第二十六話 時間
秋の気配を孕んだ風が、王宮の庭を静かに渡っていた。夏の名残を留めていた薔薇も盛りを過ぎ、代わりに白い秋花が薄曇りの空の下で揺れている。
王都では、秋の出征前の壮行会が行われていた。
昼には騎士団の行軍が執り行われ、王都の大通りには民衆が詰めかけていた。
甲冑を纏った騎士たちが整然と列をなし、その先頭を進むレヴィエントの姿は、否応なく人目を引いた。馬上の彼は、無駄な言葉一つなく、それでいて誰よりも強い存在感を放っていた。
――王国の英雄。そう呼ばれるに相応しい姿だった。
行軍行事が終わると、王宮にて夕食を兼ねた壮行会が開かれる。壮行会と言っても、小夜会のような形式だ。軍関係者だけでなく、有力貴族も招かれた半公式の場である。煌びやかな大夜会ほど華やかではない。だがその分、空気にはどこか静かな緊張感が漂っていた。
レヴィエントは、壁際でグラスを傾けながら、小さく息を吐いた。
礼装用の軍服は、普段の騎士装束よりも遥かに装飾的だった。肩章には銀糸が編み込まれ、胸元には勲章が並ぶ。
だが、着慣れないというほどではない。戦功を重ねるたび、この服を纏う機会も増えていた。
周囲では貴族たちが談笑している。出征前とはいえ、ここは社交の場だ。笑顔もあれば、打算もある。誰もが、王国の英雄に一言声を掛けたがっていた。
だが、レヴィエントの視線は、自然と一人の女性に引き寄せられる。言うまでもなく、テレシアだった。
美しい金髪はサイドで緩やかにまとめられ、深いクロムグリーンのドレスは秋雨に濡れた森を思わせる静かな色合いだった。胸元には金の刺繍が控えめに施されている。華やかというより落ち着いた気品と静かな威厳を纏う装いだった。彼女は相も変わらず、たくさんの人に囲まれている。
レヴィエントは知っている。彼女はただ美しいだけの女性ではない。あの細い肩に、誰よりも重いものを背負っている。――だから、守りたいと思ったのだ。
気づけば、足は自然と彼女の方へ向いていた。
「テレシア嬢」
声を掛けると、テレシアはゆるやかに振り返った。
「レヴィエント卿。本日はご壮健そうで何よりですわ」
完璧な笑みだった。角度も、声音も、非の打ち所がない。
けれどレヴィエントには、やはりほんの少しだけ、その笑顔がやわらかく見えた。
「昼の行軍、拝見しておりました」
「それは光栄です。騎士団として恥じぬ行軍になっていたら良いのですが」
「ええ。とてもお似合いでしたわ。皆様、見惚れておりましたもの」
テレシアはさらりとそう言ってのける。その些細な言葉一つに、動揺してしまう自分が少々情けなかった。
内心の動揺を隠して、レヴィエントは苦笑する。
「他でもない貴女に見惚れていただけたなら、光栄の至りです」
「ふふ。相変わらず、お言葉が巧みですこと。そのように仰っていただけるなんて、わたくしも光栄ですわ」
テレシアがくすくすと笑う。その笑い方は控えめで、淑女として完璧に整えられているはずなのに、不思議とレヴィエントの胸を軽く掻き乱した。
「……そういえば」
会話を繋ぐように、レヴィエントはグラスを持ち直す。
「今年の成年式典は、例年以上に盛大になると聞きました」
「ええ。帝国からの使節団が来る時期と重なるそうで、祝年会もかなり大規模になるそうですわ」
成年式典とその翌日の秋の祝年会は、毎年秋の終わりに催される。貴族の子女たちの成人を祝うこの二つの行事は、王家主催の公式行事の中でも規模の大きな催しであった。今年は帝国使節団の来訪時期とも重なり、例年以上の賑わいになると噂されていた。
「レヴィエント卿は、その頃には王都へ戻られているのですか?」
問われて、レヴィエントは頷く。
「その予定です。今年の討伐はそこまで大規模にはならない見込みですから」
「まあ、それは何よりですわ」
「成年式典には出してやるからな、と、上官も毎日のように言ってくるので」
軽く冗談めかして言うと、テレシアは上品に微笑んだ。
「ふふ、愛されておいでですね」
「第一騎士団では私が一番年下ですから、子ども扱いされているだけですよ。ですが、人には恵まれていると常々思います」
それから、少しの間、他愛もない雑談を重ねた。テレシアが笑うと、緩やかにまとめられた金の髪が少し揺れる。その金糸の間から覗くオパールの耳飾りが、不思議な煌めきを放っていた。虹色に揺らめく光が、星花の光を思わせる。
そう思った瞬間、気がつけば彼女の名前を呼んでいた。
「テレシア嬢」
いささか唐突に名前を呼ばれて、テレシアは少しばかり不思議そうにレヴィエントを見つめる。その碧い瞳に囚われて、不思議なくらい自然に、その言葉が口をついて出た。
「――もう少しだけ、待っていてください」
何を、とは、言わなかった。聡いテレシアであれば、きっと言わずとも伝わるだろうから。余計な言葉を重ねるより、その方がずっと良いと思った。
テレシアの睫毛が、一度だけゆっくりと瞬いた。彼女は黙ってレヴィエントを見つめていた。碧い瞳は静かで、その奥に何を思っているのかは読み取れない。
やがて、テレシアはゆるやかに微笑む。美しい笑顔だった。
「ええ。お待ちしておりますわ」
テレシアの穏やかな声音に、レヴィエントは知らず息をついていた。
――――
レヴィエントは、どこか安堵したように目を細めた。その表情を見ながら、テレシアは静かに微笑みを保つ。
――もう少しだけ、待っていてください。
その言葉が、胸の奥で何度も反芻されていた。
彼が意味もなくそんな言葉を口にする人ではないことを、テレシアは知っている。
だからきっと、それは彼なりの覚悟なのだろう。そして、それはテレシアが待ち望んでいたものと同じなのだろうと、自然とそう思った。
だが同時に、胸の奥へ小さな不安が落ちる。
(……もう少し、とは)
どれくらいの時間なのだろう。
数日。数週間。あるいは、もっと先なのか。
レヴィエントは騎士だ。前線へ赴けば、予定通り帰還できる保証などない。成年式典までには帰ると言っていたが、戦況次第では遠征が延びることもある。
だからこそ、もう少しがどのくらいの期間を指すのか、テレシアには分からなかった。
分からないまま――それでも期待してしまう。
愚かだ、とテレシアは思う。
フルリエ家の人間として育てられた自分が、曖昧な言葉一つへこんなにも心を揺らすなど、本来あってはならないことだった。
それでも。
(……秋の祝年会まで、なら)
胸の内で、そっと呟く。
(それまでなら、待てます)
そのことを、レヴィエントは知らない。テレシア自身も、伝えることは出来なかった。
期限があると伝えれば、レヴィエントはきっと、今すぐにでも欲しい言葉をくれるだろう。だが、それは賭けの条件に反する。
だから、テレシアは何も言えない。
「レヴィエント卿は、明日ご出発でしたわね」
穏やかに問いかけると、レヴィエントは頷いた。
「ええ。明朝には」
「……そうですか」
短い返答。それだけで終えたのは、それ以上言葉を続ければ、何かが滲み出てしまいそうだったからだ。
余計な言葉を、口にしてしまいそうだった。
だからテレシアは、ただ静かに微笑む。
「今年の前線は冷え込むと聞きましたわ。どうか、お身体にはお気をつけくださいませ」
レヴィエントは優しく目を細め、「ありがとうございます」と答えた。その穏やかな声音を聞きながら、テレシアは胸の奥でそっと祈る。
(……どうか)
その「もう少し」が。
自分の待てる時間に、間に合いますように、と。




