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第十八話 園遊会


 夏の一大イベントの一つに、ハルミオン侯爵家主催の園遊会がある。ハルミオン侯爵家の邸宅には、庭園に面した見事なガラス張りの回廊があるのだ。夏の暑さの中でも見事な庭を楽しみながら社交ができるとあって、毎年多くの貴族が参加する恒例行事となっていた。


 この園遊会では、庭園を眺めながらの歓談と並び、器楽の名手たちによる演奏会がメインイベントとなっていた。主催であるハルミオン侯爵家の嫡男を筆頭に、社交界でも有名な演奏家が多く招待されている。この園遊会に演者として招待されることは、真剣に楽器に取り組んだことのある貴族にとって、王家の演奏会に次ぐほどの名誉であった。


 演奏会は、主催であるハルミオン侯爵家の嫡男――エリシオ・ハルミオンによるチェロの独奏から始まった。


 最初の一音は、まるで床の下から立ち上がってくるようだった。

 低く、深く、足元から染み込んでくるような、逃げ場のない音。だが重苦しさはなく、むしろ不思議な安定感があった。まるで、この空間そのものの呼吸を、彼が握っているかのようだ。


 レヴィエントは回廊の一角、壁際に控えめに立ちながら、その音に耳を傾けていた。

 たとえ昔のレヴィエントであっても、彼の演奏を上手いと思っただろう。だが、今のレヴィエントには、エリシオの演奏の凄まじさがよく分かった。


(……すごいな)


 素直にそう思った。技巧だけではない。聴く者の意識を引き寄せる何かがあった。エリシオの音が、会場の空気を支配している。


 演奏が終わり、一瞬、会場は静寂に包まれた。一拍遅れて盛大な拍手が起こる。その音は大きく、長い。主催者としてではなく、一人の演奏者としての評価だと分かる拍手だった。


 そこからは、流れるように演奏が続いていった。


 軽やかなピアノ独奏。伸びやかなヴァイオリン二重奏。涼やかなフルート。優雅なハープ。木管五重奏に、金管三重奏。華やかなピアノ連弾。舞台に立つ者は入れ替わり、ある者は再び登場し、音楽は絶え間なく紡がれていく。


 どれも見事だった。だが――


(……あの方は、まだだろうか)


 視線は自然と、客席の前方――演者のために用意された席へと向かう。


 そして、その時は来た。


「続いては――フルリエ公爵家令嬢、テレシア・フルリエ嬢によるヴァイオリン独奏です」


 拍手とともに、テレシアが姿を現す。深いワインレッドのドレスが、彼女の白い肌によく映えていた。無駄のない所作で舞台中央へと進み、静かに礼を取る。その一挙一動が、すでに完成されている。


 弓が弦に触れた。


 澄んだ音が、一直線に伸びる。まっすぐで、それでいてどこか柔らかい。高音は細くならず、低音は濁らない。旋律が、流れるように紡がれていく。優雅で繊細で、されど決して折れない強さがあった。きらめくのではなく、射すようにまっすぐで――目を逸らせない。

 

 気付けば、呼吸の仕方すら忘れていた。


(……綺麗だ)


 その一言では足りないと分かっているのに、その言葉しか出てこない。ただ、胸の奥が静かに熱を帯びていく。


 曲が終わる。一瞬の静寂の後、万雷の拍手が沸き起こった。

 テレシアは優雅に一礼し、舞台を降りる。彼女が客席に戻ってなお、その余韻はしばらく消えなかった。

 レヴィエントがテレシアの演奏の余韻に浸っているうちに、演奏会は終盤へと差し掛かる。


 再びエリシオが舞台に立った。今度はクラリネットとピアノを伴った三重奏だ。軽やかで、それでいて洗練された音楽。先ほどとはまた違う表情を見せる。


 そして――演奏が終わると同時に、エリシオは客席の前方へと視線を向けた。


「――次をご一緒願えますか、テレシア嬢」


 その一言に、会場は大いに盛り上がる。エリシオとテレシア、演者の中でも抜群の技量を持つ二人の二重奏は、今日の演奏会のプログラムの中では最も注目されていた。音楽的な意味でも――そして、婚約者候補としても。


 テレシアが再び舞台へと上がる。チェロとヴァイオリンの弦楽二重奏。舞台に並び立つ二人は同時に弓を構え、そして、目を合わせた。


 音が重なった瞬間、空気が変わる。


(……これは)


 レヴィエントは息を呑む。


 これは独奏の延長ではないとはっきり分かった。二人の技術は言うまでもない。だが、それ以上に――最初から、()()()()()()()だ。


 テレシアの旋律を、エリシオの低音が受け止める。ただ支えるだけではない。必要な分だけ押し上げ、必要な分だけ引く。その上で、ヴァイオリンが自由に空を描く。


 二人の呼吸は、まるで一つだった。

 視線をほんのわずかに交わし合う、それだけで次のフレーズが決まる。テレシアのアレンジに、エリシオは難なく付いていく。彼らに言葉はいらないのだと――音で、すべてが通じているのだと思った。


 テレシアは楽しそうに弾いている。エリシオもまた、これまで見た重奏の中で、今が一等楽しそうだった。並び立つ姿、視線の交わし方、距離感。すべてが自然で、完成されている。あまりに美しい光景だった。


(……お似合いだ)


 分かっていたはずのことが、改めて突きつけられる。胸の奥が、酷く痛んだ。それでも、二人の姿から目を逸らせない。


 曲が進む。盛り上がり、静まり、再び高まる。最後の一音が響き、消える。


 そして――正しく落雷のように大きな拍手が会場を包んだ。今日一番の歓声だった。会場全体が、熱を帯びている。会場の熱が音楽的な意味だけでないことを、レヴィエントは感じ取っていた。


 演奏会はこの二重奏を最後に幕を下ろしたが、この園遊会には、もう一つの目玉がある。客が、演者と共に演奏できる時間が設けられているのだ。

 この演奏会に演者として招待される者は、みな一流の演奏家だ。そのような彼らと一緒に演奏できるこの催しは毎年好評を博している。重奏の名誉を求めて、希望者が次々と名乗りを上げる。当然、全員が選ばれるわけではない。だが、それでも機会を得た者たちは誇らしげだった。


 最も人気が集中するのは、やはりエリシオとテレシアだった。


 それぞれと二重奏を希望する者もいれば、エリシオとテレシアの二人に加わる形の三重奏を希望する者もいた。他の演者も登壇し、客と音楽を奏でていく。

 この場で名乗り出るような客は、基本的に誰もが腕に自信のある者たちだ。どの演奏も水準が高く、場は終始和やかな熱気に包まれていた。完成度の高い音楽が続き、観客たちは満足げだった。


 ――その中で。


(……さて)


 レヴィエントは、静かに息を吐いた。胸の奥にあるものは、もうはっきりしている。

 あの舞台の上の光景を見て、なお揺るがなかったもの。むしろ、より鮮明になったもの。


(逃げないと決めただろう)


 舞台に向かって、一歩、踏み出す。多くの希望者の声であふれる周囲のざわめきが、少しだけ遠くなる。


 視線の先には、舞台の端に控えているテレシアの姿があった。隣にはエリシオがいる。穏やかに言葉を交わしている様子は、やはり絵になる。

 

 だが――関係ない。

 レヴィエントは、まっすぐにテレシアの方へと歩み寄った。


 舞台へと近づくレヴィエントの姿に、周囲のざわめきは大きくなった。この場面で客が舞台へ向かう理由など、簡単に予想できる。だが、それをそのまま信じるには、レヴィエントはあまりに意外に過ぎた。


「――テレシア嬢」


 レヴィエントが舞台へ声をかける。テレシアとエリシオ、二人の視線が――会場中の視線が、レヴィエントを見つめた。

 レヴィエントは一礼し、迷いなく言葉を続ける。


「よろしければ――私にも、一曲。ご一緒願えますか」

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