第五話 異変
ディルセル・バーデモットは、対魔物戦線の前線基地にいた。周囲の新兵たちの話題は、もっぱら数日前から合流したある男の凄まじい戦果についてばかりだ。
「聞いたか?レヴィエント卿、昨日も大型種を単独討伐したってよ」
「またかよ。北の戦線も、レヴィエント卿が来てから半日で押し返したらしい」
「あの人、本当に人間なんだよな?」
「少なくとも魔物はそう思ってないだろうよ。魔物にとっちゃ地獄からの使者、俺らからすりゃ救世主、その名もレヴィエント・ターズウェルってな」
――レヴィエント・ターズウェル。嫌でも耳に入ってくるその名前に、ディルセルは思わず苦虫を嚙み潰したような表情になる。
何を隠そう、この男こそが、ディルセルが前線にいる理由であり――ディルセルのプライドをべきべきにへし折った張本人なのだから。
ディルセルは、数カ月前の夜会での一件を思い返した。
――失礼、ディルセル卿。レディの手をそんなに強く掴んでは、跡が残ってしまいますよ。
あの時の恐怖と屈辱を、ディルセルは今も鮮明に思い出すことができる。視線一つ、ただそれだけで、身体の芯から負けを悟らされた。立ち向かうどころか、まともに視線を合わせることすらできず、ディルセルに出来たのはただ情けなく逃げ帰ることだけ――あの瞬間、ディルセルの高いプライドは、粉々に打ち砕かれたのだ。
その後の数日は、まさに地獄だった。眠れなかった。食事も喉を通らなかった。何度も何度も、あの日の光景を思い出した。レヴィエントの、あの研ぎ澄まされた黒曜石のような鋭い瞳。視線一つに圧倒され、逃げるように会場を後にした自分。
これまで、名門侯爵家の跡取りという立場を誇り、周囲を見下し、努力する者たちを嘲笑ってきた。生まれこそがすべてであり、努力など所詮は生まれが劣る凡愚どもの慰めでしかないのだと。そんな自分が、本当に強い男の前に立った瞬間、何も出来ない――自分こそが凡愚だという現実を、まざまざと見せつけられた。負け犬のように尻尾を巻いて逃げ出し――いや、事実負け犬だったのだ。誇り高きバーデモット侯爵家の跡取りである自分が、隣国の伯爵家の三男ごときに敗北した。それも、立ち向かうことさえ出来ずに。あまりの惨めさに、吐き気すら覚えた。
だが、鬱々とした日々は、それほど長くは続かなかった。
(……俺はバーデモット侯爵家の跡取りだぞ。伯爵家の三男ごときに、負けっぱなしで終われるものか。今に目にもの見せてくれる)
ディルセルは元来、自尊心ばかりは山のように高い男だ。プライドこそ微塵となっても、その自尊心の高さは健在だった。
だから、ディルセルは剣を取った。今まで逃げ回っていたのが嘘のように、朝から晩まで鍛錬した。筋肉痛で腕が上がらなくなっても続けた。何度倒れようが、何度吐こうが、それでも続けた。
誰かに褒められたかったわけではない。ただ、家格で劣る相手にあれだけの屈辱を味わわされて、そのまま何もせずに終わることなど、他でもないディルセル自身が許せなかったのだ。
今まで嫌悪してきた努力というものを、ディルセルは初めて経験した。そうして初めて、ディルセルはこれまで自分が軽んじてきたものの価値を知ったのだ。そして同時に、自分がどれほど何も持たない人間だったのかも。
鍛錬を始めて数ヶ月、以前の自分と比べれば雲泥の差だろう。それでも、本気で剣を学んでいる者たちから見れば、ようやく入り口に立った程度に過ぎなかった。
それでもディルセルは続けた。
負けたくなかった。今度こそ逃げたくなかった。だから――。
秋の対魔物遠征の志願書を提出した時、父であるバーデモット侯爵は盛大に頭を抱えた。
「お前は剣を始めて何ヶ月だ」
「三ヶ月です」
「新兵以下ではないか。魔物退治は遊びではないぞ」
当然反対された。これまでなら、不貞腐れて終わりだっただろう。だが、今は違う。ディルセルは引かなかった。
「承知しております。それでも行きたいのです」
侯爵は息子を――ディルセルの目を見た。真っ直ぐな瞳だった。そこにあるのは見栄でも虚勢でもない。本気で戦場に行きたいのだと、侯爵にはよくわかった。
ここ数ヶ月の息子の変貌ぶりは、バーデモット侯爵も驚くほどであった。長年の頭痛の種であった女遊びもぱったりと辞め、代わりにこれまで逃げ回っていた剣術の鍛錬ばかりしている。いつもの短気は鳴りを潜め、それなりに考えてから行動するようになった。
数カ月前の夜会での出来事を聞いた時は肝を冷やしたものだが――おそらくそれがきっかけとなったであろうこの変化は、バーデモット侯爵家にとっては喜ばしいものであった。遅くに生まれた一人息子を随分と甘やかしてきたバーデモット侯爵でさえ、さすがに甘やかしすぎたかと反省していた矢先だったのである。
侯爵は長い沈黙の末、小さく息を吐いた。元来息子に甘い侯爵が、果たしてこの願いを断れるのか――答えは否だった。ここできっぱりと諫められるようであれば、そもそもディルセルはあそこまで不遜にはならなかったであろう。
「……お前を送り出す以上、こちらも各方面へ頭を下げねばならん。今回の遠征は我が国単独ではない。アルヴェイン王国との共同戦線だ。お前一人のために迷惑をかけるなよ」
「はい!」
こうしてディルセルは遠征軍へ加わることになった。
もっとも、それは侯爵の多額の寄付と根回しあっての話である。遠征はアルヴェイン王国との共同戦線だったが、自国の騎士団への支援金に加え、アルヴェイン側の消耗品費の一部まで侯爵家が負担したため、現場も無下にはできなかったのだ。
とはいえ、騎士たちの反応は冷ややかだった。
「剣を始めて三ヶ月?冗談だろ」
「貴族の道楽かよ。面倒な仕事を押し付けられたな……」
「よりにもよってディルセル卿とは、勘弁してほしいな」
「バーデモット卿もよくやるよな。息子のために、騎士団に随分寄付金を積んだらしいぞ。金持ちは違うな」
遠征軍本営で説明を受けた騎士たちは、一様に微妙な顔をした。しかし、相手は有力侯爵家の嫡男だ。相変わらず息子に甘いバーデモット侯爵の根回しもあり、追い返すこともできない。
「……まあ、仕方ない。新兵部隊に混ぜろ。危険区域には近づけるなよ。上手いことお膳立てして、小型種を何体か討伐させてやろう。そうすりゃ、向こうさんも満足するだろうさ」
ディルセルの悪評は広く知れ渡っている。
――適当に小型種を何体か討伐させて、満足して帰ってもらおう。
誰もがそう考えていた。
そのため、新兵たちにも事前に注意が飛んだ。侯爵家の嫡男の機嫌を損ねるな、というのである。ディルセルの人となりを知る貴族出身の新兵たちはもちろん、彼らからその評判を聞いた平民出身の新兵たちも、内心では厄介な貧乏くじを引かされたものだと覚悟していた。戦場よりも侯爵家の嫡男への対応に気を遣わなければならないのかと、配属前から気が重かったのである。
だが、実際に配属されたディルセルは、彼らの予想を大きく裏切った。
いつもの高圧的な態度はどこへ行ったのか、到着初日から誰に対しても礼儀正しかった。
雑務も嫌がらず、訓練にも真面目に参加する。注意されれば素直に従い、むしろそこらの新兵よりも殊勝な態度でさえあった。
「本当に同一人物か?」
「俺もそう思った」
騎士たちは困惑した。聞いていた話と違いすぎる。
ある者は休憩中に水汲みを手伝うディルセルを見た。ある者は訓練後、黙々と素振りを続ける姿を見た。またある者は、教官に叱責されて素直に頭を下げる姿を見た。
どれもこれも、かつてのディルセルの評判とは結びつかない。
「まあ……昔はどうだったか知らねえが。少なくとも今は、そこまで悪い奴には見えねえな」
一人の新兵が肩を竦める。その言葉に周囲も曖昧に頷いた。もちろん好感を抱くほどではない。だが、少なくとも警戒していたような傲慢な貴族ではなかった。
もっとも、当のディルセルはそんな周囲の変化に気付いていなかった。彼の頭を占めているのは、自分がいかに未熟かという現実だけだったのである。
――――
そして今、ディルセルは前線に立っている。もちろん、最前線ではない。前線からやや後方の区域で発見された小規模な魔物の掃討任務だ。経験を積ませるため、新兵部隊にも定期的に割り振られる仕事だった。だが、それでも戦場は戦場、現実は甘くなかった。
「前へ出すぎるな!」
「左だ!左!」
「新人は下がれ!」
怒号が飛ぶ。訓練ではそれなりに振れていた剣も、実戦では思うように動かなかった。
魔物は恐ろしい。血は臭い。死は近い。これまで安全な場所から見下ろしていた世界が、どれほど過酷だったのかを思い知らされる。
ディルセルは奥歯を噛み締めた。
情けない。悔しい。それでも、以前のように逃げ出したいとは思わなかった。せめて、足手まといにならない程度にはなりたい。その一心だった。
「ここはまだ比較的安全な区域だ。新人訓練も兼ねてる。焦る必要はない」
同行していた騎士が言った。
実際、その通りだった。出現する魔物も弱い。周囲には熟練騎士が配置されており、危険があれば即座に介入できる体制が整えられていた。いわば、お膳立てされた戦場だ。
だから誰も警戒していなかった。――その異変に、気付くまでは。
それは、最後の小型種の討伐が終わり、ディルセルを含めた新兵たちがほっと息を弛めた瞬間だった。
不意に、ざわりと森が揺れた。風ではない。ぞっとするような寒気を伴う、それは予感だった。傍についていた熟練騎士たちの表情が変わる。
「新兵は下がれ!退却しろ!」
熟練騎士たちは即座に前へ出る。次の瞬間――森の奥から現れた巨影を見て、その場の全員が凍り付いた。
「なんだ……あれ……」
ディルセルの隣にいた新兵の一人が、震える声で呟いた。
その魔物は、鹿のようにも狼のようにも見えた。体高は優に三メートルを超える。全身を覆う青白い結晶装甲は岩盤のように厚く、首筋から背中にかけて幾重にも重なっていた。魔物が一歩踏み出すたびに地面が沈み、石を砕くような鈍い音が響く。
「晶角獣……!?なぜ今の時期に!」
「新兵ども!とっとと下がれ!お前らの手に負える相手じゃない、死ぬぞ!」
熟練騎士の怒号が飛ぶ。だが、ディルセルは動けなかった。周囲の新兵たちも同様に、剣を握ったまま固まっている。初めて目にする上位種の迫力に、完全に飲まれていた。
――晶角獣。それは、通常冬にしか現れないはずの魔物だった。全身が特殊な結晶で覆われ、その装甲はほとんどの物理攻撃を弾く。その頑丈な体と角を武器に突進攻撃を繰り返す、非常に厄介な魔物だ。物理耐性がべらぼうに高い一方、魔法に対する耐性はさほど高くないため、動きを止めて魔法で倒すのが一般的な討伐方法だ。
歩く要塞、あるいは騎士殺しと呼ばれるそれは、騎士が主体――それも新兵の多いこの戦場では、明らかに手に負えない魔物だった。まずいな、と熟練騎士の一人が呟く。事実、全滅さえ想定される状況だった。
(――身体が、動かない)
逃げなければならない。分かっている。なのに、身体は少しも動かなかった。圧倒的な存在を前に、身体の自由が奪われたかのようだ。
魔物が前足を大きく振り上げる。次の瞬間、轟音と共に大地が爆ぜた。周囲の兵士たちが衝撃で吹き飛ぶ。誰かの悲鳴が響いた、その時だった。
「――総員退避!」
鋭い声が戦場を貫く。それはあまりにも速かった。ディルセルには、何が起きたのか理解できない。ただ視界の端を銀色の光が横切ったように見えただけだ。
直後、耳をつんざく金属音が響いた。晶角獣の巨体が数歩よろめく。
ディルセルは目を見開いた。そこにいたのは――。
「レヴィエント……」
見間違えるはずがなかった。レヴィエントの黒髪が風に揺れる。剣を構えた長身の男は、新兵たちを背に庇うように立っていた。




