第二十話 非合理
釣書の相手について、遠国の大公家の次男→嫡男に変更いたしました。第十一話の表記も変更してあります。
時は少し遡る。テレシアは、私室の窓からタウンハウスの春先の庭を眺めていた。ほころび始めた蕾の瑞々しい美しさがテレシアを慰める。
父から己の婚約に関する裁量権を与えられてから、今日で一週間が経った。
――一週間。それは人生を揺るがす決断に対する猶予としては短く、だがテレシアにとっては十分な時間だった。政治は、常に主導権の奪い合いだ。それがどのような重さであれ、決断に時間がかかるほど後手に回ってしまう。
この一週間で、テレシアはすでに自分の決断に基づいた手を打っていた。
最も無難な選択は、釣書の中の国内貴族から婚約者を結ぶこと。政治的価値、影響力、将来性――どれを取っても盤石な縁談はいくつもあるし、相手方から申し込んできている以上、多少は交渉の有利も約束されている。
国内であれば、ハルミオン侯爵家か西の辺境伯家、もしくは北方の伯爵家が有力だろう。国内最大級の港湾都市を持つ名門、国防の要を担う王家の信頼篤い一族と、前者二家は社交界でも有力視されている。北方の伯爵家は予想外だろうが、最近領内で確認された鉱山を考えれば、あの家が持つ鉱石加工の技術は今のフルリエ公爵家と非常に相性がいい。伯爵家相手であれば、かなり有利な条件で婚約を結べるだろう。
(けれど、国内であればハルミオン侯爵家で決まりでしょうね)
フルリエ公爵家と同じく建国以来の名門であり、国内有数の豊かさを誇るハルミオン侯爵家の跡取り息子は、テレシアの婚約者として非常に適切だった。彼本人とは少なからぬ親交があり、人としての相性も悪くない。最も安全で確実な利益が見込める相手だ。
国外から選ぶことも、選択肢としては十二分に検討に値する。国内に比べてリスクはあるが、上手くやれば、フルリエ公爵家にとっても王国にとっても、国内から相手を選ぶより大きな利益をもたらすことができる。
国外であれば、新興国の末弟か遠国の大公家の嫡男が現実的だろうか。新興国はかなりの勢いで領土を拡大しているし、統治体制を見ても、当代の王が非常に優秀なことは疑いようがない。ここであの国と縁を繋いでおくことは、国としても悪くない選択と言える。遠国の大公家は非常に歴史ある家柄で、魔法の名門としても知られている。あの家の魔法技術の一端でも国に持ち帰ることができれば、軍事と内政の両面において無視できない利益となるだろう。友好国の宰相家も条件としては十分だが、兄が同国から妻を迎えていることを考えると、見込める利益よりも面倒の方が多い。
(国外であれば、王家との折衝も必要ね……けれど、わたくしの価値を最大限に生かすことができる)
もとは隣国に嫁ぐ予定だったテレシアは、王家から直々にそのための教育を受けていた。そのコストを考えれば、国としては、外交カードの一つとしてテレシアを国外に嫁がせることが望ましいだろう。王家がそれを命じてこないのは、先の婚約白紙がフルリエ公爵家に対する負い目として効いているからだ。それでも強権を発動するには、フルリエ公爵家は大きすぎる。
国内であれ、国外であれ。いずれにせよ、どの選択も「誤り」ではない。だが――。
テレシアは、視線を庭から外した。窓ガラスに映る自分の姿と、わずかに目が合う。
(この選択を、人はきっと愚かと笑うでしょうね。……お父様も、よくお許しになったものだわ)
――テレシアが選んだのは、そのいずれでもなかった。
机の上に置いてある手紙に目を向ける。上等な封筒に捺されているのは、帝国皇室の封蝋だった。
――賭けをいたしましょう。
大国の主に対して、あるいは不敬とも取られかねない提案だろう。だが、帝国の皇帝は乗ってくるという確信が、テレシアにはあった。
――――
――約六日前。
テレシアは、静かな自己嫌悪の中にいた。一夜明けて、多少は冷静になったところで、あらわになるのは自分の浅ましさばかりだった。
目を閉じれば、脳裏に浮かぶのは一人の青年の姿だ。艶やかな黒髪。心地の良いテノール。すっと伸びた背筋の、堂々とした立ち姿。そして――テレシアをまっすぐに見つめる、黒曜石の瞳。
(……少しは、期待してしまったわね)
自嘲が、胸の内でひどく軽く響く。
かつて何度も差し出されたものを、すべて退けてきたのは自分だ。理由はあった。状況もあった。あの時の選択に後悔はない――そう言い切れるだけの理屈は、今でも持っている。あの時は、あれが正しい選択だった。
けれど、いざ、それが差し出されなくなったとき。自分の方から手を伸ばすことが、これほどまでに――。
(――怖い、なんて)
唇がわずかに歪む。己の浅ましさに吐き気さえ覚えるようだった。理由も状況も、並び立てた理屈なんて、そんなものは言い訳にもなりはしない。
自分はこれまで、あの人の差し出したものを、何度も何度も断ってきたのだ。理由があったにせよ、結果だけを見れば同じこと。今さら自分が同じ立場に立つのを恐れるなど、あまりにも都合が良すぎる。
(――滑稽ね)
胸の奥で、冷えた声が自分を嗤う。
資格がない、と思う。
あれだけ拒み続けてきた自分が、今さら「受け入れてほしい」などと口にしていいはずがない。そして何より――。
(……もし、受け入れられなかったら)
そこまで思考が至った瞬間、すっと意識が止まる。
その先を、考えないようにしている自分に気づいて、テレシアは小さく息を吐いた。
ああ、そうか。結局はそこなのだ。
彼にどうしようもなく惹かれてしまっていたことを、隠し通してきたのは自分だ。そうするべきだと思ったし、事実そうするべきだったから。レヴィエントが成功した途端、手のひらを返すように妻の座を望むなんて、と。社交界が面白おかしく囀るのは目に見えている。
確かに、側から見れば、成功した途端に態度を変える浅ましい女に見えるかもしれない。だが、誰にそう思われようと構わなかった。テレシアは、家の利を考える貴族として、何も間違った行動はしていない。そのような程度の低い中傷で、フルリエ公爵家の名誉も、テレシアの矜持も傷付きはしない。
けれど――あの人にだけは、そう思われたくなかった。
(……本当に、どうしようもないわね)
理屈ではない。誇りでもない。――ただの、臆病だ。
それを自覚していても、テレシアは動けなかった。
ならば、と。
テレシアはゆっくりと目を伏せる。
――待とう。
今さら、自分から彼に愛を乞うことはできない。けれど、待つことならできる。
それはきっと、ひどく後ろ向きで、相も変わらず臆病な選択だった。
想いを告げる勇気もないくせに、それでも諦めきれず、相手が来てくれることを期待している。そんなものは恋ですらなく、甘えだと嗤われても仕方がない。けれど――。
(……それでも、わたくしは)
そんな臆病にさえすがるほど――彼を、諦めたくなかった。
何度突き放しても、それでも変わらず差し出され続けた想い。いつしかそれが、自分にとって当たり前になっていたこと。あのまっすぐな姿勢を、瞳を、綺麗だと思ったこと。
あれほど愚直に、まっすぐに、自分を求めてくれる人間など、この先、きっと二度とは現れないだろう。
胸の奥が、静かに痛んだ。
彼はもう、自分を選ばないかもしれない。もう十分だと、諦めてしまっているかもしれない。それでも――ほんのわずかでも、まだ可能性が残っているのなら。
テレシアは、その可能性に賭けたかった。
だが、待つという行為には代償が伴う。
今ここで他を選べば、フルリエ公爵家にとっての利益はほぼ確定する。ハルミオン侯爵家でも、他のどの縁談でも、十分すぎる成果が見込めるだろう。だが、レヴィエントを待つという選択は違う。
(……あの人は、釣書を送ってこなかった。それでも待つというのだから、わたくしは代償を支払う必要があるでしょうね)
現時点で、レヴィエントとの婚姻はフルリエ公爵家の利益を保証しない。むしろ、極めて不安定で、先の見えない選択肢だ。そんなもののために、安全で確実な利益を捨ててまで婚約を引き延ばす以上、その責任はテレシア自身が負わなければならない。
(……けれど、それが何だというのかしら)
家のために覚悟を決めることは、テレシアにとって難しいことではなかった。――それは、幼い頃からずっとやってきたことだから。
恋を口にする勇気はなくとも――自分の身を差し出す覚悟なら、持てる。
なんとも歪で、可笑しな話だった。
(……ええ。きっと、これがわたくしなりのやり方なのでしょうね)
それならば、自分は。――最後まで、彼を待てる。
(……そういうことでしょう、お父様)
父が裁量権を与えた理由を、テレシアは理解していた。
あの人はおそらく、最初から見抜いていたのだ。
娘が、誰を選びたいのか。そして、その相手に自分から手を伸ばせないほど、不器用で臆病であることも。
だからこそ、選ばせたのだろう。
――自分で責任を取れ、と。恋を望むなら、その代償もまた自分で支払え、と。
テレシアは小さく笑った。
まったく、厳しい父だ。けれど同時に――それは紛れもない温情でもあった。
普通なら許されない。公爵家の娘が、半年近く婚約を保留にし、一人の男を待つなど。しかもその男は、現時点で正式な求婚すらしていないのだ。
それでも父は、期限付きでそれを許した。ならば自分は、その信頼に応えなければならない。
たとえ、負けたとしても。たとえ――最後に選ばれなかったとしても。
(それくらいの覚悟もないのなら、最初から選ぶべきではなかった)
視線を上げる。窓ガラスに映る自分と、静かに目が合った。
次に考えるべきは、ただ一つ。この選択によって生じる不利益を、どう補填するか。
その答えは、すでにテレシアの頭の中にあった。




