軍医たちの告発。

もし中央騎士団の壊滅が国王の耳に入れば、いかにブラント侯爵家の権勢があろうとも庇いきれるはずがない。軍への劇薬散布、国家反逆、大量致死傷――待っているのは、貴族籍の剥奪どころか、広場での公開処刑だ。今まで見下し、踏みつけにしてきた平民たちの前で、首を斬り落とされる。その恐怖が、冷たい氷の爪となってユルゲンの心臓を鷲掴みにしていた。


「あいつだ……! あいつが何か知っている! あいつが隠しているはずなんだ!!」


ユルゲンは薬草院の正面階段を一気に駆け下り、普段は立ち入ることすらない地下層へと飛び込んだ。

薄暗く、湿気と乾燥ハーブの埃っぽい匂いが淀む最下層の通路。

その最奥にある、かつてエレナ・ノールが押し込められていた「下級調合室」の木製扉を、ユルゲンは体当たり同然の勢いで蹴破った。


バァァァンッ!


蝶番が軋みを上げ、埃の舞う室内へと雪崩れ込む。

そこは、王立薬草院の華やかな地上フロアとは完全に隔絶された、窓すらない地下の小部屋だった。

置かれているのは、使い古されて傷だらけの木製作業台、真鍮の小さな乳鉢、煤けた蒸留器、そして壁際に並ぶ無骨な薬草棚。

エレナが追放されてからすでに何週間も放置されていたため、部屋全体にうっすらと白い埃が積もっていた。


「どこだ……! どこにある、エレナァッ!!」


ユルゲンは獣のように吼えながら、作業台へと突進した。

机の上の棚に手をかけ、並んでいたガラス瓶や乾燥生薬の木箱を手当たり次第に薙ぎ払う。

ガシャァァン! パリィィン! と甲高い破砕音が地下室に響き渡り、琥珀色の薬液や茶褐色の粉末が床一面にぶちまけられた。


「引き出しだ! この中に隠してあるはずだ!」


ユルゲンは作業台の引き出しを力任せに引いた。鍵がかかっていたが、狂乱の火事場馬鹿力で木枠ごとバリバリとへし折る。

中から飛び出してきたのは、古びた羊皮紙の束、調剤用の精密ハサミ、そして――。

引き出しの二重底の隙間に、ひっそりと挟み込まれていた、一冊の分厚い手帳だった。


黒い革表紙は長年の使用によって端が擦り切れ、薬品による染みが無数についている。

表紙には、見慣れぬ細身のペンで、整然とした文字が刻まれていた。


「あ……あった……! これだッ!!」


ユルゲンの喉から、狂喜の叫びが漏れ出た。

埃まみれの床に膝をつき、震える両手でその黒いノートを掻き抱く。


エレナがかつて、朝から晩まで肌身離さず持ち歩き、何事かを猛烈な速度で書き留めていた門外不出の研究ノート。

追放の辞令を突きつけたあの日、エレナは私物の多くを売り払って旅立ったが、この下級調合室の奥底に、過去の基礎研究の控えが眠っていたのだ。


「ハハッ、見つけたぞ! 見つけたぞエレナ! お前が私のポーションの欠陥を指摘できたということは、その副作用を抑えるための処方比率も、解毒の方法も、すべてこの中に書き記してあるはずだ!」


ユルゲンは浅黒い笑みを浮かべ、よだれを垂らしそうな勢いでノートの留め金を外した。

これを持ち帰り、自分の名前で清書して「新型ポーションの中和剤」として発表すればいい。

騎士たちの吐血を止め、ミレーヌの爛れた肌を塞ぎ、すべての手柄を我が物にすれば、私は再び王都の英雄、筆頭錬金術師の座に返り咲くことができる!


「さあ、見せろ! 私の栄光の続きを――!!」


バサリ、と。

ユルゲンは勢いよくノートの最初のページを開いた。


――だが。


「…………は?」


ユルゲンの口から、間抜けな声が漏れ出た。

血走っていた青い瞳が、ページの中央でピタリと凍りつく。

ページをめくる。

二ページ、三ページ、十ページ、五十ページ――。

めくれども、めくれども。


「な……何だ、これは……?」


ユルゲンの額から、タラリと冷たい汗が滑り落ちた。

ノートにびっしりと書き込まれていたのは――彼が知る「錬金術の言語」ではなかった。


魔法陣がない。

四大属性の循環記号がない。

魔素の励起現象を示す幾何学模様が、どこを探しても一つとして描かれていない。

そこに並んでいたのは――定規で引かれたような精密な二軸のグラフ、何重もの升目で区切られた表、そして――見たこともない奇妙な表音文字と略語の羅列だった。


『患者背景:体表面積(BSA)算出に基づく初期クリアランス推定』

『TDM(Therapeutic Drug Monitoring:薬物血中濃度モニタリング)プロトコル』

『定常状態到達後のトラフ値測定:目標治療域 15〜25μg/mL』

『中毒域(>40μg/mL)超過時の緊急ウォッシュアウト手順』

『腎機能低下時(Ccr<30mL/min):投与間隔を24hrから48hrへ延長、初回負荷量(Loading Dose)設定に留意』

『NSAIDs類似抗炎症生薬併用時:COX-1阻害に伴う胃粘膜血流低下およびプロスタグランジン枯渇による急性胃潰瘍リスク極大。必ず防御因子増強剤(スクラルファート様粘液成分)を同時投与のこと』

『浸透圧調整:生体等張点(280〜300mOsm/kg)を逸脱せる高張液の局所投与は、角質バリア破壊下の真皮組織に対し不可逆的化学熱傷を惹起す』


「な……なんだ、これは……!? てぃー、でぃー、えむ……!? みおぐろびん……!? しー、しー、あーる……!?」


ユルゲンは目を白黒させ、ノートを顔の前に近づけたり、遠ざけたりした。

横書きに走る、カタカナとアルファベット、そして前世の臨床医学略語が混ざり合った独特のカルテ言語。

それは、異世界の公用語の文字を借りてはいるものの、概念そのものがこの世界のオカルト魔術体系とは完全に断絶した、未来の「近代薬理学・薬物動態学(ファーマコキネティクス)」そのものだった。


「読めん……! 読めんぞ! なんだこの文字は!? 魔力式の展開図はどこにある!? 月属性の触媒比率は何対何だ!?」


ユルゲンは狂ったようにページを破らんばかりの力でめくり続けた。

しかし、どのページを開いても、目に飛び込んでくるのは冷徹な客観データばかりだった。

用量反応曲線。

半減期(t1/2)の計算式。

分布容積(Vd)と消失速度定数(ke)の微分方程式。

胃酸分泌の攻撃因子と粘膜防御因子のシーソー理論。


ユルゲンが信奉してきた錬金術とは、「高貴な魔力を祈りとともに込めれば、奇跡の光が傷を塞ぐ」という、あやふやな神秘主義の産物だった。

だが、エレナが記録していたのは、人体の生理学的構造を精密機械のように解体し、物質の物理化学的性質を生体受容体(レセプター)との結合確率として定量的に計算する――徹底した「科学」だったのだ。


「なぜだ……! なぜ文字が光らない!? なぜ魔力が込められていないんだ!?」


ユルゲンは手帳を激しく振った。

魔力を帯びた秘術書であれば、術者の魔力に反応して青や金の光を放ち、頭の中に直接知識が流れ込んでくるはずだった。

だが、エレナのノートは、ただの古びた紙とインクの塊のまま、冷たく沈黙している。

光など微塵も放たない。

オカルトのエネルギーに頼らず、人体の理を淡々と記した紙片は、魔力しか感知できない無能な錬金術師の目には、ただの「意味不明な落書きの山」にしか映らなかった。


「う、嘘だ……! こんなもの、薬の処方箋であるはずがない! あの女は……あの落ちこぼれの男爵令嬢は、一体何を考えていたんだ!?」


ユルゲンの脳髄に、ドス黒い屈辱感が津波のように押し寄せてきた。

理解できない。

王都筆頭錬金術師であるこの自分が、最高学府を首席で卒業したこの天才が――あの、いつも自分の後ろで泥臭い薬草を刻んでいた地味な小娘の残したノートを、一文字たりとも解読できないという事実。


それは、ユルゲンがこれまで築き上げてきた傲慢なプライドの根底を、粉々に叩き割る現実だった。


(私は……私は理解できないのか……? あいつの知識に、私の頭脳が……追いついていないというのか……!?)


その思考が頭をかすめた瞬間、ユルゲンの顔面が怒りと屈辱で真っ赤に沸騰した。

認めるわけにはいかない。

あんな無能の女が、自分より高度な知識を持っていたなどと、天地が引っくり返っても認めてなるものか!


「ふざけるな……! ふざけるなよ、エレナァッッッ!!」


ユルゲンは立ち上がり、手にしたノートを床の石畳へと力任せに叩きつけた。

バチンッ! と鈍い音が地下室に木霊する。


「暗号だ! これは私に対するあてつけだ! あの女狐め、最初から私を陥れるつもりで、デタラメな暗号を書き残していきやがったんだ!!」


ドガッ! と、ユルゲンは床に落ちたノートを自らの革靴で踏みにじった。

何度も、何度も、狂ったように踏みつける。

紙が破れ、革表紙が裂け、エレナが前世の記憶と今世の努力を積み重ねて書き留めた尊い記録が、泥と埃に塗れていく。


「私を愚弄する気か! 私がこのノートを探しに来ることを見越して、わざと読めない呪い文字を並べて嘲笑っているのか!? おのれ……おのれエレナ! どこまでも小賢しく、醜悪で、性悪な女だ!!」


自らの無知を棚に上げ、すべての責任をエレナの「悪意」へとすり替える。

救いようのない、哀れで醜悪な自己正当化。

ユルゲンは床に散らばった破片を拾い上げ、ビリビリと手で引き裂きながら、唾を飛ばして叫び狂った。


「誰が助けなどを乞うものか! 貴様の残した泥水のような戯言など、一文字たりとも必要ないわ! 私のハイ・エーテルポーションは完全無欠だ! 間違っているのは貴様の方だ! 貴様が辺境で、私を陥れるために邪悪な呪いを王都へ送り込んでいるに決まっている!!」


息を切らし、胸元を掻きむしるユルゲンの瞳に、常軌を逸した狂気が宿る。

ノートが読めない以上、兵士たちの副作用を治療する術はない。

ミレーヌの壊死した顔面を元に戻す方法もない。

ならば――どうするか?


自分が生き残る道は、たった一つしかなかった。


(……そうだ。私のせいではないのだ)


ユルゲンは歪んだ口元を吊り上げ、引き攣った笑みを浮かべた。


(騎士たちが倒れたのも、ミレーヌ様の顔が爛れたのも……すべて、あの女の仕業だ。王都を追放されたことを逆恨みしたエレナが、ハーディン辺境伯と結託し、中央騎士団を内部から崩壊させるために、我がポーションに遅効性の呪詛毒を混入させたのだ! そうだ、そうに決まっている!!)


完璧な筋書きだ、とユルゲンは歓喜に震えた。

すべての罪を、あの北方の追放令嬢と、冷酷な辺境伯へと擦り付ける。

そうすれば、自分は「毒を盛られた被害者」となり、中央騎士団の壊滅は「辺境伯の国家反逆の証拠」となる!

討伐軍を動かし、辺境伯城を急襲してエレナを捕縛し、拷問にかけて「解毒のレシピ」を力ずくで吐かせればいい!


「ハハ……アハハハハッ! そうだ、それしかない! 待っていろエレナ、貴様の首に鎖を巻きつけ、私の足元に這いつくばらせてやる!!」


ユルゲンは破り捨てたノートの残骸を踏みにじると、血走った目を剥き出しにして、地下室から飛び出した。

目指すは――中央騎士団長ヴァルター卿の執務室。


◇


数十分後。

中央騎士団本部・団長執務室。


「――何だと!?」


重厚な執務机を両手で叩き、ヴァルター卿が立ち上がった。

その眼前には、息を切らし、汚れたローブの胸元を握りしめたユルゲンが、悲痛極まりない芝居がかった表情で平伏していた。


「ヴァルター卿! 信じていただきたい! 私は王立薬草院の過去の調合記録をすべて洗い直しました! その結果……恐るべき陰謀の証拠を掴んだのです!」


「陰謀だと……? 騎士団の集団中毒が、何者の仕業だと言うのだ!」


「エレナ・ノールです!!」


ユルゲンは声を張り上げ、机の上に一枚の偽造された成分分析書を叩きつけた。


「あの女は、追放される直前、王立薬草院の原料保管庫に保管されていた『ハイ・エーテルポーション』の基剤に、北方の遅効性神経毒――魔力を暴走させて内臓を内側から焼き尽くす猛毒を混入させていたのです! 私が気付かぬよう、極めて巧妙に、時間をかけて兵たちの体を蝕むように仕組まれていたのですよ!」


「な……男爵令嬢エレナが……!?」


ヴァルター卿の眉がピクリと跳ねる。

ユルゲンはここぞとばかりに、まくし立てた。


「それだけではありません! かの女が左遷された先は、あの『氷血の狂犬』ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯の膝元! 辺境伯はかねてより中央政府の統制を嫌い、北方の独立を画策していた不穏分子……! 二人は最初から通じていたのです! エレナが毒を撒き散らして中央騎士団の戦力を奪い、その隙に辺境伯軍が王都へ攻め上る……! これは、ハーディン辺境伯による明白な『国家反逆の狼煙』ですぞッ!!」


「国家……反逆……」


重苦しい言葉が、執務室に落ちた。

ヴァルター卿の瞳が、急速に鋭く、濁った光を帯びていく。

ヴァルター卿自身もまた、ユルゲンのポーションを全軍採用した最高責任者だった。このまま兵の集団中毒の責任を追及されれば、自らの団長の座も危うい。

だが――もしこれが「辺境伯の反逆による毒殺テロ」であるならば。

責任はすべて辺境伯とエレナに押し付けることができる。

それどころか、反逆者を討伐して北方の広大な領地と軍事利権を手に入れれば、自らの武功は帝国史上最大のものとなる。


二人の愚者の、醜悪極まりない利害が――今、完全に一致した。


「……なるほど」


ヴァルター卿の口元に、冷酷な笑みが浮かんだ。


「王立薬草院筆頭の告発とあらば、無視するわけにはいかん。……ハーディン辺境伯め、ついにその牙を王家に向けたか」


「ええ、ええ! ただちに討伐軍を組織し、北方を焦土に変えるべきです! 毒婦エレナを捕らえ、公開処刑台で八つ裂きにしてやりましょう!!」


ユルゲンの歪んだ瞳に、ドス黒い炎が燃え盛る。

自らの調合ミスから始まった破滅の連鎖は、もはや一個人の医療過誤の領域を遥かに超え、国家を二分する巨大な戦乱の嵐へと雪崩れ込もうとしていた。


――だが。

王都の愚者たちが醜い謀略を張り巡らせていた、まさにその同じ刻。

遥か北方のハーディン辺境伯領では、エレナの手によって、世界の医療史を塗り替える「ある偉大なる仕組み」が、正式に産声を上げようとしていたのだった。

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