兎丸最期事附泊普請成就事(「兎丸無念」)
さても泊の普請の易からざりし事、甚だ限りなく候へば、平相国入道、郎党ばらをして急がせ給ひけるも甲斐なし。白波高く、沖深くして、石を籠めたりける小舟をいよいよ沈めさせ給ひけれども、白波の寄せつる事やまずして、遂にぞ普請は留まりける。
然れども、異朝の官人を招かむとするに及びて、「泊のなくては易からず、君の御威光よからじ」とばかり思はれて、「風雨のいみじき晩も普請やむことかなはず」と下知し給へば、いよいよ累石の風雨に零れて、人夫の数多損なはれけり。中にも蝉松と申すは、土塁の下に埋ずめられつるを、戸板にのせて出せらるるが、はやこれまでとばかり覚えて、息の下に畏くも、「普請の成就甚だ危ければ、我を人柱と為して沈めて賜べよ、入道殿」と申して、「その忠義の心映え、誠に天晴なり」と涙を流さぬ者ぞなき。中にも郎党兎丸は、その心映えを甚だ惜しうばかり覚えて、入道殿に向かひて曰く「身内を人柱に沈めて礎となすは尤も哀れの他はなし。風雨止まざる事もあるまじく思はるれば、日を延べむ事こそ幸いにこそ候へ」と。これを聞きて清盛入道、然るべき由尤もとは思へども、唐人来朝の日延べ奉る事の適はざりければ「然ず」と。これを聞きて、兎丸、大いに腹を立て「何ぞ人夫の数多数死せむとすれども普請の止むべきこと然らざるか」と申せども、入道殿の聞こし召し給はざれば、兎丸、散々に悪口して曰く「この虚ろなりける今生を、おもしろき世になさむとて、君の幼少より仕えたるが、今こそ是、過ちにて候とぞ思いしか。君の為しつるは世の為に非ず、平家繁盛、現世利益を以て為せば、是いかで我ら凡夫に利益の及ばむや。利を得さしめむが為に民を害さむは、是、賊徒に違はず」とて、郎党引き具して、忽ち福原を出て都に上りけり。清盛入道大いに腹を立て、主従の契もこれまでと、ついぞ召し返す事ぞなき。
さても兎丸は、君を捨てて賊徒に返りて候ひければ、五条大橋の下にて、卑しき者ども集めて酒宴を為せり。いみじく酔ひてければ、橋の上に禿の侍ひけるを知らず、清盛入道をいみじく悪口してけり。
禿ども、これを聞き及びて、「是、すなはち平家を悪し様になし、入道殿を害せむとせし輩に候べし」とばかり覚えて、兎丸の郎党ばらの去ぬるを待ちて、酔ひ伏したる兎丸を呼び止めて、鳥の羽の先を削りて刃と為しつるもの持ちて、是を害せむとす。
然れども、天下に知られたる西海の海賊兎丸、腹をこそ斬られて候ひけるが、「何ぞ手負いの内にあらじ」とて、風の如く散り失せたる禿ども追い駆けて、いよいよ五条大橋へと走り出づ。禿ども数十人、刃を向けて兎丸をとり籠めむとせしが、兎丸のちっとも騒がず、禿どもをかっぱと睨んで申して曰く「よくよく聞き給へ、童ども。我こそは、都に聞こえたる盗賊朧月が子、名にし負ひたる海賊王、兎丸にて候なり。罪業深き賊徒にて候ひけるが、闇夜にあれども道を誤つ事ぞなき。平相国入道殿には、白昼にも道を違へ給ひて候へば、いでいで汝ら、我を害せむ」とて、大音声上げて禿どもに打って掛る。豪勇無双の兎丸、散々に斬って戦へども、数の内に及ばじ、やがて疲れて候へば、禿どもの取り籠めて、腹に刃を数多数立り。然れどもなを、息のありて戦ひければ、無残やな、禿ども、兎丸が背にも刃を掛けて、橋の上より五条の河原に、塵芥の如く捨ててけり。「あなや、入道殿」とて、遂に兎丸の失せたりけり。
中頃、兎丸の出仕せざるをあやしびて、清盛入道、行方を求めなどしければ、五条大橋にて亡骸の打ち棄てらるるを聞き及び、急ぎ盛国を伴ひて、御自ら都へ急がせ給ふ。わななくわななく輿を降り給ひ、橋板を見れば、禿どもの落としつる鳥の尾羽の散り敷きて、さながら血の海の如くなり。その中に、兎丸の日頃つけたる物の具の打ち棄てられてありければ「あなや」とばかり覚えて、橋の下を見れば、卑しき者どもの集まりて読経の声の響きければ、亡骸のありけるぞと覚えて、御徒歩にて橋の下へと転び出づ。
見れば、亡骸の、山鳥の尾羽の散り敷きて、背にも腹にも刃の立ちたる無惨なる有様の、河辺に打ち棄ててあり。日頃慣れたるは兎丸に相違あらず、清盛入道顔色変じ、わななくわななく御手にて、兎丸に立ちつる刃を抜きては捨て抜きては捨て、涙をこぼして詫び言をこそ繰り返しのたまひけれ。殿の身内にせむが如く、両の御手に抱きかかえ給へば、身体の氷の如く冷え冷えとして、血の通はざるを知れども、入道殿、「兎、兎よ」とこそ、名を呼べば、これを見る人、高きも卑しきも涙を流さぬ事ぞなき。入道殿、いとけなきより仕えたる郎党を失ひつるを、己が未熟の業なりとばかり覚えて、甚だ深く悔いてければ、悪別当時忠をして、禿どもを悉く損なはせしむ。泊の普請の石どもには、悉く兎丸の名を書きて、法華経幾度も書き連ね、極楽往生ばかりを乞ひ願ひ、髪と共に海中に没せさしむ。やがて泊の成りて候ひて、唐人の来朝適へども、清盛入道の御気色よからず、只「畜生に罪業無きは候はざれど、我ほど罪深きはよもあらじ」とて嘆きに沈み給ふ。
つらつらおもんみれば、忠盛公、賊徒討伐の宣旨を賜ひて、洛中に盗賊朧月を討ち取って候ひける折、朧月の「武者の道は是、盗賊の道に違はず」と申してければ、忠盛公これを「げに」とて深く感じ給ひ、武者の道を改め、世を改めるべきやうに思さるるとかや。その子、兎丸もまた、清盛入道を以て「武者の道は盗賊に然らざるか」と教訓して絶えにけり。夫婦は二世の契りとは申せども、主従の契もまた二世に及ぶにやあらむ。或いは是、菩薩の賊徒に現じて平家一門を御諌言為し給ふか。誠に誠に因果の理、奇しき事限りなし。




