表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/42

第二話 もう一つの道


「今は公の場ではない。楽にしろ」


 男は片手に持っていた酒杯を傾けながら、どこか愉快そうに顔を傾げる。

 だが、テレシアもレヴィエントも礼を解かなかった。


「……恐れながら、皇帝陛下」


 テレシアが静かに口を開く。


「名を申し上げる許しを賜ってもよろしいでしょうか」


 黄金の瞳が、ゆるやかに細められる。


「許す」

「は。アルヴェイン王国フルリエ公爵家が長女、テレシア・フルリエにございます。皇帝陛下に拝謁の栄誉を賜り、恐悦至極に存じます」


 テレシアは淀みなく答えた。続けてレヴィエントも名乗る。


「アルヴェイン王国ターズウェル伯爵家が三男、レヴィエント・ターズウェルにございます。陛下へ拝謁の栄を賜り、身に余る光栄にございます」


 男はすぐには答えなかった。ただ、酒杯を傾けながら、二人を静かに見下ろしている。

 ――沈黙。それだけで、空気そのものが支配されていた。まるで、呼吸を許されるかどうかさえ、目の前の男の気分一つで決まるかのように。


「余はグラナド帝国皇帝、ルシウス・ヴァルディ=エル・グラナド。――面を上げよ、アルヴェインの玉と剣よ」


 男――皇帝の低い声が響く。決して張り上げてなどいないのに、腹の底に響くような重さがあった。

 テレシアとレヴィエントの二人が顔を上げる。皇帝の黄金の瞳が、愉快そうに細められた。


「……その顔を見るに、どうやら余は負けたらしいな?テレシアよ」

「僭越ながら。紙一重ではございましたが……わたくしの願いは、叶いました」

「そのようだ。賭けはやはり、最後まで分からぬ方が面白い」


 皇帝は声を上げて笑った。テレシアは美しい微笑みを崩さない。話に理解が及んでいないのはレヴィエントだけだ。

 

 レヴィエントの内心で、困惑は静かに深まっていく。

 皇帝とテレシアの会話は、明らかに何らかの前提を共有していた。()()だの、()()()だのと、穏やかではない言葉まで聞こえてくる。

 それでもレヴィエントは口を挟まない。相手は帝国皇帝だ。軽々しく問いを差し挟める相手ではない。


 レヴィエントは表情を崩さなかった。だが、皇帝は一瞥しただけで、レヴィエントの内心の困惑を容易に看破したらしい。


「ふむ。約定通り、まだそこな男には何も告げておらぬようだな」


 皇帝は酒杯を傾けながら、愉快そうに口端を吊り上げた。


「説明してやったらどうだ、テレシア。余としても、アルヴェインの剣がどんな顔をするのか興味がある」

「承知いたしました」


 テレシアは、ゆっくりとレヴィエントへ向き直った。


「……皇帝陛下とわたくしは、一つの()()をしておりました」


 テレシアの声は、終始落ち着いていた。だが、その声が淀みなく語った()()の内容は、レヴィエントを戦慄させるには十分すぎるほどの衝撃を有していた。

 テレシアが言葉を重ねる度、レヴィエントは呼吸の仕方さえ分からなくなっていくような気がした。


「つまり……此度の秋の祝年会で、わたくしが宴の終わりまでに貴方の想いを得られなかった場合、わたくしは上妃として後宮へ入内するために帝国へ渡る――そのような賭けです」

「なかなか惜しかったな」


 皇帝は愉快そうに笑った。


「あと半刻ばかりお前があの男を落とせなければ、余の勝ちだった」

「まあ、陛下はどちらをお望みだったのでしょう」

「半々だ。どちらに転んでも愉快には違いない」


 そこで初めて、レヴィエントは理解した。

 テレシアの瞳が、どうしてあれだけ揺れていたのか。――今日が、期限だったからだ。


 心臓を掴まれたように、胸の奥が酷く軋む。

レヴィエントはしばらくの間、口を開くことさえ出来なかった。


 もし、無理にでも前線に留まっていたら。もし、テレシアへ会わずに中座していたら。もし、あの衝動を呑み込んでいたら。テレシアは今頃――。


「……なるほど」


 低く、レヴィエントが呟いた。その声音には、かすかな熱が滲んでいた。


「随分豪気な女だろう?妻や娘を()()()輩はごまんといるが、己の身を担保に()()を持ち込んでくる女は、さすがに初めてであったな。内容が恋というのも新鮮でな、つい乗ってしまった」


 皇帝は終始愉快気に笑っている。


「しかし、惜しいな。そなたほどの女、後宮に置けば帝国は面白くなった」


 テレシアを見る黄金の瞳には、明らかな興味の色があった。その視線は値踏みでも嘲りでもない。ただ純粋な興味と、ほんの僅かな惜別のようなものを含んでいた。


「その男に泣かされたら余のところへ来い、テレシア。余の宮は才ある女を拒まぬ。いつでも迎え入れよう」


 あまりにも軽く放たれた言葉だった。だが、その一言の重みを理解できない者は、この場にはいない。

 皇帝の黄金の瞳が、ゆるやかにレヴィエントへ向く。レヴィエントの獣にも似た本能が、ほどんど反射的に呼吸を整えさせた。前線で手強い魔物と対峙した際に行う、癖のような呼吸――剣を構えてさえいない人間を前にして行うのは、当然初めてのことだった。

 戦えば、勝てる可能性は高い。周囲に控える護衛は相当厄介だが、剣の一本さえあれば、この距離なら傷を与えることくらいは出来るだろう。だが――。


(……すさまじいプレッシャーだ)


 存在そのものの格が違うと、理屈より先に理解させる圧だった。


「なに、そう警戒するな。余は賭けには誠実だ。勝者から女を奪う趣味はない。……もっとも、お前がつまらぬ男なら、話は別だったがな」


 皇帝は声を上げて笑う。

 その言葉には冗談の軽さと、もし本当にそうであった場合の()()が、ほとんど同じ温度で混ざっていた。試すまでもなく、結果は既に見えていたという声音だ。


「怒るか?」

「まさか。とんでもないことでございます」


 レヴィエントは静かに答えた。

 それは、怒りとも焦燥とも違う感情だった。胸の奥底を、鈍く灼かれるような感覚。

 目の前の男は、ほんの半刻違えばテレシアを帝国へ連れ去っていたと、笑いながら語っている。だが同時に、その事実を真正面から告げられてなお、レヴィエントは軽率に感情を露わにすることが出来なかった。

 相手は帝国の皇帝だ。不用意な発言の影響は、レヴィエント個人ではとどまらない。

 だからこそ、レヴィエントは静かに息を吐き、ただひたと皇帝を見据えた。その黄金の瞳を、真っ向から見つめ返す。


「……ですが、結果として私は勝った。そういうことでしょう」

 

 レヴィエントの黒曜石の瞳が、強い光を帯びる。()()()()()()があると、その瞳は言外に強く主張していた。


 わずか一瞬、沈黙が場を支配した後、皇帝は愉快そうに喉を鳴らして笑った。


「はは――なるほど」


 細められた黄金の瞳が、レヴィエントを見定めるように一瞬、煌めく。


「やはり()()()()()は、直接見るに限るな。存外に良い余興だった。……本当に惜しいな」


 その言葉に、レヴィエントはほとんど反射的に警戒を高めた。それを見抜いたのか、皇帝はくつくつと笑う。


「さて。これ以上長居すると、本当に返したくなくなってくる。もう行け。今宵の勝者はお前たちだ」


 皇帝はひらりと片手を振った。その仕草はあまりにも軽い。だが、退室を許された瞬間、室内を覆っていた圧がわずかに緩んだことを、レヴィエントは確かに感じ取っていた。

 

「せいぜい幸福になってみせろ。余を退屈させるなよ、アルヴェインの玉と剣」

「陛下のご厚情、痛み入ります」

「本日は拝謁の栄を賜り、誠にありがとうございました」


 テレシアとレヴィエントは、入室した時のように再び礼を取る。


「うむ。下がれ」


 皇帝の言葉に、二人は静かに身を起こした。


 先に歩き出したのはレヴィエントだ。半歩遅れてテレシアが続く。

 扉の前で、テレシアは静かに一礼した。その隣で、レヴィエントもまた深く頭を垂れる。二人は廊下へ退出し、重厚な扉が静かに閉じた。


――――


 重厚な扉が閉じた瞬間、室内を満たしていた緊張がわずかに緩んだ。個人としては王国最大の脅威であるレヴィエントの退室に、背後に控えていた護衛たちがようやく呼吸を戻す。


「あの瞳は、いいな」


 酒杯を揺らす。琥珀色の液体が、灯りを受けて煌めいた。ルシウスはゆるやかに目を細める。


 ――最後にこちらを見返した、あの黒曜石の瞳。


(……本当に、惜しい)


 ルシウスは喉の奥で笑う。


「まあ良い」


 ルシウスは緩慢な動作で立ち上がった。黒衣が翻り、黄金の瞳が細められる。


「帰るぞ。今宵は実に良い夜だった」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ