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第十話 一目


 王宮の病室は、過剰なほど静かだった。白い石壁に、規則的に刻まれた魔導照明の淡い光が反射している。微かに薬草と消毒液の匂いがした。

 テレシアは、扉の前で一度だけ立ち止まった。王宮の医務官が控えめに言葉を添える。


「……どうか、ご無理はなさらず」

「ありがとうございます」


 そう答えたテレシアの声は、いつも通り丁寧で、落ち着いていて、淑女のそれだった。


 扉が開く。幾重にも施された治癒魔法の術式の、その中央に、レヴィエントはいた。身体中に包帯とガーゼをあてられ、周囲には医療機器がずらりと並ぶ。そこから伸びるいくつもの管に繋がれて、彼はベッドの上に横たわっていた。


 その姿を見ただけで、テレシアが十八年積み上げてきたはずの淑女としての自制は、あっさりと崩れ落ちた。

 レヴィエントの姿が視界に入った次の瞬間には、テレシアはすでに駆け出していた。


「……っ」


 誰かが息を呑む音がした。侍女か、医師か、護衛か、それすら分からない。テレシアはそれを気にする余裕もなかった。


「レヴィエント、様……」


 テレシアはベッドの横に膝をつく。みっともないとか、はしたないとか、そんなことは少しも考えられなかった。ただ、少しでもレヴィエントの近くにいたかった。


 テレシアは震える手で彼の手を取る。ほんのりと冷たいその感触に、心臓が強く締め付けられた。いつかの、熱ささえ感じる確かな温度は、そこにはない。

 テレシアは、その手を両手で包み込むようにして握った。指先に力が入らない。ただ縋るように、離さないように。自分の手のひらの熱を、ほんの少しでも分け与えられたらと思って。


 唇がわなないて、けれど言葉は出なかった。代わりに、息が乱れる。かすかに肩が震えた。そして――テレシアの頬を、静かに涙が伝った。

 一滴、また一滴と、音もなく、ただ頬を伝って落ちていく。


 その場にいた者たちは、誰も動けなかった。医務官たちは沈黙し、侍女は視線を伏せ、護衛はただ剣の柄を握ったまま立ち尽くしている。

 テレシアは、ずっと完璧な淑女だった。いつでも優雅で、上品で、どんな時でも美しく微笑んでいる。彼女が他人の前で涙を見せたことなど、ごく幼い頃を除けば、たったの一度もなかった。そのテレシアが、取り繕うことさえできずにこれだけ感情をあらわにしていることが、彼らには信じられなかったのだ。


 これまで幾度となく貴族の涙を見てきた者もいた。だが、これは違った。計算も体面も、そこにはない。ただ純粋な涙だった。


 息を吸うことすらためらわれる沈黙の中で、ただ一人、フルリエ公爵だけが静かに動いた。

 彼は何も言わなかった。ただ静かに歩み寄り、テレシアの背後に立つ。そして――そっと、肩に手を置いた。

 その瞬間、テレシアの身体が小さく跳ねるように揺れた。


「……っ、あ……」


 抑えていたものが、そこでふっと切れたかのように、声にならない音が漏れる。次の瞬間、堰を切ったように嗚咽がこぼれた。


「……っ、ああ……っ」


 テレシアの華奢な肩が大きく震える。それでも彼女は、レヴィエントの手を離さなかった。まるでそれだけが、現実と自分を繋ぐ唯一の糸であるかのように。

 フルリエ公爵は、ただ黙ってそれを受け止めていた。


 やがて彼は、周囲に視線を向ける。それだけで十分だった。扉が静かに閉じられ、病室には二人だけが残された。

 テレシアとレヴィエント、たった二人の病室は、まるでこの世から取り残されたような静寂に満ちていた。ただ、テレシアの抑えきれない嗚咽だけが、静かに部屋に響く。


 やがて、テレシアはゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた睫毛のまま、レヴィエントの顔を見つめる。ピクリとも動かない瞼は、固く閉じられたままだ。


「レヴィ」


 声はかすれていた。それでも、確かに彼の名を呼んだ。そう呼んでほしいと、彼が言ったから。


「レヴィ……」


 もう一度。反応のない相手に、それでも呼びかける。


「正しくお呼びできるようになりましたのよ、レヴィ。ご指摘の点を、きちんと直してまいりました」


 その指先が、わずかに彼の手を強く握る。


「だからもう一度、シアと呼んでくださいませ……」


 喉の奥が詰まる。テレシアは、静かに目を伏せた。


「どうして……」


 テレシアは唇を震わせた。

 自分は、何をしているのだろう。ただ彼の手を握って、泣いているだけで。


 フルリエ公爵家の娘として、誰より多くを身につけてきたつもりだった。けれど、傷付いた愛する人を前にして、テレシアは何の力も持たなかった。彼が最も苦しんでいる今でさえ、何一つしてあげられることがない。

 傷を治すこともできず、痛みを取り除くこともできない。ただ、こうして涙を流すことしかできなかった。それがたまらなく情けなくて、悔しい。


「……私は、貴方に……何もしてあげられない」


 テレシアはそっと額をレヴィエントの手に寄せる。涙がまた一滴、静かに零れ落ちた。


 あれほど強く立つ人が、こんなにも無防備に横たわっている。そして、自分はその人のために何もすることができない。

 その事実は、どんな絶望よりも深くテレシアの胸を刺した。


 ただ、生きていてほしい。それだけなのに――そのたった一つの願いすら、自分の力では叶えられない。


 テレシアは唇を噛み締めた。泣いたところで、彼の傷が癒えるわけではない。目を覚ましてくれる保証もない。何も変わらないことは、分かっている。


「レヴィ……」


 震える声で、もう一度その名を呼ぶ。それでも涙は止まらなかった。

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