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第二十三話 半歩前に


 レヴィエントが大広間に姿を現した瞬間、空気が僅かに変わったのを、テレシアは確かに感じ取っていた。


 ――また来た。


 そんなざわめきが、貴族たちの間を静かに走っていく。


 元々、レヴィエントは社交界とは距離を置いていた男だ。必要最低限の式典に顔を出すことはあっても、夜会や園遊会に積極的に参加することはほとんどなかった。それがここ最近、任務の合間を縫うようにして姿を見せている。

 しかも――彼が現れる場には、必ずテレシアがいる。偶然というには、少しばかり不自然だろう。


 おまけに、テレシアの婚約候補として有力と言われていた隣国宰相家の嫡男が、先日、同国の有力貴族令嬢との婚約をまとめたばかりである。社交界の天秤は大いに揺れた。


(……皆、分かりやすいこと)


 扇の奥で小さく笑う。

 以前よりも、こちらの様子を伺う視線が増えた。――明らかに。


 それはテレシア自身への注目だけではない。()()()()()()()()()()()()()という観測が、一段熱を帯び始めているのだ。


 そして、その中心にいるのが、今やレヴィエントだった。

 もっとも――本人はそんな空気などまるで意に介していない顔をしているのだが。


 軍装に近い黒の正装を纏った男は、壁際で数人の貴族と簡潔に言葉を交わしている。愛想を振りまくわけでもない。媚びるわけでもない。ただ立っているだけで、妙に目立った。


 艶やか黒髪に、黒曜石のような鋭い瞳。周囲の貴族たちよりも頭一つ高い長身に、鍛え抜かれた体躯。無駄のない所作。

 そして何より、()()の強者特有の圧。


 レヴィエントの騎士としての実力は、友好国である隣国にも知られている。だが、武門に疎い隣国貴族では、レヴィエントの顔までは知らない者たちもいる。そのような者たちですら、あれがただ者ではないと本能的に察する程度には、レヴィエントという男は異質だった。


「――テレシア嬢」


 不意に、低い声がかかった。テレシアは笑みを崩さぬまま振り返る。

 そこに立っていた男を見て、内心だけで小さくため息をついた。


(――面倒な相手に見つかったわね)


「これは、ディルセル卿。ご機嫌よう」


 男は隣国の上位貴族だった。家格だけで言えば申し分ない。実際、過去に正式な縁談の打診もあった。もっとも、その時点でフルリエ公爵家側が断っている。

 理由は単純だ。本人の人となりが、あまりにも悪かった。


 短慮で激情家。女癖も悪い。加えて、露骨な男尊女卑思想の持ち主で、さしたる実績もないのに自尊心ばかりは一人前。ろくな噂のない男だが、実体は噂の方がましなのではないかと思える放蕩ぶりだった。爵位と家格で辛うじて体裁を保っているような男だ。彼の父である侯爵は優秀で気も良い人物だが、嫡男の教育には致命的に失敗したと言わざるを得ないだろう。


「相変わらず美しいな、テレシア嬢。……それにしても不思議だ。まだ婚約が決まっていないとは」

「良縁というものは、焦って結ぶものではありませんもの」

「ふむ。しかし、そろそろ決めねばならない年頃だろう?」


 探るような視線。その奥にあるのは好意ではない。値踏みだ。


 この男にとって、テレシアは()()()()である以前に、()()()()()()なのだろう。美貌、血筋、才覚。どれも婚姻市場において極めて高値が付く。自尊心ばかりは山のように高いこの男のことだ、テレシアであれば自分の妻として相応しいとでも思っているのだろう。

 だからこそ理解できないのだ。なぜ、自分が断られたのか。


「以前は残念だった。私は今でも、貴女との縁は悪くないと思っているのだが」

「恐れ入りますわ」

「貴女ほどの女性なら、多少は我も強くて当然だ。だが、女は結局、男に守られて生きるものだろう?」


 テレシアは、内心で小さくため息をつきながら、それでも完璧な笑みを崩さなかった。周囲も空気を察し始める。


「わたくしは、対等な関係を築ける方を尊敬しておりますの。それに、婚姻とは家同士の問題でもありますわ。わたくし一人で決められるものでは――」

「対等だと?はは、面白いことを言うな。御託はよしてくれないか」


 ディルセルは、苛立ちを隠そうともせず言った。


「貴女ならば、とっくに嫁ぎ先が決まっていてもおかしくない。なのに未だ独り身だ。つまり、まだ選り好みをしているのだろう?」


 周囲の空気が、僅かに張る。失礼な物言いだ。静かに様子を伺っていた者たちの中には、眉を顰める者もいる。


「選り好み、というよりは慎重なのですわ」


 テレシアは柔らかく返した。


「生涯を共にする方を決めるのですもの。慎重になるのも当然ではありませんか?」

「それは理想論だ。女性は年齢が上がるほど価値が落ちる」


(……ああ、本当に面倒だわ)


 表情には出さず、テレシアは胸中だけで呟く。

 この手の男は、自分が拒絶されることを前提にしていない。だから断られると、「なぜだ」と執拗になる。面倒なことこの上なかった。

 相手は他国の高位貴族だ。いくら向こうが失礼な物言いをしてきたとはいえ、露骨に切り捨てれば、余計な外交問題の火種になりかねない。それに、この手の男はテレシアに――というより、女性にやり込められたとなれば、逆恨みしてくる可能性が高いだろう。ディルセル本人に対した能力はないとはいえ、無駄に敵を作るのも得策ではない。


「貴女ほどの美貌なら、多少気が強くとも問題ない。私なら受け入れて差し上げますよ」


 気が強い――その評価自体は間違っていないのだろうが、()()()()()()()という直接的な言い方に、テレシアは笑みの下で眉を顰めそうになった。


「ありがたいお言葉ですわ。けれど、婚姻とは()()ではなく、()()の上に成り立つものだと、わたくしは考えておりますの。――申し訳ありません、そろそろ別の方にもご挨拶をしなければなりませんので」

「ま、まあ、テレシア嬢。そう言わずに、もう少し話しましょう。よければあちらに――」


 さすがにテレシアの機嫌を損ねたと思ったのか、ディルセルは焦ったように言いつのり、無遠慮に手を伸ばしてくる。あまりに非常識な行動に意表を突かれたテレシアは、とっさに上手く避けることができなかった。


(っ……)


 強い力で手首を掴まれ、反射的に一瞬、身体が固まる。ディルセルの視線が、値踏みするようにテレシアの身体をなぞった。

 ――その時。


「失礼、ディルセル卿」


 ディルセルの身体に影が差した。心地の良いテノールが、二人の間に割って入る。――聞き慣れた声だった。

 振り返るより先に、周囲の空気が変わる。ざわ、と人波が揺れた。


「レディの手をそんなに強く掴んでは、跡が残ってしまいますよ」


 レヴィエントは落ち着いた声で続けるが、テレシアの手首を掴むディルセルの手に向けられた視線は、酷く鋭い。離せ、という無言の圧が感じられた。

 ディルセルは、眇められたレヴィエントの視線に、明らかに怯えているようだった。


「あ、ああ……すまない、咄嗟にな」


 ディルセルはパッと手を放し、すぐに引っ込めるが、レヴィエントの視線の鋭さは保たれたままだ。ディルセルより頭一つ近く高い長身が、自然な形でテレシアを半歩庇う位置に入る。


 圧迫感が違った。

 武力というものを理解している人間ほど、本能的に察する類の威圧感である。


 ディルセルの顔が引きつる。


 ――レヴィエント・ターズウェル。

 隣国にまで名が知れ渡る、王国最強の騎士。数々の戦場を渡り歩き、他国にまで名を轟かせる英雄。真正面から敵対したいと思う貴族などまずいない。戦場での武勲はもちろん、その剣技も体格も、男としての――いや、生物としての格そのものが違う。


 ディルセルは、ほとんど反射的に一歩退いた。僅かに目が泳ぐ。誰が見ても及び腰だった。


 その反応を見て、テレシアは内心で少しだけ笑いそうになる。つい先ほどまで、あれほど強気だったくせに、と。


「失礼ですが、テレシア嬢のお時間を頂戴しても?次のダンスのお約束を、以前いただいておりましたので」


 レヴィエントの言葉は穏やかだ。表情もにこやかで、社交上の礼儀も十分に弁えている。ただ、その黒曜石の瞳だけが、目の前の男を刺すように鋭く、冷たい。


「……っ、そ、そうか、そういうことなら」


 ディルセルは咳払いを一つして、取り繕うように笑った。反抗しようとさえ思えなかった。ディルセルが考えるのは、一刻も早くこの場から立ち去りたい、ただそれだけだ。


「では、私はこれで」


 逃げるように去っていくディルセルの背中を見送りながら、テレシアはようやく肩の力を抜いた。

 

 テレシアは、レヴィエントにエスコートされながら広間の中央付近へと移動する。ちょうど、図ったかのように音楽が切り替わるところだった。

 レヴィエントが自然な動作で手を差し出す。


「お付き合いいただけますか、テレシア嬢」

「ええ、もちろんです」


 テレシアはふっと笑って、その手を取った。

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