第二十九話 秋の祝年会
翌日に行われた秋の祝年会は、成年式典とは打って変わって華やかな熱気に満ちていた。
王宮の大広間には無数の灯りが揺れ、弦楽器の音色が絶え間なく流れている。色鮮やかなドレスと礼装が行き交い、人々は笑い、語り、杯を交わしていた。
だが、その賑わいの中にあっても、レヴィエントの意識はどこか冷静だった。
礼装軍服姿のまま壁際へ立ち、グラスを傾ける。
視界の端では、貴族たちが楽しげに談笑していた。だが、レヴィエントの胸中には、未だ前線の空気が残っている。瘴気の匂い。乾いた荒野。夜更けの会議室。
西側丘陵地帯の状況は、決して楽観できるものではない。本来なら、自分は今ここにいるべきではないのだ。
明日の早朝には王都を発つ予定でいる。既に馬も手配済みだ。前線の状況を考えれば、一日でも早く戻りたかった。
レヴィエントは、必要最低限の挨拶だけ済ませ、早々に退出するつもりでいた。
(……長くはいられないな)
静かに息を吐く。
せめて、テレシアへ挨拶だけはしておこう。そう思って視線を巡らせた、その時だった。
(――は、)
思わず、目を奪われる。時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
成年式典の時も、こんなに美しい人はいないと思った。だが、今日のテレシアは――。
(どう形容していいかも、わからないな……)
祝年会の衣装を纏ったテレシアは、まるで月光そのもののようだった。
銀青色のドレスは、夜空へ淡く滲む月明かりを閉じ込めたような色合いをしている。歩くたびに裾が水面のように波打ち、淡い光を流す様は、静かな湖へ月が映り込んだかのようだった。胸元から肩口にかけての銀糸の刺繍が、光の粒のように煌めいている。
長い金髪は緩やかに編み込まれ、肩口へ流れる金糸が灯りを受けるたびに淡く光っていた。耳元ではオパールの耳飾りが静かに揺れている。虹色を孕んだ輝きが、白い頬へ淡く滲んだ。
周囲には何人もの令嬢や青年貴族が集まっていたが、その中心に立つ彼女だけが、まるで別の光を帯びて見える。まるで、秋の夜空に浮かぶ月だった。誰の上にも等しく光を落とすくせに、決して手の届かないもの。
気高いのに、冷たくはない。静かなのに、目を離せない。
――そう思った瞬間、レヴィエントは自分でも可笑しくなった。たった一人の女性を見ただけで、心はこんなにも掻き乱されている。
気づけば、足は既に彼女の方へ向かっていた。
「テレシア嬢」
声を掛けると、テレシアが振り返る。その瞬間――碧い瞳が僅かに揺れた、ように見えた。
「レヴィエント卿」
テレシアは美しく微笑んだ。柔らかな声音だった。
「ご無事で何よりですわ」
「ええ。何とか戻ってこられました」
それから少し、他愛もない会話を重ねた。ただ彼女の隣にいられること――それだけで、レヴィエントは随分と満たされてしまっている。
「この果実酒は、随分口当たりが軽いですね」
「ええ。今年は北方原産の果実を使っているそうですわ」
「なるほど。私はこちらの方が好きかもしれません」
「でしたら、きっとアルネス領の果実酒もお口に合うと――あら」
気がつけば――レヴィエントとテレシアの周りからは、先ほどまで周囲にいた令嬢たちの姿はなくなっていた。
もちろん、完全な二人きりではない。少し離れれば人もいるし、視線もある。だが、少なくとも会話までは聞こえない程度には距離が空いた。
残されたテレシアが、小さく息を吐く。
「……きっと、気を遣われてしまいましたわね」
少し困ったように微笑む横顔を見て、レヴィエントは思わず口元を緩めた。
「いえ、私にとってはありがたい気遣いです」
そう答えると、テレシアはまた少し笑った。
「それにしても、今年の祝年会は本当に盛況ですね」
「ええ。帝国からの使節団の方々もいらっしゃいますから」
そう言いながら、テレシアは軽く視線を会場へ流す。
「皆さま、少し緊張なさっているようですわね」
「そう見えます」
「レヴィエント様は?」
「私は、あまり変わりません」
「ふふ。それが一番頼もしいですわ」
テレシアとの会話は、まるで心地の良い底なし沼のようだった。気がつけば、もう少し、もう少しだけと、そればかり考えている。
もう一つだけ話題を続ければいい。もう一度だけ、彼女の声を聞けばいい。
そうやって、小さな先延ばしを重ねている自覚はあった。些細な話題を繋げては、もう少しだけこの時間が続けばいいと、そう願ってしまう自分がいる。
(……まずいな)
理性のどこかでそう思うのに、体は動かない。
会話の切れ目が訪れるたびに、ここで終わらせるべきだと理解する。ここで一度区切るのが最も自然で、最も正しい。それでも、その一拍の沈黙の間に、次の言葉を探してしまう。
その空白を埋めるように、レヴィエントはまた口を開く。
他愛もない話だ。どうでもいいと言えばどうでもいい話題。それでも、それを話している間だけは、もう少しここにいられる。
「まあ、そんなことが?」
くすくすと、テレシアが笑った。ゆるやかに流れる金髪が少し揺れる。レヴィエントを見つめる碧い瞳が、わずかに丸くゆるんだ。
その笑顔が、あまりにもやわらかくて。
――ああ、と思った。このまま終わってしまうのが、惜しい。
前線へ戻ることも、命令も、理解している。今ここにいる時間が例外であることも分かっている。
それでも、もう一度だけこの表情を見たいと思ってしまった。
だから、それはほとんど、ただの衝動だったのだろう。
気がつけば、言葉は理性をすり抜けて、すでに音になっていた。――なって、しまっていた。
「――テレシア嬢、私と結婚してくださいませんか」




