第十二話 回復
「……シア」
それは、酷く掠れた声だった。吐息と区別もつかないほど小さな声。それでも、テレシアにははっきりと聞こえた。
涙に濡れた碧い瞳が、大きく見開かれる。
「……え」
テレシアは一瞬、何が起きたのか理解できなかった。目の前のレヴィエントが、自分を見ている。閉じられていたはずの瞼が開き、黒曜石のような瞳が、確かにこちらを映していた。
「シア……」
もう一度、掠れた声で名前を呼ばれる。
「……っ」
テレシアの唇がかすかに戦慄いた。次の瞬間には、再び涙が溢れ出す。大粒のそれは、次々と零れ落ち、白いシーツを濡らしていった。
「レヴィ……っ、レヴィ……!」
テレシアは、何度も何度もレヴィエントの名前を繰り返した。張り詰めていた何もかもが、一気に崩れ落ちる。
——生きている。生きて、彼がここにいる。
その事実だけで、胸がいっぱいだった。
————
レヴィエントはぼんやりと彼女を見つめていた。
こんなテレシアは初めてだった。
いつも優雅で、上品で、どんな時も、誰よりも美しい微笑みを浮かべる人。
その彼女が、今は子どものように泣きじゃくっている。髪は少し乱れ、頬は涙で濡れ、表情を取り繕うことさえ忘れている。
(——この人は、自分のためにこれだけ泣いてくれるのか)
身体は鉛のように重く、頭も上手く回らない。息を吸う度に肺が焼け付くように痛んで、吐くと肋骨が軋む錯覚を覚える。自分の身体が酷い状態だということは聞かずとも分かった。
ただ、そんな状況であっても、レヴィエントの胸はじんわりと温かくなる。テレシアが、自分のために泣いてくれている——その事実が、どうしようもなく嬉しかったのだ。
レヴィエントはゆっくりと指先を動かそうとした。彼女の涙を拭って、もう大丈夫だと伝えたかった。
だが、身体は思うように動かない。身体を起こそうと力を入れたその瞬間、身体中を焼けるような激痛が走る。どこが痛いのか分からないほど、全身が悲鳴を上げていた。
「――ッ!……っ、ぁ」
「レヴィ!?」
思わず漏れた呻き声に、テレシアは弾かれたように顔を上げる。その表情から、一瞬で涙の色が消えた。代わりに現れたのは焦りだった。
「動いてはいけません!」
テレシアの瞳が激しく揺れる。レヴィエントはそれを見て、痛みに顔を歪めながらも、小さく笑顔を作って見せた。だが、上手く表情が作れたかは分からない。
「……泣か、ないで、くれ」
酷く掠れた声だったが、それでもテレシアには聞こえたらしい。彼女の瞳がまた潤む。
「貴方という人は……」
テレシアはそう言って一瞬だけまた泣きそうに表情をゆがめ、次の瞬間、切り替えるように大きく息を吸って立ち上がった。
「どなたか、医師を!レヴィエント様がお目覚めになりました!」
静寂だった病室が、一気に騒がしくなる。廊下から慌ただしい足音が響き、待機していた医師たちが雪崩れ込むように入ってきた。
病室は一瞬で戦場のような慌ただしさに包まれる。
レヴィエントはぼんやりとした意識の中で、どこか他人事のようにそれを見ていた。
————
それからの日々は、回復との戦いだった。激しい身体の損傷と八度にも及ぶ手術の影響は、いかな頑強なレヴィエントといえど大きかった。深く息を吸うだけで肋骨が軋み、身体の向きを変えようとするだけで全身に痛みが走る。数日おきに発熱し、ようやく起き上がれるようになったと思えば翌日には高熱で寝台へ逆戻りすることもあった。
体調が安定してから最初に行われたのは、指先を動かす訓練だ。目を覚ました当初のレヴィエントは、自分の身体をほとんど思うように動かすことができなかった。木製の小さな球を握ったり離したりするよう指示する——たったそれだけの動作が、驚くほど難しいのだ。
それでも、レヴィエントは地道に取り組んだ。訓練は単調だったが、レヴィエントはそうした積み重ねを厭うような質ではない。自力で食事を取れるようになる頃には、体を起こしていられる時間も徐々に増えていった。
その後は座る訓練、立つ訓練へと移行した。だが、そこでレヴィエントは初めて自分の身体がどれほど弱っているのかを思い知ることになる。かつて一日中剣を振り続けても平然としていた男が、立っているだけで足を震わせ、十歩も歩けば息を切らした。それでもレヴィエントは一度も訓練を休まなかった。
「今日はここまでです」
若い医師が言う。ベッド脇に腰掛けていたレヴィエントは僅かに眉を寄せた。
「まだ動けます」
「動けるのと、動いていいのは別です」
「……」
「その顔をなさらないでください。貴方はつい先日まで危篤だったのですよ」
レヴィエントは不服そうに口を閉じた。だが反論はしない。
立ち上がれるようになってからのレヴィエントの回復は速かった。医師たちも目を見張るほどのスピードで、歩けるようになり、走れるようになり、やがて再び剣を振れるようになった。しかし当然、完全に元のようにとはいかない。体力や実戦勘についてはこれからいくらでも取り戻せるだろうが、時間をかけてももとに戻らない部分も少なくなかった。怪我の後遺症が残ってしまったのだ。
この頃には王宮の情報統制も解かれ、レヴィエントの負傷についても多くの人が知るところとなる。
当然、社交界では様々な噂が飛び交った。レヴィエント・ターズウェルが重傷を負ったこと、生死の境を彷徨ったこと、そして――以前のようには戦えなくなったこと。
そのすべてが、水面下ではすでに知られていた。
「残念ですわね」
ある夜会で、一人の伯爵夫人がため息混じりに言った。
「本当に将来有望な方でしたのに」
「ええ。まさか、あのレヴィエント卿が」
「これまでのような活躍は難しいでしょうね。いくら何でも身体が……」
言葉を濁したその貴婦人に、周囲の者たちは曖昧に頷いた。
「まあ、それでも子爵位は賜ったのでしょう?」
「ええ。しかも剣聖の称号まで」
「まだお若いのに、十分すぎる栄誉ですわね」
そう言いながらも、その声音に含まれる響きは微妙な色を孕んでいる。
今回の一件を受け、王国は正式な調査結果を公表していた。——晶角獣の異常変異についてである。複数の学者と研究者による検証の結果、あの個体は通常種とは比較にならないほど危険な存在だったことが判明した。
さらに調査が進むにつれ、一つの結論が導き出される。もしあの場で討伐できなかった場合、その個体はさらに成長を続けたとみられ、最終的には厄災級魔物——ワイバーン・ロードを筆頭に、国難となり得る魔物のクラス——に匹敵する脅威となった可能性が高いというのだ。
つまり——エルハンダラを含め、レヴィエントは二度の国難を救った英雄ということになる。その功績に報いるため、国王はレヴィエントに新たに子爵位を授与し、さらには、『剣聖』の儀礼称号を贈ることを決定したのだ。当初は伯爵位を予定していたが、他ならぬレヴィエント本人が、父と同じ位に就くには自分は未熟すぎると辞退したのだ。いずれにせよ、若干二十歳にも満たぬ青年が得るには、あまりにも破格の栄誉だった。
王都の民衆は歓喜した。広場では彼の快復を祝う声が上がり、教会では祈りが捧げられる。子供たちは木剣を振り回しながら剣聖ごっこを始めた。
だが——貴族たちの視線は、少し違った。
「彼の功績は疑いようがありませんわ」
「もちろんですとも」
「ですが、それと将来性は別のお話でしょう?」
誰かが静かに言った。
社交界においては、もちろん現在の地位や名誉、功績も重要だが——それ以上に評価されるのは、未来の利益である。これからどれだけの功績を挙げられるのか、どれだけの価値を生み出せるのか。それを天秤にかけるのが常だった。
レヴィエントは英雄だが——もうかつてのレヴィエントではない。
レヴィエントは奇跡的な回復を遂げたものの、その身体には後遺症が残ったという話は、もはや社交界では周知の事実だった。
もちろん、並の騎士と比べれば今なお圧倒的に強いだろう。だが——人々が知る、神話的強さを誇った無敵のレヴィエントではない。そう考える者が大半だった。
「そうなりますと……」
一人の侯爵夫人が意味ありげに声を潜める。
「フルリエ公爵家のご令嬢は、どうなさるのでしょうね」
その場の空気が僅かに変わった。誰もが思考の片隅で、同じことを考えていたからだ。
テレシア・フルリエ——未婚の令嬢の中で、掛け値なしに最も価値の高い彼女の婚約相手が誰になるのかという話題は、社交界では未だ注目の的であった。候補とされる男たちは錚々たる面子であったが、レヴィエントも有力視されていたのだ。一度は降りたと思われていたものの、特に夏から秋にかけては、予想レースのオッズでも相当な追い上げを見せていた。レヴィエントで決まりではないかと予想する貴族も少なくなかったのだ。だが、今となっては――。
「レヴィエント卿は英雄ですけれど……英雄であることと良い結婚相手であることは別ですもの」
感情よりも利益を優先して考える彼らの目には、レヴィエントの未来は決して明るく映らなかった。
ある老侯爵がワインを傾けながら言った。
「十年後、二十年後を考えれば話は変わる。これ以上の栄達は見込めないとして、彼が騎士としての価値を失えば、残るのは新興子爵家だけだ」
その言葉は、国を救った英雄に対してあるいは冷徹とも取れるような温度だったが、社交界では極めて現実的な意見でもあった。
テレシア・フルリエの価値はあまりに高い。本人の美貌や能力もさることながら、何よりも魅力的なのは、テレシアを娶ることで生まれるフルリエ公爵家との強固な繋がりだろう。当代当主は現役の宰相であり、次代を担うアウレリウス卿の評価も非常に高い。今の隆盛が陰る様子も見えない国一番の大貴族・フルリエ公爵家の価値は、むしろ年々高まっている。
「やはりハルミオン侯爵家でしょうか」
「帝国はどうなんだ?最近通商条約の改訂があったしな、これを機に国策として皇帝に入内という可能性はないだろうか。テレシア嬢であれば三大妃の地位は堅いだろう」
「ルーヴ公国の大公家がよろしいのではなくて?わたくし、あの国のワインが好きなのよ」
誰がテレシアを射止めるのか——誰がフルリエ公爵家との縁を得るのか。夜会の片隅では、それが格好の話題となっていた。
「少なくとも……レヴィエント卿は、もう難しいでしょうね」
ある伯爵夫人が扇子で口元を隠しながら囁く。その言葉に、誰も反論しなかった。
テレシア・フルリエの婚約者は誰になるのかという話題は、有力候補であったレヴィエントが実質的な脱落と見なされたことで、むしろ露骨に過熱していった。誰もが好き勝手に予想をしては、勝手に結論を出していく。王都の季節は冬を迎えていた。




