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第二十五話 ファースト・ダンス


 ()()を果たす機会は、思いのほか早く訪れた。


 晩夏の熱気がようやく抜け始め、夜風にわずかな涼しさが混じる季節だった。

 王都の子爵邸で開かれた夜会は、夏の終わりと秋の始まりを曖昧に溶かしたような空気をまとっていた。音楽が流れ、高い天井に吊られた燭火の明かりが揺れている。磨かれた床には貴族たちの影が滑るように伸び、笑声と会話が柔らかく重なっていた。


 家格こそ子爵ではあるが、建国以来の名門であり、フルリエ公爵閥でもそれなりの発言権を持つ子爵家の夜会には、フルリエ公爵閥の貴族を中心とした錚々たる顔ぶれが並んでいた。

 フルリエ公爵家からテレシアが参加していることも、不自然ではない。フルリエ公爵閥の有力貴族が主催なのだから、フルリエ公爵家の子女が参加するのは当然とさえ言えるのかもしれなかった。だから、どちらかと言えば、異質なのはレヴィエントの方だ。


「アルネス子爵閣下にご挨拶申し上げます。本日はお招きいただき、ありがとうございます」

「はは、硬い挨拶はいいよ、レヴィエント卿。私の方こそ、エルハンダラの英雄殿に足を運んでいただけるとは光栄だな」


 アルネス子爵は物腰の柔らかな男で、柔和な顔立ちにはどこか人の好さを感じさせる笑みを浮かべている。そう、いつかの夜会で、レヴィエントが席を外すことを快く認めてくれた御仁だった。

 彼の柔らかさは、おそらく相手の警戒を解くために計算されたものなのだろう。言葉は丁寧で穏やかなのに、会話の要所では一切の曖昧さがない。フルリエ公爵閥の貴族ばかりが集まるこの夜会にレヴィエントを招いたという事実だけで、彼がただ人の好いだけの人間でないことは明らかだった。

 別れ際に告げられた言葉で、その確信は一層強くなる。


「そういえば。……ファーストダンス、楽しみにしているよ」

「……やはり、あえてでしたか」

「ふふ、そりゃあね。その方が面白いだろう?」


 アルネス子爵はにこやかにグラスを傾けると、そのまま人波の中へと紛れていった。


 レヴィエントは、入場した瞬間から、向けられる視線が妙に多いことを感じ取っていた。フルリエ公爵閥の多いこの場において、レヴィエントが少々異質だからかと考えていたが――その理由は、渡されたプログラムを見てすぐにわかった。

 プログラムを取り出し、広げる。出席者の名簿、楽団の名前、供される料理のメニュー、そして――ダンス・プログラム。その筆頭には、ファーストダンスを踊るペアの名前が記されている。


 主催席にはアルネス子爵、ダンスパートナーは妻のアルネス子爵夫人。

 筆頭紳士はセルヴァラン侯爵、ダンスパートナーは同じく妻のセルヴァラン侯爵夫人。

 筆頭淑女はテレシア・フルリエ公爵令嬢、ダンスパートナーは――空欄だった。


 こうした夜会で、ファーストダンスのダンスパートナーが()()ということはあり得ない。進行の都合上、事前に主催者側に通告するのがマナーだからだ。当日欠席のようなイレギュラーがあれば別だが、今日の夜会に当日欠席者はいない。印刷ミスの可能性も、アルネス子爵に限ってあり得ないだろう。

 となると、考えられる可能性は一つ。主催者側は誰がダンスパートナーなのかを知っていて――あえて伏せている、ということだ。


(誰が彼女と踊るのか……その予想を()()としたのか)


 今日の夜会に、最有力とされているハルミオン侯爵家は出席していない。当然、出席者の中で最も有力とされているのはレヴィエントということになる。フルリエ公爵閥でもないレヴィエントが招待されているという異質さも相まって、会場の視線はレヴィエントに集中していた。


「やはりレヴィエント卿ではないか?」

「今日はエリシオ卿もいらっしゃらないしな……」

「いや、他にもテレシア嬢へ釣書を送ったという貴族家はいくつかあるぞ」

「私はレヴィエント卿に賭けよう」


 笑い混じりの小声が、絹のように空気の端を流れていく。だがそのすべてが、レヴィエントの耳に届かないほど小さなものではなかった。


(……なるほど。これはまた随分とやり辛いな)


 レヴィエントは内心で苦笑した。この品定めされるような視線は、これまで何度も経験してきたものだ。だが、今回のそれは()()が違った。

 この夜会に出席しているのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。派閥筆頭であるフルリエ公爵家の子女の婚約ともなれば――当然、他の貴族と比べて、その動向はよほど重要視しているだろう。

 突き刺さる視線は誰のものとも知れないが、誰であってもやることは変わらなかった。


(俺がやることは、最初から決まっている)


 王国において、夜会のダンスは男性から女性に申し込むのが基本的なマナーである。それは、ファーストダンスも例外ではない。むしろ、流れで踊ることもある通常のダンスと比べ、ファーストダンスではより形式的な誘い文句が使われる傾向にあった。

 ファーストダンスでは、主催席、筆頭紳士、筆頭淑女の三組のペアが踊る。主催者ペアの男性側、筆頭紳士、そして筆頭淑女のダンスパートナーが、ペアの女性にファーストダンスを申し込む形式を採るのが一般的だった。相手は事前に決まっているとはいえ、社交界で大事なのは「見え方」なのである。


 歓談の時間も良い頃となり、楽団が演奏する音楽の雰囲気が変わる。――ダンス・プログラムの時間だった。招待客は自然と会場の中央付近を空け、ファーストダンスの見物に移る。


 初めにダンスフロアへ入るのは、主催席のペアである。アルネス子爵が妻に手を差し伸べ、ファーストダンスを申し込む。アルネス子爵夫人は、流れるようにその手を取った。

 次は筆頭紳士のペアだ。セルヴァラン侯爵は、妻の前に恭しく片膝を付き、「どうか、私に貴女とファーストダンスを踊る栄誉を」と告げる。セルヴァラン侯爵は、こういったロマンチックなやり取りを好む御仁だった。セルヴァラン侯爵夫人は相変わらずの夫の様子に少し苦笑し、差し出された手に自身の手を重ねた。

 そして、最後が――筆頭淑女のペアである。


 ()()()()()を前に、会場は異様なほど静かだった。テレシアの周囲がさっと開ける。常に人に囲まれている彼女にしては珍しい光景だった。


 レヴィエントは、ゆっくりとテレシアの前に進み出る。レヴィエントが一歩踏み出した瞬間から、先ほどの静けさが嘘のように、貴族たちはざわめき出した。好奇と確信が混じった視線が、レヴィエントとテレシアの間に集まっていく。


 テレシアの美しい金髪は結い上げられ、その髪には夜会用の繊細な髪飾りが編み込まれている。細い銀細工が燭火を受けて、静かに星のような光を散らしていた。

 ミッドナイトブルーのドレスは、夜の色をそのまま布に落とし込んだような色合いで、胸元から肩にかけては流れるように白銀の刺繍が走っている。まるで星空のようなその意匠は控えめながらも、ともすれば暗い印象を与えるドレスの色彩の中に、静かな華やぎを添えている。

 耳元には、青を煮詰めたような濃いサファイアの耳飾りが揺れていた。


 レヴィエントは、テレシアの前で静かに足を止める。


「テレシア嬢」


 会場中の視線が集まっている。好奇、打算、探るような眼差し。そのすべてを感じながら、レヴィエントの意識はただ一人へと向いていた。

 レヴィエントには、もはや周囲のざわめきも視線も、何一つとして気にならなかった。ただ目の前の女性の――焦がれた人の今日の美しさを、その目に焼き付けていたいと思った。


 レヴィエントは右手を胸元へ添え――そのまま、テレシアの前に、ゆっくりと片膝をつく。

 それは社交用に形だけ整えた礼ではなかった。騎士の礼と呼ばれる――騎士職の男性が、高位の貴婦人へ敬意を捧げるための正式な礼である。公式式典などでも用いられる、格式ある所作だった。


 背筋は一切揺らがず、剣を扱う時と同じように無駄がない。鍛え抜かれた身体だからこそ成り立つ、洗練された動作だった。礼装越しにも分かる均整の取れた体躯と、研ぎ澄まされた所作が、ほんの一動作だけで場の空気を変える。


 周囲のざわめきが、一瞬止んだ。まるで、その場の誰もが無意識に息を呑んだかのようだった。


 貴族として美しい礼は数あれど、本職の騎士が行う礼には独特の迫力がある。それは単なる優雅さではない。命を懸ける者だけが持つ緊張感と、絶対に崩れない規律の美しさだった。


 レヴィエントは顔を上げる。黒曜石の瞳が、真っ直ぐにテレシアを見つめた。


「――私と、ファーストダンスをご一緒いただけますか」


 余計な言葉はない。けれど、その一言だけで十分だった。

 それが社交辞令ではなく、本心からの誘いであることを疑う者は、この場にはいなかった。

 

「ええ。喜んで、お受けいたしますわ」


――――


 三組ともダンスフロアに入ったことで、楽団の演奏が切り替わる。ゆるやかで格調高い旋律が、夜会場いっぱいに広がっていった。

 

 主催席、筆頭紳士、筆頭淑女。三組のファーストダンスが同時に始まる。

 だが、会場中の視線は間違いなくレヴィエントとテレシアへ注がれていた。


 レヴィエントはテレシアの腰へ手を添え、一定の距離を保ったままステップを踏む。

 軍人らしく無骨な印象を持たれがちな彼だったが、ダンスの技術そのものは決して低くない。むしろ、鍛え抜かれた体幹と正確な重心移動のおかげで、その動きは驚くほど安定していた。

 迷いなく踏み込む足、ぶれない軸、相手を乱さないリード。


 剣術と同じだ、とレヴィエントは思う。相手の重心を読み、呼吸を合わせ、最も動きやすい位置へ導く。違うのは、手に剣がないことくらいだった。

 何千何万と繰り返してきたことが、テレシアに触れているときは、どうにも少し落ち着かない。ダンス自体は大した強度でもないのに、体温は上がり、鼓動は速くなる。その意味は、十年も前から知っている。


「やはり、本職の騎士の礼は見事ですね。とても良いものを見せていただきました」


 テレシアが静かに言う。その声音は穏やかで、けれどどこか感心したようでもあった。


「お褒めにあずかり光栄です。礼を捧げる女性が素晴らしいお方だからでしょう」

「まあ、お上手」


 テレシアは小さく微笑んだ。

 ほんのわずかだけやわらかくなるその表情を、レヴィエントは見逃さなかった。


 その笑顔が眩しくて、レヴィエントはほんの少し、目を細める。


 テレシアが自分に向ける笑顔は、昔より少しだけやわらかくなったと、レヴィエントは感じていた。もちろん、社交界での彼女は今も完璧だ。完成された笑顔からは、彼女の真意など何一つとして読み取れない。

 だが時折、こうしてほんの少しだけやわらかく笑う。人間らしい温度を帯びた表情を見せる。これは、あるいは彼女の表情管理なのかもしれないが――それでもいいと思った。少なくとも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()には、なれたということだから。

 

 その変化がいつからだったのか、レヴィエントには分からない。ただ、その笑顔をもっと見たいと――そう思う。


 ステップを踏みながら、レヴィエントはふと周囲へ視線を巡らせる。

 無数の視線が集まっていた。フルリエ公爵閥の貴族たちだ。値踏みするような目、探るような目、面白がるような目。

 この場でレヴィエントがテレシアとファーストダンスを踊る意味を、誰もが量ろうとしている。

 それでも、レヴィエントの心は不思議なほど静かだった。


 怖くはない。逃げたいとも思わない。


 昔なら違った。社交も礼儀も嫌いだった頃の自分なら、こんな場所には立っていられなかっただろう。

 だが今は、違う。


 レヴィエントは多くを学んだ。言葉を、礼儀を、振る舞いを。貴族としての在り方を。

 ――全部、彼女の隣に立つためだ。


(……ああ)


 胸の内で、静かに理解する。

 自分はもう、とっくに決めていたのだ。


(――この人を、誰にも渡したくない)


 その感情を、ようやくレヴィエントは明確な言葉として認識した。

 ならば、するべきことは一つだ。


(……いつが、いいだろうな)


 テレシアのミッドナイトブルーのドレスが、ターンに合わせて美しく広がった。胸元の銀糸の刺繍が燭火に浮かび上がり、サファイアの耳飾りが青く煌めく。青を煮詰めたように濃いそのサファイアは、影が差すとまるで黒曜石のように深い黒にも見えた。


 ――冬だ、と、不意にそう思った。


 建国祭の夜がいい。


 建国祭は、王国建国を祝う冬の祭典だった。建国の王が、星の導きを受けてこの国を興したという伝承に由来し、祭りでは古くから()()()が象徴とされてきた。

 昼には軍事式典や祝賀行事が行われるが、本番は夜だ。

 王都中に無数の灯火が掲げられ、街はまるで星空を地上へ写したかのような光景へと変わる。王宮では大夜会が催され、冬空へ放たれる魔法の光――星花と呼ばれる光の花が、一年の終わりを彩る。

 そしてこの国では、建国祭の夜に交わされた誓いは星々に祝福される――そんな言い伝えが、今なお信じられていた。


 冬の王都を埋め尽くす灯火。星を模した魔導灯。白銀の雪と、夜空へ咲く星花。

 ――王国で、最も美しい夜。


 あの夜なら、きっと似合うと思った。


 冬になれば前線も落ち着く。秋の魔物討伐が終われば、しばらく大規模遠征の予定はない。

 王都に腰を据えて動ける。きちんと準備もできる。


 どうせなら、ちゃんとした形で伝えたかった。

 花も、指輪も、言葉も、全部。中途半端にはしたくない。


 テレシアに相応しい形で、伝えたいと思った。


 曲はクライマックスに差し掛かり、二人の動きは速く複雑になる。視線が交差するたびに、何かがわずかに揺れる。その正体を掴めないまま、レヴィエントはただ正確に動き続けた。

 やがて、音楽が終盤へと向かう。


 最後の一歩。レヴィエントは自然に動きを収め、彼女を静かに止めた。拍手が起こるまでのほんのわずかな間だけ、世界が止まったかのようだった。


 その中で、テレシアが小さく息を吐く。


「ありがとうございました」


 その一言に、なぜか胸が少しだけ締め付けられる。

 レヴィエントは一礼した。そして、そっとテレシアの手を離す。


 離した瞬間、妙な空白が生まれた。その空白を埋めるものを、レヴィエントはまだ持っていない。


(……建国祭の夜に、もう一度だけ、伝えよう)


 ――自分と、一緒に生きてほしいと。


 レヴィエントはそう結論づける。

 その判断は正しいはずだった。準備を重ねて、最適な時を待ち、そうしてすべてを伝える。


 だが――手の中に残る、わずかな余熱だけが、なぜか説明のつかない焦燥を残していた。

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