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第三話 響き


 レヴィエントが、ターズウェル伯爵家のタウンハウスに戻った直後から、伯爵家の家人は総じて上を下への大騒ぎであった。何せ、帰宅の挨拶よりも早く、「テレシア嬢との婚約が決まった」と言うのだから。

 父母は困惑し、次兄はレヴィエントの妄想を疑い、長兄はバシバシとレヴィエントの背を叩いた。

 当然、この婚約に関しては緘口令が敷かれることとなった。なにせ、()()()()()()()()である。テレシアの次期婚約者が誰かという予想――もとい、賭け事は、今なお社交界では注目の話題だった。()()を埋めるまでは、いろいろと面倒事が発生してもおかしくない。フルリエ公爵家に手を出せる家は少ないが――ターズウェル伯爵家であればと、余計なことを考える輩がいないとは言えなかった。


 翌朝早く、レヴィエントとテレシアは王宮を訪れていた。ターズウェル伯爵とフルリエ公爵も同行している。婚約届への調印を行うためだ。

 レヴィエントは今日のうちに前線へと発つ。次にいつ王都へ帰還できるかは分からない。余計な横やりを防ぐためにも、まず二人の婚約だけでも正式に成立させておくべきだった。

 無論、婚約に伴う家同士の契約については、今後あらためて交渉を重ねていくことになる。だが、二人の婚約そのものを急ぎ書面に残すべきだという点で、両家当主の意見は一致していた。


 朝の王宮は、昨夜の祝宴が嘘のように静かだった。人の気配が少ない王宮の廊下は、成年式典の荘厳さとはまた違う静けさに満ちていた。

 あてがわれた個室の中で、ペンが書類の上を走る音だけが響く。テレシアの流麗な字と、レヴィエントの均整の取れた字が並んだ。それに続いて、フルリエ公爵とターズウェル伯爵、最後に公証人が署名を行う。立ち会った職員と公証人は、当然フルリエ公爵閥の人間だった。


「記入事項をすべて確認いたしましたので、こちらで受理させていただきます。――この度は、ご婚約おめでとうございます」


 王宮の職員が、書類を丁寧に羊皮紙の封筒へ収める。

 それから半刻と経たず、レヴィエントたちのもとへ婚約証明書が届けられた。


 レヴィエントは、どこか信じられないような気持ちで、自分の名前とテレシアの名前が並ぶその書類を見つめていた。叶うはずのなかった想いが実を結んだ現実は夢のようで、本当に夢なのではないかと幾度も頬の内側を噛んだ。返ってくる痛みがなければ、現実(そう)とは信じられなかったかもしれない。


 幸福だった。生まれて初めて、これほどまでに満たされたことがあっただろうかと思うほどに。

同じ書類を受け取り、いつものように美しく微笑むテレシアが、この瞬間から正真正銘レヴィエントの婚約者なのだ。


「レヴィエント様?」


 テレシアが、呆けたままのレヴィエントの表情を伺う。さらりと揺れた金糸が、朝の日の光を弾いて煌めいた。


「失礼いたしました。貴女が私の手を取ってくださったことが……未だに夢のようだと、考えていたのです」

「まあ、これは現実ですよ」


 テレシアはくすくすと笑った。その笑顔のやわらかさを噛み締めると同時、レヴィエントの思考は()()へと向かう。そう、ここは現実で――当然、夢のように甘美なことばかりではないのだ。

 レヴィエントの意識は、すぐに遠く離れた前線へと向かった。この後はターズウェル伯爵家のタウンハウスに戻り、最後の支度を終え次第、王都を発つ予定だった。昼を待たずに出立すれば、日が暮れぬうちに二つ目の宿場町までたどり着けるはずだ。


 手続きが終わると、二家はすぐに別れた。少し時間をずらして、別々に各家のタウンハウスへと戻る。

 ターズウェル伯爵家のタウンハウスへ戻ったレヴィエントは、すぐに出立の準備へ取り掛かった。前線へ持ち帰る荷物は多くない。もともと帰還は数日の予定だったのだ。必要なものはほとんど戦地に置いてある。王都で新たに増えたのは、婚約証明書と、胸の内に抱えた幸福くらいのものだった。

 荷物をまとめ終えた頃、控えめなノックの音が響く。部屋へ顔を覗かせたのは長兄カイエルだった。


「レヴィエント、馬の用意が出来たぞ」

「ありがとう」


 レヴィエントは、カイエルと連れ立って階下へと降りる。カイエルは、レヴィエントと階段を降りる時はいつも、レヴィエントの足元を気にする素振りを見せる。幼い頃のレヴィエントが、兄を追いかけようとして階段を転げ落ちた時のことを、今でも覚えているのだろう。カイエルはさりげなくやっているつもりなのかもしれないが、視線の動きを見れば一目瞭然だ。

 数年前に並んだ背丈は、今ではレヴィエントの方が少し高い。それでも、カイエルにとってのレヴィエントは、いつまでも守るべき弟なのだろう。それはきっと、何年経っても変わらないのだろうと思った。


「カイエル兄さんたちは、いつ領地に戻るんだ?」

「三日後に出発する予定だよ。ルシオと会うのも久々だからな、もう少しだけ滞在するつもりだ」


 もう一人の兄ルシオは、今でも王都のタウンハウスに住んでいる。詩や文学が好きだった彼は、今は王都の史料研究所で働いているのだ。今日は郊外にある遺跡の現地調査があると言って、レヴィエントたちよりも早くに家を出ていた。


「まったく、俺の弟たちは揃いも揃ってなかなか顔を見せに来ないんだからな?」


 カイエルはそう言って笑う。レヴィエントもルシオも、仕事の関係で領地まで足を運ぶことは少ない。ルシオは騎士団に勤めるレヴィエントよりも融通が利くはずだが、出不精の彼が往復六日の距離を面倒がるのは容易に想像がついた。


「……ごめん」

「自覚があるならもう少し帰ってこい。俺はいいとして、父上と母上が寂しがる」

「母上からはたまに手紙が届くけど、父上も?」

「当然だろ。前線報告書は毎回取り寄せてるが、お前が前線にいる間は明らかに読んでる時間が長いからな。心配なんだろ」


 階段を下りきる。玄関ホールには、すでに父と母が待っていた。使用人たちも整列している。出立の見送りのためだ。


「準備は終わったの?」


 母がどこか名残惜しそうに尋ねる。


「はい」

「そう……」


 微笑んではいるが、その瞳には寂しさが滲んでいた。

 前線へ向かう息子を送り出すのは、これが初めてではない。だが、慣れることなどないのだろう。


 外は空も高い秋晴れだった。鞍を乗せたレヴィエントの愛馬が、その鬣を揺らしている。


「身体には気を付けるのよ」

「分かっております」


 母は何度か言葉を重ねた。出立の度に何度も聞いた言葉ばかりだったが、レヴィエントはその一つ一つにきちんと頷く。このやり取りがこれで最後になる可能性も、あると分かっているからだ。


「……生きて帰って来い」

「はい」


 父からの言葉は短かった。レヴィエントが返すのも、短い返答だ。だが、それ以上に必要な言葉もなかった。


「俺からは特にない。俺が何か言うより、()()()の方がよっぽど効果的かと思ってな」


 カイエルはそう言って楽しそうに笑うと、レヴィエントの背後に視線を送った。その視線の先を追って、レヴィエントは振り返る。

 その人を認めた瞬間、レヴィエントは驚きに目を見張った。先ほどから、背後に人の気配があることには気付いていた。だが、てっきり出立の準備を手伝う使用人だろうと思っていたのだ。


「――テレシア嬢」


 そこに立っていたのは、今朝方に別れたばかりのテレシアだった。目立たない色の外套を羽織り、侍女を一人だけ連れて立っている。碧い瞳が、こちらを見た。


「今朝以来ですね、レヴィエント様」

「どうして……」


 思わず言葉を失うレヴィエントを見て、テレシアはわずかに微笑んだ。


「お見送りに参りました」


 その一言だけで、レヴィエントの胸が熱くなる。

 レヴィエントの背後では、父と母が生暖かい表情で二人を見ていた。カイエルに至っては露骨に口元を緩めている。


「父上、母上、少し庭の散策でもいかがですか」

「ああ。そうだな」

「そうね、それがいいわ」


 カイエルのわざとらしい提案に、父は真面目な表情で頷き、母も笑いながら賛同した。あっという間に三人の姿は生垣の向こうに見えなくなる。

 レヴィエントは思わず苦笑した。


「家族が失礼を」

「いいえ」


 テレシアは小さく首を振る。


「とても素敵なご家族ですね」


 柔らかな声だった。しばし沈黙が落ちる。だが、不思議と居心地は悪くなかった。

 同じ沈黙でも、以前とは違う。もう、想いを隠す必要がないからだろう。


「まさか、出立の前にもう一度お会いできるとは思っておりませんでした。本当に……嬉しく思います」


 レヴィエントの言葉に、テレシアは少しだけ視線を伏せた。


「……レヴィエント様がお忙しいことは分かっておりましたが、せめてお見送りくらいは、と思ったのです」


 その言葉が、たまらなく嬉しかった。だが同時に、離れ難くもなる。だからこそ、レヴィエントは微笑んだ。


「ありがとうございます。貴女に送り出していただけるとは、望外の喜びです」

「わたくしに出来ることは、これくらいしかございませんから」


 テレシアはそう言って微笑んだ。その表情のやわらかさに、レヴィエントの自制が少しだけ緩む。ほんの一瞬躊躇って、レヴィエントは思い切ったようにテレシアを見つめた。


「……テレシア嬢、一つ、わがままを申し上げてもよろしいでしょうか」

「まあ、珍しい。わたくしに出来ることであれば、何なりと」


 テレシアは不思議そうに目を瞬いて、次の瞬間には、また随分とやわらかい笑顔を見せた。その笑顔に背中を押されるように、レヴィエントは小さく息を吐く。


「――シア、と」


 声に出した途端、自分でも驚くほど緊張していることに気付いた。

 レヴィエントの唇から紡がれた言葉に、テレシアの碧い瞳がわずかに見開かれる。

 

「そうお呼びすることを、お許しいただけますか」


 言葉にすると一層、口の中が乾くような気さえする。

 一瞬の沈黙。ほんの数秒のはずなのに、ひどく長く感じられた。

 

「――はい、もちろんです」


 テレシアは、そう言って美しく笑った。碧い瞳がまるく緩んで、レヴィエントの黒曜を優しく見つめている。

 その返答を聞いた瞬間、レヴィエントの胸の奥で、何かが弾けたような気がした。嬉しさがこみ上げてくる。思わず口元が緩むのを止められなかった。

 

「シア、……シア」


 その特別な響きを噛み締めるように、レヴィエントはその言葉を何度も口にした。

 

「はい、レヴィエント様」


 テレシアもまた、どこかくすぐったそうに微笑んでいた。その表情が、愛おしくてたまらない。

 レヴィエントは、間違いなく舞い上がっていたのだろう。だからこそ、普段なら決して口にできない言葉が自然と零れた。

 

「どうかレヴィと。愛しいシア」


 レヴィエントがそう言った直後、テレシアの白い頬が、わずかに染まる。すぐに戻されてしまったそれを、それでも確かに見たレヴィエントの胸は、さらに甘く満たされた。

 

「レヴィ……様」


 テレシアにしては珍しく、わずかな戸惑いと照れを滲ませながら紡がれた呼び名に、思わず笑みが深くなる。テレシアの完璧な淑女の仮面をほんの少しでも崩せることが、これほど嬉しいとは思わなかった。

 

「今はそれで許します。いずれは敬称も外してほしいものですね」


 冗談めかした口調だったが、それは紛れもないレヴィエントの本心だ。くつくつと笑うレヴィエントを、テレシアは真剣な表情で見つめ返した。

 

「次にお会いする時までには、必ず」

「そんなに急がなくても構いませんよ。頰を染める貴女も愛らしい」

「いいえ。レヴィ……様は、わたくしが指摘した点を、次にお会いする時には必ず直されてきておりました。わたくしがそうしない訳には参りませんわ」


 その言葉は、いかにもテレシアらしかった。律儀で、誠実で、決して自分に甘くない。だからこそ惹かれたのだと、改めて思う。

 

「そういう貴女の、芯の通った高潔なところも、私は……いえ、また貴女に怒られてしまいそうです」

「……今の貴方は紳士ですけれど、少しばかり軟派になられましたね」


 テレシアの碧い瞳に、少しだけ呆れたような色が混じる。

 

「シアにだけですよ」

「それなら……貴方が完璧でない部分を見せるのも。わたくしだけだと、自惚れても良いのでしょうか」


 予想もしなかった言葉だった。レヴィエントは目を瞬かせる。そして数拍遅れて、小さく笑った。

 自分が随分と舞い上がっていることは、テレシアにはとっくにお見通しだったらしい。

 

「……これは、一本取られました。まだ貴女の方が上手のようだ」

「ふふ」


 テレシアの、鈴を転がすような笑い声が耳に心地よく響く。秋の風が吹き抜け、テレシアの金髪を優しく揺らした。


「レヴィ様」


 テレシアが、レヴィエントの名を呼んだ。焦がれ続けた人の声で、他でもない自分の愛称を呼んでもらえる幸福が、レヴィエントの胸を静かに満たしていく。

 テレシアの碧い瞳は、先ほどよりもずっと真剣な眼差しでまっすぐにこちらを見つめている。言わんとしていることは、聞かずとも分かった。

 

「どうか、ご武運を」


 騎士へ贈るには、ありふれた言葉だ。だが今のレヴィエントには、どんな勲章よりも重かった。

 愛する人が、自分の帰りを待っていてくれる。それだけで、どれほど強くなれるのだろう。


 レヴィエントは静かに微笑んだ。


「――はい」


 短い返答だった。だが、それ以上に言えることはなかった。


 ――――


 王都の街並みが後方へ流れていく。

 あの後、レヴィエントはすぐに王都を発った。離れがたい思いは本物だったが、今はそれにかまけている猶予などないのだ。


 先ほどのテレシアとの時間の、自分のあまりの舞い上がり具合にほんの少し顔を熱くして――秋風がその火照りを攫って行った頃には、レヴィエントは前線の事を考えていた。


 前線報告書を読む限り、戦況はそれほど悪くない。だが、レヴィエントの胸には言いようのない不安が渦巻いていた。それは根拠など何もない、()()でしかなかったが、レヴィエントのそれが無視できないものであることは、当の本人が一番よくわかっている。


(……早く、戻らなくては)


 前線へ続く街道を走りながら、レヴィエントが思うことはそれだけだった。

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