第十九話 音
会場は大きくざわめいた。
「……今、レヴィエント卿が?」
「楽器を?」
「まさか……彼は騎士だろう?楽器を嗜むとは聞いたことがないぞ」
それも当然だった。騎士として名を馳せるレヴィエントの姿は誰もが知っている。だが、楽器を手にする姿を見たことのある者はほとんどいない。――だが。
エルハンダラの厄災を退けた英雄。その男が、音楽の場に立つ。
その事実だけで、十分に人の興味を引いた。
舞台の端で、エリシオはわずかに目を細めた。驚きはある。だが、それ以上に――興味があった。
(……なるほど)
穏やかな表情のまま、静かにレヴィエントを見つめる。その黒曜の瞳に宿るものを、測るように。
レヴィエントの瞳には、逃げも、躊躇もなかった。ただ、まっすぐだ。
その時だった。
「面白いではないか」
観客席の前方、年配の伯爵がそう口にした。音楽の名門として知られる伯爵家の当主だ。先の演奏会でも、演者として見事なファゴットの腕を披露している。
「これほどの場で名乗り出る以上、まったくの素人ということはあるまい。ぜひ聴いてみたいものだな」
それに、いくつかの声が重なる。
「私も興味があります」
「確かに、ここで退けるのは惜しい」
「黒曜の騎士様の演奏が聴けるなんて嬉しいわ」
「なかなか面白い。どんな楽器を弾くんだ?」
好奇と期待が、ゆるやかに場を押していく。
もちろん、他にも希望者はいる。楽器の腕に自信を持つ貴族たちが、機を窺っている。
だが――この場で今、最も聴いてみたい存在が誰か。それは明らかだった。
客の視線が、次の演奏者を指名する権利を持つエリシオに、自然と集まる。エリシオは、その流れを静かに受け止めた。
そして、柔らかく微笑む。
「……よろしいでしょう。レヴィエント卿、演奏される楽器は何でしょうか」
「ヴィオラです。楽器はクロークに預けております」
「分かりました」
穏やかな声音で、隣の彼女へと向き直る。
「テレシア嬢、せっかくの機会です。あなたがよければ、ぜひ、レヴィエント卿とご一緒に」
テレシアはゆるやかに頷いた。
「――ええ。レヴィエント卿、喜んで」
その言葉で、空気が決まる。小さなざわめきとともに、道が開いた。
レヴィエントは一礼し、舞台へと上がる。ほぼ同時に、ハルミオン侯爵家の使用人がレヴィエントのヴィオラケースを持ってきた。ケースを受け取り、楽器を準備する。
レヴィエントは手早く音を合わせた。慣れた動きに、会場はまた少しばかりざわめきに揺れた。
「お待たせしました」
用意を終えると、舞台中央へと歩き出す。いつもと同じ、無駄のない足取り。だが、その一歩一歩に、確かな意思が乗っていた。
舞台の中央、テレシアの前で足を止める。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
短い言葉を交わして、互いに舞台の定位置に立つ。
(……大丈夫だ)
レヴィエントは静かに息を整えた。周囲の視線は、感じている。好奇と期待と、それから少しの疑念が混じった視線。
だが、それらはもう関係ない。
レヴィエントの視線の先にいるのは、ただ一人。――テレシアだけだ。
彼女が弓を構える。レヴィエントもそれに倣った。
ほんの一瞬、目が合う。――やはり、それで十分だった。
次の瞬間、音が立ち上がる。
最初に鳴ったのは、レヴィエントのヴィオラだった。
――――
柔らかく、深い音。主張は強くない。だが、確かにそこにあると分かる音だった。土台のように、静かに場を支える。
(……寄り添う音)
レヴィエントの音を聞いた瞬間、テレシアはそう感じた。
エリシオの音は受け止めるものだった。支え、押し上げ、導くような。
だが、レヴィエントの音は違う。
前に出ない。ただ、隣にいる。――その距離が、ひどく近い。
テレシアの弓が動く。ヴァイオリンの旋律が強くなった。高く、まっすぐに伸びる音。
それを、ヴィオラが追う。
ぴたりと合わせるのではない。ほんのわずかに遅れ、ほんのわずかに先回りしながら――常に、外れない位置にいる。決して引き離されない。
(……この人は)
テレシアの指が、わずかに強く弦を押さえる。
試すように、少しだけ難しいフレーズへと流す。
ヴィオラは、一瞬だけ遅れ――すぐに追いついた。
粗さはある。完璧ではない。だが、音は途切れない。逃げない。食らいつくように、旋律に寄り添ってくる。
テレシアの胸の奥が、かすかに揺れた。
(……不思議ね)
技術としては、客も含めた今日の演奏者の中では高い方ではない。もちろん下手ではないが、評価としては上の下といったところだろう。騎士としては相当な腕だが、テレシアと重奏するにはいささか足りないと言われてもおかしくない。だが――。
最適でなくても、形が崩れても、届くところまで手を伸ばす。
それはひどく不格好で。同時に、どうしようもなく真っ直ぐな音だった。
――それが、どうにも強く胸に響く。
音が重なる。交わるというより、絡み合う。完璧に整ってはいないだろう。だが、離れない。
ヴィオラの低音が、わずかに震える。
力で押さえ込んでいるのではない。集中が、そのまま音に出ているような響きだった。
――――
レヴィエントは、ただ必死に弾いていた。
レヴィエントが本格的にヴィオラを始めたのは、十五歳を過ぎてからだ。あの夏の祝年会がきっかけである。それまでは、最低限の教養として習ってはいたものの、まさに最低限。このような場どころか、人前で演奏すること自体ギリギリ及第点といった程度の腕前だった。
あの日をきっかけに、レヴィエントはそれまでよりずっと多くを学ぶようになった。その一つが、テレシアの好む器楽だ。知識だけでなく、演奏の腕も磨いたのだ。
騎士学校にも器楽の授業はある。もっとも、選択する者は少ないが――。そればかりでは十分な時間は取れなかったが、レヴィエントにとって幸運なことに、同室のエドガーは意外にもヴィオラの名手だった。この演奏会に呼ばれるほどではないが、客として演者と重奏するには文句のつけようがないほどには上手い。彼と同室になってからというもの、頼み込んで個人的に指導してもらっていたのだ。レヴィエントは代わりに剣術を指導していたが、ヴィオラを教えてもらっていた時間の方がずっと多い。
いつかテレシアと重奏することを夢見て、忙しい中でも器楽には特に積極的に取り組んでいた。エドガーには「筋が良い。センスはある」と言われていたが、それでもまだ三年だ。幼い頃から積み上げてきた彼らと比べれば、とてもじゃないが届かない。演者たちの足元にも及ばないし、テレシアとエリシオに至っては、遥か雲の上だ。それでも――。
(……届くかどうかじゃない)
視線の先には、テレシアがいる。
――その音に、触れたい。
それだけだった。
曲はクライマックスに差し掛かる。テレシアの音が、一段強くなる。それに対して、ヴィオラも応じる。押し返すほどの力はない。だが、決して引かない。同じ場所に、立ち続けるのだと。
最後のフレーズ。
ほんの一瞬、間が空く。その隙間に、視線が重なった。
次の音を、どちらが取るか。迷いはなかった。
同時に、弓が動く。
音が重なり――そのまま、静かに収束した。
会場には、これまでのどの演奏とも違った余韻が残る。レヴィエントの演奏は完璧ではない。テレシアに必死に食らいついていくのがやっと、という印象だ。だが、確かにそこにあった音が、空気の中に溶けていく。不思議と、胸に残る何かがあった。
数秒の沈黙。
そして――拍手が、起こった。
テレシアとエリシオの時のような、爆発的なものではない。だが、確かな熱を持った拍手だった。
「思ったより……いや、かなり」
「……なるほど。騎士として考えれば、相当な腕だな」
「これはこれで……なかなか印象に残る」
ざわめきが、再び広がる。称賛と、驚きと、そしてわずかな評価の変化。
舞台の上で、レヴィエントは静かに息を吐いた。腕に、わずかな震えが残っている。だが、すぐにそれを押さえ込んで、テレシアの方へと向き直った。
「……ありがとうございました」
深く、一礼する。
テレシアは、その姿を見つめて、それから、ゆるやかに微笑んだ。
「――こちらこそ」
その声は、先ほどまでと同じはずなのに。
レヴィエントには、なぜか、ほんの少しだけ、温度が違って聞こえた。




