無明長夜事(「頼朝挙兵」)
さても仏の心の徒然もも疾く慰むぞかしと思い給ひければ、入道、郎党ばらをして祇王祇女を召し出して舞を奉らしむ。祇王祇女のあはれなる様の限りなく、らうたき声にて舞ひければ、入道悦に入り給ひけれども、これを見奉りし仏の「いつかは我も斯くなる様に違はざらむや」と思う事甚だしく、ただ涙に暮れ給ひて、人は「祇王祇女のうたてき有様に涙を流し給ふは、今ときめき給ふ人ぞ」と見けれども、仏は心の内に、「咲き栄えたる花の色の失せては、いづれか散らざるべき。へだつるものこそあらざれ」と思し給ふ。
この有様を見奉りし西行法師は、ただあさましとばかり覚えて、「入道ついぞ人の心を嫉む給ふか」とて難じ給ひけり。入道殿は腹立ち給ひて「何ぞ御僧も入道の政道を存じ奉らざるや」とて、いみじく悪口しげくして、法師を追い出さむとてあちやこちやと躍り出て、山犬なんどの如く唸り吼えなどしければ、これを見て仏は色を失ひてありけり。
いよいよ仏、いみじくおそろしげに思はれて、「わが身も祇王祇女に従はむ事こそ」とて、中門の外へ走り出給ひけるが、入道殿はますます腹立ち給ひて、郎党ばらを召し出し、「ゆめ逃がすな、ゆめ出すな。とりこめらるる事かなはざれば、これ弓矢にて失ふべし」と下知し給ふ。
郎党どもは仰せの如くして、黒髪振り乱し徒歩裸足にて庭に迷ひたる仏を取りこめて、これ即ち害せむとて、矢を絞りたるが、これを見奉る主馬判官盛国、「いみじき事」とて色を変え、仏の前に立ち出て、大音声に呼ばはって曰く、「入道殿の仰せといへども、何ぞ白拍子を害するは武士の誉れにやある、弓押っ取って急ぎ返せよ」と。これを聞きたりし郎党どもの色の変ずる事甚だしき。
盛国の色をなして難じける有様を見れば、さすがの入道も顔色変じ、「斯くなるいみじき有様するは何事ぞ」とばかり思はれて、郎党ばらを召し返せば、広縁にどうど腰掛けて、おそろしきばかりに打ち伏したる仏の黒髪のまざまざと流れこぼつを見給へば、盛国を召して曰く「助けてたべよ」と。
これを聞きたる盛国はじめ法師も驚き給ひて、返す返す入道の顔をうちまもれども、入道はただ涙をこぼして「助け給へ、助け給へ」とのたまふばかりなり。入道曰く「一門繁盛しげくして、主上すこやかにあそばし給ひ、『ついぞ六波羅入道、天下第一の繁盛を得て、世の頂きに上らせ給ふ、その眺めや如何ありけむ』と人々の申せども、何ぞ暗く一条の道だに見る事かなはず。右か左か、獄卒どもの六道に招く声のせむ心地ばかりして、何処に参るべきやういささかも分かたず。さながら無明長夜の如くなり。仏神に一念に願へども紫雲の来迎のあるまじく、入道は何処へか渡るべきぞ。鬼にも神にもあおうどする入道の祈り、ただ聞き給へ。魔王獄卒にても是非なし、ただただこの老体を助けてたべよ」と、泣く泣くかきくどき給へば、これを聞きたる盛国の、主の苦界の底に沈みてあるを何ぞ従の救うことかなひてかとばかり覚えて、あまりの有様に涙をこぼす他ぞなき。
さて時に池大納言、兵衛佐謀反の由を聞き奉り、急ぎ福原に参られけり。入道のいみじき有様を知らざれば、ただ色を変えて挙兵の由を仰せ給ふ。これを聞きて入道はいよいよ道に迷はれ給ふかと思へども、にはかに顔色変じて、はふはふ床をすべりゆき、長押に掛け給ふ御剣捕りて、杖の如くしておったてば、赤子の如く声をあげて泣き給ふ。
これを見て人々「いよいよ入道殿のもの狂はせ給ふか」と思へども、入道、涙を抑えて仰せけるは「すなはち軍兵率いてこれを鎮めよ、入道はこの報せこそ待ち給ひしか、佐殿よ」と大音声にて呼ばはったり。
のちに池殿、鎌倉殿に対面仕り、仰せ給ふやうには、「無明長夜の道に惑ひ給ひける入道殿を、救ひ給ひしは雲霞の軍兵、伊豆の兵衛佐殿にたがはず。暗夜に迷う御目に、さながら灯の入り給ひしが如くなり」と、涙をこぼして語り伝えけるとぞ。




