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第七話 危機


 晶角獣の番は、ゆっくりと首を持ち上げた。その全身を覆う結晶が軋む。嫌な音だった。まるで骨が砕け、組み替えられていくような。


「なんだ……?」


 結晶装甲の隙間から赤黒い光が漏れ始めた。青白かった結晶は黒ずみ、血管のような赤い筋が走り始める。

 背中の装甲にヒビが入った。だが、砕けたはずの結晶は地面に落ちない。生きているかのように蠢きながら、再び身体へと張り付いていく。


 もはや、それはレヴィエントが知っている晶角獣ではなかった。こんなものは見たことがない。記録にもない。それでも、本能が告げていた。


(これは……危険だ)


 晶角獣はゆっくりと顔を上げた。黄金色だった瞳が真っ赤に染まっている。

 その瞬間、魔物の姿が消えた。


「ッ!」


 誰も反応できなかった。次の瞬間には、三人の騎士が吹き飛んでいた。鎧ごと、まるで人形のように。


「散開しろ!!」


 団長の怒号が響く。だが、魔物はすでに次の獲物へ向かっていた。剣を構える間もなく、二人の騎士が吹き飛ばされる。突進攻撃以外は重鈍とされる晶角獣にはあり得ない速さだった。

 

「撃て!!」


 魔導士たちが一斉に魔法攻撃を行う。先ほどの晶角獣にはそれなり以上のダメージを与えられたはずの攻撃は、結晶装甲をわずかに削っただけだった。

 晶角獣は苛立ったように首を振る。振り回された角が周囲の木々をへし折り、何人かの騎士を薙ぎ払い、あるいは貫いた。


「なんだ、あれは……!」


 まるでダメージが入らない様を見て、魔導士の一人が叫ぶ。誰も答えられなかった。


 その場にいた第一騎士団の一部――かつてエルハンダラの討伐隊に参加した者たちは、嫌でも思い出していた。

 ――ワイバーン・ロード。あの災厄を。


 身体が覚えている。理屈ではなく、本能が警鐘を鳴らしていた。

 あの時と同じだ。いや――それ以上かもしれない。


 魔導士たちも顔色を失っている。先ほどの大規模魔法で魔力は大きく消耗している。地滑りの混乱も終わっていない。最悪の状況だった。


 晶角獣は再び咆哮した。その瞬間、地面が爆ぜる。黒赤く変色した巨体が一直線に駆けた。


 レヴィエントは、晶角獣が向かうその先に、見慣れた姿を捉えた。崩れた岩場の近く。地滑りで足を取られている騎士――エドガーだった。


 ――間に合わない。そう考えるより先に、身体はもう動いていた。


「レヴィエント!?」


 団長の叫びが聞こえる。聞こえた時には、すでにレヴィエントは地を蹴っていた。

 

 晶角獣の角が振り下ろされる。レヴィエントは全力でエドガーへ飛び込んだ。


「伏せろ!」

「え――」


 片手でエドガーを突き飛ばした瞬間――。

 鈍い、音がした。骨が砕け、肉が裂ける感覚。レヴィエントの身体は宙を舞った。


「レヴィエント!!」


 誰かの悲鳴が、一瞬、どこか遠くに聞こえた。地面に強く打ち付けられる。ごしゃ、と嫌な音がした。脇腹から肩にかけて、生温かい液体が流れている。血だった。


(ああ、これは……かなりやったな)


 激しい痛みの中で、レヴィエントの思考は妙に冷静だった。

 立ち上がろうとして、激痛が走る。肋骨も何本か折れている。肩もおそらく無事ではない。だが――。


(潰れたのが左肩で助かった)

 

 レヴィエントは、吹き飛ばされてなお、意地でも離さなかった剣の柄を握り直した。


(剣がある。なら、戦える)


 レヴィエントは立ち上がった。視界がぐらぐらと揺れる。視界の端に、エドガーが駆け寄ってくるのが見えた。酷く焦った表情で、顔色は真っ青だ。


「何やってるんだお前……!何やってるんだ!!」


 レヴィエントは答えなかった。代わりに、口元から血が流れ落ちる。


 角の一撃は直撃ではない。それでも、かすっただけでこの有様だった。左肩の鎧は砕け、脇腹は深く裂けている。地面にはすでに赤黒い血溜まりが広がっていた。

 普通なら、立っていることすらできないだろう。


「下がれ、エドガー」

「馬鹿言うな!」

「下がれ」


 レヴィエントは短く言い切る。その声は、いつも通り強い響きを持っていた。エドガーが息を呑む。

 だが次の瞬間、晶角獣が再び動いた。赤黒い巨体が地面を砕きながら突進する。


「来るぞ!!」


 誰かが叫ぶ。魔導士たちが次々と魔法を放つが、ほとんど効果はない。晶角獣は一直線にレヴィエントへ向かっていた。

 エドガーがレヴィエントの前に出ようとするのを、レヴィエントは片手で強く制した。


 レヴィエントには、確信があった。


 晶角獣の全身を覆う黒赤い結晶。その中の一箇所に、視線が引き寄せされる。

 首でもない。胸でもない。後脚の付け根の、結晶の重なりの奥。そこだけが脈打つように明滅している。それは、普通なら絶対に狙わない場所だった。


(……あそこだ)


 根拠はなかった。説明もできない。だが、レヴィエントは昔からそうだった。時折、理屈を飛び越えて答えだけが見える。今回もきっと同じだった。


(――あそこを、斬ればいい)


 そう確信していた。レヴィエントは強く踏み込む。


「レヴィエント!やめろ、それ以上動くな!!」


 エドガーがその意図に気付いた時には、すでにレヴィエントは飛び出していた。

 晶角獣がレヴィエントを捉える。赤い瞳が殺意に燃えていた。


(――いける)


 晶角獣が鋭い咆哮を上げた。角の切っ先をレヴィエントに向け、全速力で突進してくる。

 レヴィエントは身体を深く沈ませ、紙一重で角の下を潜り抜けた。

 

 レヴィエントが剣を振り抜いた。銀閃が走る。

 後脚の付け根の、結晶の重なりの奥。ほんのわずかの狙いさえ違わず、刃は結晶の隙間へ吸い込まれた。


 次の瞬間――晶角獣の絶叫が響いた。巨体が大きく痙攣する。脚が崩れ、地面に膝をついた。それとほぼ同時、赤黒く光っていた結晶がその光を失う。


「今だ!撃て!」


 その一瞬を逃さず、魔導士たちが魔法攻撃を行う。あらゆる魔法が殺到した。先ほどまでほとんど傷さえつかなかった晶角獣の結晶に、大きなひびが入る。


「効いたぞ!畳みかけろ!」


 魔導士たちの魔法が次々と炸裂する。炎が爆ぜ、雷光が走り、氷槍が結晶装甲へ突き刺さる。だが――。


「まだだ!」


 晶角獣は膝をついているが、それでも倒れない。ひび割れた結晶の隙間から赤黒い光が漏れていた。まるで傷口そのものが再生しているかのように、砕けた結晶が蠢いている。


「再生しているぞ!」

「くそっ!」


 魔導士たちの顔が青ざめる。魔力はもう残り少ない。このままでは――押し切れない。


 晶角獣がゆっくりと立ち上がろうとする。赤い瞳が再び人間たちを捉えた。


 その時だった。レヴィエントの視線は、再び一箇所に引き寄せられる。ひび割れた結晶の奥、ほんの一瞬だけ覗いたものに。

 黒赤い結晶の内側に脈打つ、心臓のように明滅する赤い核。


 レヴィエントはすぐに理解する。


(――本命は、あそこか)


 さっき斬った場所は、弱点ではない。弱点へ至るための鍵だった。あれを開かなければ、おそらく見えなかった。

 レヴィエントは息を吐いた。全身が悲鳴を上げている。視界は霞み、血は止まらない。


(……だから、どうした)


 まだ剣は握れている。なら、戦える。


 レヴィエントは再び前へ出た。


「――ッレヴィエント!!もう十分だ、下がれ!!」


 レヴィエントが踏み込むのを視界に捉えた団長は、とっさに叫ぶ。だが、当然のようにレヴィエントの足は止まらなかった。


 晶角獣が咆哮し、赤黒い巨体が再び動き出す。


 魔導士たちの魔法が飛び交う。炎弾が爆ぜ、雷撃が走り、氷槍が降り注ぐ。そのすべてを掻い潜りながら。

 レヴィエントは一直線に突っ込んだ。


「レヴィエント!!何やってる!!」


 誰かの声が遠くに聞こえた。


 晶角獣が角を振るう。レヴィエントは身を捻って躱した。脇腹の傷が裂け、血が飛び散る。


 それでも剣を振るう。――一閃。

 ひび割れた結晶へ。さらに深く、さらに強く叩き込む。結晶が砕ける音が響いた。甲高い破砕音と共に、黒赤い装甲が大きく裂ける。

 その奥に、生々しい血肉が露出した。それを確認し、レヴィエントは素早く離脱する。


「今だ!!そこを撃て!!」


 レヴィエントが叫んだ。ほとんど間を置かず、ありったけの攻撃魔法が叩き込まれる。


「全火力集中!!」


 魔力の枯渇さえ厭わない威力の攻撃魔法が、一点へ収束した。レヴィエントがこじ開けた、露出した血肉へ。


 晶角獣が絶叫する。森が震え、大地が揺れる。だが、攻撃は止まらない。魔法が次々と炸裂する。赤黒い光が弾け飛ぶ。そして――。

 最後の閃光が消えた時、晶角獣はゆっくりと崩れ落ちた。その巨体は、今度こそ二度と動かない。


 一瞬、戦場は完全な静寂に包まれた。歓声は上がらない。誰も、そんな余裕はなかった。息切れの音だけが響く。あまりにも壮絶な戦いだった。


「終わっ、た……のか?」


 誰かがそう言った次の瞬間、反動のように歓声が上がる。

 

「勝った……勝ったぞ!!」

「医療班を呼べ!負傷者の手当てを!」


 戦場は、再び慌ただしく動き出した。

 負傷者の確認、応急手当、土砂に巻き込まれた者の捜索……誰もが自分の役割へ走り出す。


 そんな中――レヴィエントだけは、その場に立ち尽くしていた。剣を握ったまま、晶角獣が倒れた方向を見つめたまま。まるで次の敵を警戒しているかのように。


 最初に気付いたのはエドガーだった。血塗れのまま微動だにしない友人へ駆け寄る。


「おい、レヴィエント!早く手当てを――」


 返事はない。レヴィエントは立ったままだ。

 肩からは血が流れ続けている。脇腹の傷からも、絶えず赤い雫が落ちていた。


「レヴィエント?」


 もう一度呼ぶ。レヴィエントは俯いたまま、反応を返さない。

 妙だった。いつものレヴィエントなら、短くても何か返すか、あるいは無言で頷くだろう。

 だが、今は違う。呼吸音すら聞こえないほど静かだった。


「……おい」


 嫌な予感がした。エドガーはレヴィエントの表情を覗き込む。そこで、初めて気付いた。

 ――焦点が、合っていない。レヴィエントの黒曜の瞳は、何も見ていなかった。


「レヴィエント!」


 ほとんど反射的に、レヴィエントの名前を叫ぶ。その瞬間、レヴィエントの身体がふらりと揺れた。


「――ッ!」


 糸が切れた人形のように、がくんと膝が折れる。エドガーは咄嗟に飛び込み、その身体を受け止めた。


「レヴィエント!!」


 ずしり、と重かった。異様なほど力が抜けている。レヴィエントの右手から剣が滑り落ちた。金属音を立てて地面へ転がる。


「おい、しっかりしろ!!」


 呼吸は浅く、顔色は死人のようだった。エドガーの叫びは、もはや悲鳴に近かった。周囲にいた騎士たちが一斉に振り向く。


「医療班!!レヴィエントの反応がない!!」


 エドガーの腕の中で、レヴィエントは完全に意識を失っていた。

 左肩の損傷も相当なものだ。だが、それ以上に酷いのは脇腹だった。鎧の下から溢れ出した血が止まらない。


「出血が多すぎる……!」

「医療班!!急げ!!」


 すぐに数人の医療班が駆け込んでくる。一人が膝をつき、レヴィエントの傷を確認した。

 そして表情を失う。


「これは……」

「助かるのか!?」


 エドガーが掴みかからんばかりに問い詰める。

 医療班の一人はその問いには答えず、代わりに震える声で叫んだ。


「止血を優先します!担架を!今すぐ!!」


 その反応だけで十分だった。誰もが悟る。――まずいのだ。かなり。


 治癒魔法の光が次々とレヴィエントの身体を包む。だが傷が深すぎるのか、血が止まりきらない。

 医療班の団員は、治療を行いながらも、抱くのは半ば恐怖に近い感情だった。これだけの傷で、なぜ戦えていたのか。なぜ立っていられたのか。まったく理解できなかった。

 左上半身はほとんどの箇所が骨折している。脇腹の裂傷も内臓に達している可能性が高い。

 しかも、問題はそれだけではなかった。


「……身体がショック状態に入っています」


 レヴィエントはこれまで幾度も戦場に出たが、一度も大きな怪我を負ったことがなかった。並の騎士なら一度や二度は経験するような怪我を、レヴィエントは一度もしたことがない。だからこそ――身体が耐え方を知らなかった。


 医療班は険しい表情でレヴィエントの手首に触れる。


「出血だけじゃありません。急激な損傷に身体そのものが耐えられていないんです」


 医療班の額には汗が浮かんでいた。

 これだけの怪我なら、人はもっと早く倒れる。痛み、失血、あるいは意識を失って。だが、レヴィエントは違った。倒れるべき時に倒れず、身体が限界を超えてなお動き続けた。

 その代償が、今になって一気に押し寄せている。


 治癒魔法の光が何重にも重なる。しかし、レヴィエントの顔色は戻らない。


 エドガーは唇を噛み締めた。


「馬鹿野郎……」


 震える声だった。


「何で俺なんか助けた……」


 返事はない。レヴィエントは眠るように目を閉じている。その顔は驚くほど静かだった。

 つい数分前まで、誰よりも前で魔物と戦っていた男とは思えないほどに。


 担架が運ばれてくる。


「搬送します!」


 医療班たちが慎重にレヴィエントを持ち上げる。その瞬間、レヴィエントの眉がわずかに動いた。


「レヴィエント!」


 エドガーが身を乗り出す。だが、開いた唇から漏れたのは、言葉にもならない微かな息だけだった。焦点の定まらない瞳が、一瞬だけ開く。まるで、誰かを探すように。

 そして、再びすぐに閉じられた。


「レヴィエント!!」


 反応はなかった。医療班の団員が険しい顔で首を振る。


「急ぎます。前線基地の治療設備では足りないかもしれません」

「何だと」

「王都へ搬送する可能性もあります。正直、楽観できる状態ではありません。まずは、今夜を越えられるかどうかです」


 誰もが言葉を失った。


 レヴィエントは、どんな絶望的な状況も覆してきた男だった。どれだけ過酷な戦場からも、必ず生きて帰ってきた。まともな怪我さえ負うことなく、いつだって戦場の希望であり続けてきたのだ。

 そのレヴィエントが――今夜を越えられるかどうかも分からない。そんな現実を、誰も受け入れられなかった。


 担架が動き出す。騎士たちが自然と道を開けた。誰も声をかけられない。ただ、その姿を見送ることしかできなかった。

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