第三十話 五度目の正直
「――テレシア嬢、私と結婚してくださいませんか」
その言葉に一番驚いたのは、何を隠そうレヴィエント本人だった。
一拍、世界が止まったような沈黙が落ちる。一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。
(……今、俺は何を言った?)
理解が、わずかに遅れて追いつく。レヴィエントは酷く混乱していた。
今日のはずではなかった。
きちんと、準備をして。花も、指輪も、言葉も、全部。中途半端にはしたくなかった。テレシアに相応しい形で、伝えたいと――まだ、何一つとして揃っていないのに。
今ここで言うべきではなかった。順序が違う。段取りが違う。何より、自分が望んでいた形ではない。こんなはずではなかった、とレヴィエントは思う。もっと、彼女に相応しい形で――。
だがその思考は、次の瞬間、あっけなく途切れた。
(……は、)
目の前のテレシアが、わずかに目を見開いている。――驚き。それも、取り繕われていない、本物の動揺だった。
普段の彼女なら、どれほど予想外の言葉でも、静かに受け止めるだけの強さがある。そういう人だと、レヴィエントは思っていた。
そのテレシアが、今、ほんのわずかに言葉を失っている。
その事実だけで、レヴィエントは腹をくくることができた。
(……違うな)
準備がどうとか、形がどうとか、そういう話ではない。
今この瞬間、彼女の前に立っているのは、完成された贈り物ではなく、自分そのものだ。
不完全で、衝動的で、計画性もなく――それでもなお、言葉にしてしまった自分。
それで十分ではないか、とどこかで思った。
いや――十分かどうかなど、もはや関係ない。
すでに言ってしまったのだ。ならば今さら、引く理由はどこにもない。
レヴィエントはゆっくりと息を吐いた。さきほどまでの混乱を、表情の奥へと押し込める。
「……失礼いたしました」
声音は落ち着いていた。揺れはない。視線も、逸らさない。
テレシアを真正面から見たまま、レヴィエントは続ける。
「今の言葉に、取り消しの意図はありません」
そう言ってから、ほんの一瞬だけ間を置く。
今度は衝動ではない。自分の意志として、改めて――もう一度。同じ言葉を、静かに口にする。
「テレシア嬢、私と結婚してくださいませんか」
「……わたくし、」
テレシアは、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。だが、それもすぐに整え直される。碧い瞳が静かに伏せられ、かすかに覗いた感情はすぐに薄い微笑の奥へ収められてしまった。再び顔を上げた時、そこにいたのは、いつものテレシアだ。
穏やかで、美しく、完璧な公爵令嬢。ただ――その瞳の奥にあるものだけが、少し違う。
「わたくし……」
静かな声音だった。
「とても無礼なことを、たくさん申し上げましたわ」
レヴィエントは小さく目を瞬かせる。思いがけない言葉だった。
「騎士となる前の貴方へも、なってからの貴方へも。わたくし、随分と厳しいことを申し上げて参りました」
テレシアは少しだけ視線を落とした。レヴィエントへ向けた数々の言葉を思い返しているのだろう。
――わたくし、粗野な行動をする方は苦手ですの。
――わたくし、礼儀作法のなっていない方とはお付き合いいたしませんの。
――わたくし、上品な言葉遣いの方を好ましく思います。
――わたくし、結婚するなら自然と会話が尽きないような方がよいのです。
「あれらの言葉で、貴方を傷つけたことも……あるいはあったはずですわ」
テレシアは、そう言ってレヴィエントをまっすぐに見つめた。痛みを覚悟しているかのような表情だった。碧い瞳の奥が、かすかに揺れる。
――なんだ、そんなことか、とレヴィエントは思った。彼女の懸念がそれであったことに、安堵すらしていた。
「全て私の将来を想ってのことだと、今の私は分かっております」
レヴィエントは静かに答えた。迷いのない声音だった。
「けれど……」
テレシアはほんのわずかに苦笑する。
「今のターズウェル様は、とても立派な紳士になられました。わたくしでなくとも、もっと可愛らしい性格の御令嬢は、たくさんいらっしゃいます」
その言葉に対する答えを口にするのに、レヴィエントはほとんど間を置かなかった。それが遠回しな断り文句なのだとは、どうしても思えなかったからだ。それはレヴィエントの直感であり――おそらく事実だった。
「私は貴女がいいのです。他の誰でもない――テレシア嬢、貴女が」
レヴィエントの声はまっすぐで、一切の迷いがない。テレシアの碧い瞳の奥が、やはりほんのわずかに揺れる。レヴィエントは静かに続けた。
「私は、貴女に認めてもらうためだけに、今まで精進して参りました。未だ至らぬ点があるのなら、どうぞおっしゃってください。次にお会いする時までに、必ず直して参ります」
静かな声音だった。けれど、その中には十年分の歳月がある。
「至らぬ点など……今や貴方は、完璧な紳士ですもの」
テレシアは美しく微笑んだ。その言葉に嘘はない、ように見える。レヴィエントは、その言葉を静かに受け止めていた。
十年前なら、きっと有頂天になっていたに違いない。認められたのだと、単純に喜んでいただろう。
けれど今のレヴィエントは、その言葉の奥にあるものへ気づける程度には大人になっていた。
(彼女は、何を恐れているのだろう)
テレシアは、逃げている。
貴方はもう立派だから、わたくしでなくていいでしょう、と。そう言外に告げている。
それは拒絶ではない。むしろ逆だ、とレヴィエントは思う。
(逃げ道……か?)
テレシアの声音は穏やかだった。表情も、いつも通り美しい。けれど、レヴィエントには分かった。彼女は今、レヴィエントへ逃げ道を与えている。
衝動的な求婚だったのなら、まだ引き返せるように。後になって後悔しないように。彼女は今、自分へ別の選択肢を差し出しているのだと思った。レヴィエントが自身の口から出た言葉に自分で動揺したことくらい、テレシアは容易に察しただろうから。
――衝動。それは、レヴィエントとテレシアの、一番最初の出会いで――確かに、今日までレヴィエントを突き動かしてきたものだ。だが同時に、衝動とは、理性や計画といったもの――おそらく、今日までテレシアを動かしてきたものと、ほとんど対極に位置する。
テレシアはレヴィエントの衝動を、あるいは恐れているのかもしれない。彼女が衝動に従って何かを決めたことなど、おそらくなかっただろうから。
――もっと相応しい令嬢がいる。
――わたくしでなくてもいい。
レヴィエントは静かに彼女を見つめた。
テレシアの碧い瞳は落ち着いている。完璧な公爵令嬢の顔だ。けれど、その瞳の奥だけが、微かに揺れていた。
だから、レヴィエントは迷わなかった。
十年。――十年だ。十年持ち続けた衝動。それはもはや、信念と言ってもいいだろう。レヴィエントの人生の、一番中心に近い位置に、テレシアはいる。
洗練されている、と人に評される礼儀作法も。腹の探り合いを上手く切り抜ける社交の技術も。歴史や芸術に至るまでの幅広い教養も。すべて、彼女がいなければ、自分には縁のなかったものだ。
レヴィエントが積み重ねてきた日々の、その根底には、ずっと彼女がいた。
「完璧と……そう評してくださるのなら。私に、貴女の隣に並び立つ栄誉を。――どうか」
レヴィエントの黒曜石の瞳が、テレシアをまっすぐに見つめた。切実な瞳だった。研ぎ澄まされた鋭さが、確かな熱を孕んでテレシアを射抜く。
「わたくし……」
テレシアは小さく息を吐いた。自分の臆病が、固く閉ざしていたはずの本音が――恐れが、静かにほどけていくのを感じていた。
「貴方の前では、随分と可愛げのない振る舞いばかりして参りました。それでもまだ……レヴィエント様は、わたくしを想ってくださると言うの?」
ほんの少しだけ震えたその声へと答えることに、レヴィエントは当然、少しも迷わなかった。
「ええ。初めてお会いしたあの時から、ずっと貴女を愛しています」
その声音には、熱よりも静けさがあった。だからこそ、その言葉が十年積み重ねられてきた本心なのだと、痛いほど分かってしまう。衝動などとは呼べない重さが、そこにはあった。
「――わたくし、わたくしを一途に愛してくださる方と、一緒になりたく思いますわ」
テレシアは優雅な笑みを浮かべて、静かにそう答える。穏やかで落ち着いた、いつものテレシアの声だ。その言葉の意味に気づいて、レヴィエントは思わず小さく笑う。それは、ほとんど答えを聞いたも同然だった。
「貴女を想う気持ちなら、私は世界中の誰にも負けない自信がありますよ」
レヴィエントは右手を胸元へ添え、そのまま、テレシアの前にゆっくりと片膝をつく。――騎士の礼だ。
そうしてレヴィエントは、テレシアをまっすぐに見つめた。
「私と結婚していただけますか、テレシア嬢?」
「――ええ。そのお申し出、謹んでお受けいたします」
テレシアは美しく笑った。花の咲くような笑顔だった。それは、これまで見た中で一等やわらかい表情で――レヴィエントは、自分が十年焦がれ続けたものに、ようやく辿り着けたのだと思った。
テレシアの白魚のような手が、そっとレヴィエントの手に重ねられる。レヴィエントはその手を取って、まるで祈るように自身の額に押し当てた。
「……今だけは、どうかこの無礼をお許しください。十年越しに初恋が叶ったんだ。これでも、貴女を抱きしめるのを必死に堪えているんですよ」
ああ、と息をついたレヴィエントを見て、テレシアはくすくすと笑った。




