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第十一話 海の中で


 薄暗いような、ほの明るいような、明度さえ判然としないような場所に、レヴィエントはいた。

 ここがどこなのかは分からない。今がいつなのかも――分からない。気付いた時にはもう、ここにいたのだ。


「……ここは」


 声を出したつもりだった。だが、音になったのかどうかも分からない。口を開いた感覚すら曖昧だった。

 ――海のようだと思った。水の中にいるように、身体はゆらゆら揺蕩っている。だが、全身がすっかり水で覆われているというのに、不思議と呼吸は苦しくなかった。


(……変だな)


 思考だけが、やけに明瞭だ。身体の感覚は曖昧なのに、意識だけは妙に浮いている。


 耳を澄ますと、音が聞こえた。波の音だった。確かに波の音だ。

 ざあ、と寄せては引いていく、遠い海岸のような音。なのに、ここは海のようで、海ではないはずだった。


 視界は暗いのに、何かが見えている気がする。境界のない光と影が、ゆっくりと揺れている。その中にいると、奇妙な安心感があった。その海のような場所は少しだけひんやりとしていて、その感触が妙に心地良い。


(……悪くない)


 そう思った瞬間、身体が沈んだ。

 ぐ、と重さが増す。底のない場所へ、ゆっくりと引きずられていく感覚。それなのに、不思議と苦しくはなかった。

 むしろ――楽だ。


(このままでもいい)


 思考がそう結論づけようとする。

 このまま、ただ沈んでいけばいい。そうすれば、すべてが終わる。


(――終わる?)


 その言葉が浮かんだ瞬間、レヴィエントは妙な胸騒ぎを覚えた。心地良い、ずっとこうしていたいと思うのに――身体が沈むたび、言いようのない焦燥感が胸を焼く。沈むことを選べばいいはずなのに、それを選んではいけない気がした。その違和感だけが、異様に鋭い。


(……早く、ここから抜け出さなくては)


 そう思うと、ふっと身体が軽くなる。水面へ浮かび上がるように、今度はゆっくりと浮上していく。だが、そこにも安定はない。浮かべば浮かぶほど、何かが遠ざかっていく気がした。

 それが何かは分からない。だが、安らぎとは遠いような気がして、少し億劫だった。


(また、沈む……)


 沈んでいくのは、心地良い。しかし、沈んでいく度に、胸の奥が酷くざわつく。戻らなくては、と思って、また少し身体が浮上する。そうすると、あの不思議な心地良さは薄くなる。レヴィエントはどうにもそれが惜しくなって、そう思うとまた少し沈んでいく。その繰り返しだった。


(いや、戻らなくては……でも、どこに?)


 レヴィエントは、沈降と浮上を繰り返しつつ、しかし徐々に沈んでいた。心地良い揺らぎは、レヴィエントを少しずつ底へと呑み込んでいく。


(もう、このままでも……)


 その時だった。レヴィエントは、繰り返される波音の中に、何か別の音が混じったことに気が付いた。

 最初は、それが何か分からなかった。音の輪郭が曖昧で、高さも響きも判然とせず、どんな音か分からない。だが、次第にそれは形を持つようになった。


 ――声だった。誰かの、声。小さく掠れて、震えている。


(……泣き声?泣いて、いるのか)

 

 誰の泣き声なのかは、少しも分からなかった。だが、その声が泣いているのだと認識した瞬間、レヴィエントの胸には一等強い衝動が湧き起こる。


(――戻らなくては)


 レヴィエントは強く、強くそう思った。理由は分からない。それが誰かも、なぜそう思うのかも、どこに戻るのかも分からない。それでも――


(戻らなくては)


 先ほどまでの、このまま沈んでしまいたいという感覚が、すべて消える。代わりに思うのは、戻らなくてはならないという、強い使命感だけだった。


(私は、戻らなければならない)


 その思考だけが、異様なほど鮮明だった。


 身体が急速に浮上し始める。強い力で一気に引き上げられ、ぐんぐんと海面が近づいていく。 波の音が遠ざかる。水ではないはずの何かが、激しく流れ始める。

 

 光が見えた。白くて眩しい、温度のある光だ。

 それはあまりにも眩しくて、目を逸らしたくなるような気がして――それでも逸らしてはいけないのだと、レヴィエントは直感的にそう思った。


 そこに行けばいい。いや――そこに、行かなければならない。


 光へ向かって、身体が急速に浮上していく。水の感触が消える。波の音が消える。すべてが薄れていく中で、あの泣き声だけが耳の奥に残っている。

 そして、視界が真っ白に染まる。レヴィエントはあまりの眩しさに、反射的に目を閉じた。


 一瞬、すべての感覚が消え去って――次の瞬間、身体中にずしりとした重さを感じた。呼吸の感覚が戻る。水の中にいるような感覚はすっかり消え去っているのに、あの時よりよほど息をするのが苦しかった。

 レヴィエントは、ゆっくりと目を開ける。身体の至る所が重くて、瞼を持ち上げることさえ一苦労だった。


 飛び込んできた光は、レヴィエントの視界を真っ白に染めて――視界を取り戻した時、レヴィエントは目の前に、愛しい人の姿を見つけた。


 ――テレシアが、いた。涙で濡れた顔のまま、こちらを見ている。その碧い瞳は、今にも崩れそうなほど揺れていた。


 レヴィエントは、しばらく何も分からなかった。ただ、その顔を見た瞬間、胸の奥に、言葉にならない感覚が落ちる。


(……ああ)


 戻ってきた、と思った。

 唇がわずかに動く。声はまだ出ない。それでも、ひとつだけは分かった。


 ――自分を呼び戻してくれたあの泣き声は、この人のものだったのだ、と。

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