2 記憶を辿って
この小説が始まる前、たった三行の描写に詰まっている物語と、ベアリーが生きてきた記憶が重なる。まだヒロインであるアレアーヌ様が、キセに目を付けられていない時だ。
アレアーヌ様と共にこの夜会会場である王宮へ着いた後。
ベアリーが壁の花になっていると、突然キセの取り巻きに絡まれたのだ。
「ちょっと、ベアリー様。今いいかしら?」
「侯爵令嬢からのお呼び出しなんだから、光栄に思いなさいよ」
気弱なベアリーは自身の伯爵家という身分と、彼女の取り巻きの目を気にして断ることができず、人目の少ないバルコニーへと連れ出された。
重たいカーテンを開けた先、夜空の下でキセの憂さ晴らしに付き合うことになる。
そこに艶やかなドレスを身にまとったキセがいた。真っ赤なドレスが夜に映える。
キセ・プランドール侯爵令嬢。
小説では悪役で、ラスボス。欲の権化と言っても差し支えないほどで、手に入れるものはなんでも最高級のものでないと、気が済まない女だった。
だから公爵様に固執し、公爵様に近づく女は全員敵としていた。
「きゃっ」
後ろから髪を掴まれ、抵抗も虚しく取り巻きに腕を固定された。
そしてベアリーは、公爵様とはなんの接点もない人間だった。ただ、両親が友人であるというだけで、当の本人は会ったことすらない。
キセはそれすら、気に食わなかったようだ。
「ようこそ。ベアリー。そのドレスのコンセプトは何かしら」
彼女がこうなるとき、決まって彼女の人間関係や事業が上手くいっていないのだ。だからベアリーは、常にキセの情報を集め、対策をしてきた。
今日は、公爵様にダンスの相手を断られたことが、引き金だった。
「質素倹約ですわ……」
今日なんて目立たないように、細心の注意を払って質素なドレスにワンポイントの宝飾だけだった。
「これのどこが質素?」
キセは、ベアリーの頬をキツく掴んだ。
「こんなことおやめください、キセ様」
「あんたが、やけに目立つドレスを着ているのが悪いのよ?」
「そんなつもりはありません!」
その叫びはいきり立っているキセに届くことはなく、そのままベアリーは欄干へ投げ飛ばされ、背中を打ち付けた。
それを見た取り巻きたちが、くすくすとおかしなものを見るように笑った。
よろよろと立ち上がり、欄干に手をつく。
「……キセ様、こんなことをして、公爵様が振り向くとでも?」
「……は?」
キセの目が見開かれた。
珍しくベアリーは、理不尽への苛立ちを表に出してしまった。いつもなら大人しく、憂さ晴らしに付き合ってくれるサンドバックだったベアリーが、この時初めてキセに物申したのだ。
それも、キセが一番触れられたくなかったところを。
取り巻きたちが、息を呑む音が聞こえた。
「馬鹿にしやがってえええ!!」
どれだけ時間が経ったかわからない。
その間ずっと、蹴られ、殴られ、踏まれた。
「お前なんて消えろ!!」
「……」
荒々しい声に、ベアリーの身体はピクリとも反応しなくなっていた。
まるで、屍のように。
キセはそれがつまらなかったのか、ベアリーの身体をいとも容易く持ち上げ、欄干の向こう側へベアリーを押し出そうとした。
「ちょっとキセ! それはまずいよ!」
キセは取り巻きの制止も聞かず、無抵抗なベアリーの身体を押し続ける。
そして、欄干から投げ捨てられた。
「ベアリー!!」
そして、王宮の灯りがぐるりと一回転したと思えば、私の体は欄干を飛び越えて宙を舞った。
「という感じで私はバルコニーから真っ逆さまに落ちてしまったのです」
「…………そう。大変、だったね」
いや、終わったことはもはやどうでもいい。私はキセの暴力暴言は受けていないから、そこまでの恐怖心はない。
それよりも、自分が生きていることの方が不安だ。
ベアリーが生きていることで、この小説に与える影響はどんなものだろうか。このイベント自体、小説のストーリーから大きく逸れている。
もし、よくある小説の強制力が働くのならば、私は必ずキセに殺されることになる。
いや。死にたくない。
どうにかして、私の死を切り抜けなければならない。
「……あの、あなたは?」
男が困ったように眉を下げて聞いてきた。
生きるために色々考えていて、隣にこの人がいることを忘れてた。
「申し遅れました。私、ベアリー・ベストと申します」
「ぼ……私は、レオン・シュベルト」
レオン・シュベルトって、アレアーヌ様の恋人になる公爵様じゃない!
ひゃ~~!! どえらいイケメンだこと!
実物はこんな感じなのね。小説だと隙を感じさせない人だったが、いまこうして実物を見ると、シャツのボタンを胸元まで開けているせいか隙を感じる。
でも今、私がアレアーヌ様の恋人に出会ってしまうのは、どうなんだろうか。これも小説のストーリーから外れている。
でも、でも、その後ろにいるドラゴンに会えなくなるのは惜しい! なんでこんなにも惹かれてしまうの。死にたくないけど、ドラゴンとの接点は欲しいわ。
どうしたら自分の欲を満たせて、そして小説通りの展開にできる?
「大丈夫?」
そうよ。ドラゴン好きを公言すればいいんだわ。そして公爵様には一切興味がありませんって示せばいいんだわ。
「……シュベルト公爵様、良ければ救っていただいたお礼をさせていただけませんか?」
「…………いらない」
公爵様は小さく横に首を振った。
公爵様じゃなくて、ドラゴンにお礼したいんだけど、伝わってないわね。
「私、生粋のドラゴン好きなんです! 救っていただいたドラゴンさんにお礼はだめですか!? 一度だけでも!」
「それなら、いいよ?」
そう言って公爵様はクスクスと肩を震わせた。
なんだろう。別に公爵様に贈るわけじゃないのに、公爵様が嬉しそう。
「あ、あの……。公爵様」
「ん」
「この子のお名前を、お呼びしてもよろしいでしょうか」
「いいよ。アフエンって呼んで」
「ア、アフエン……」
その声に反応するように、ドラゴンの鼻先が近づいてきた。
「アフエンは、何が好きですか?」
「花」
「お花。意外ですね」
獣とか言われるかと思った。
花なら、伯爵領に群生地があるってベアリーの記憶が言っているわ。集めるのは苦労しなさそうね。
すると遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ベアリー様!」
「ここにいます!」
衛兵が甲冑を鳴らして走ってきた。
私を見つけた衛兵は、安堵したのか、膝に手をついて肩を上下させた。
「ご無事ですか!」
衛兵は、喜びに満ちた顔を上げた。そして私の隣にいる人を見て、一歩退いた。
「ひっ……、レオン公爵……」
「…………ん。彼女を突き落とした、人。だれ」
「それは……」
公爵様は衛兵の失礼な態度を気にすることもなく、ただじっと凍てついた視線を衛兵に送っていた。
衛兵は言いづらそうに、口をもごもごさせる。私の口から言えばいいものの、少しくらいキセが痛い目見ればいいと思って、黙ることを選んだ。
そして、キセにも闇落ちしてもらわないと困るのだ。ベアリーにしたことより、もっとひどいことができるようになってもらわないといけない。
「ねえ! あの女死んでた?」
キセは軽い足取りで庭園を闊歩していた。
まさか、キセ本人が来るとは!
「あ、これは、レオン様……。違うのです、彼女が勝手に落ちたのです!」
公爵様はまだ何も言ってないのに、白状するのはやっ!
「…………死にたくないと、叫びながら、飛び降りる人間が、いるのか?」
え、これは断罪シーン? ここでキセが退場するのは、小説的には困るのでは?
何とかして、キセがこの場で断罪されないようにしないと。
それよりも私の後ろが気になって仕方がない。背後からものすごい鼻息が聞こえるのだけれど、これはただの突風ですか?
おずおずと、後ろから聞こえる荒い鼻息に振り返る。
「アフエンさん!?」
アフエンの口の両端から、チリチリと炎が溢れていた。
主人を守ろうとしているのね! なんて健気! でも今はだめ!
「アフエンさん、落ち着いてください。キセ様は悪くありません」
私はドラゴンの口元に抱きついた。
そう。ただ小説のストーリーに則って、彼女は私を突き落としたにすぎない。
「グアアアアッ——!!」
うわあああああ、唾液!
ドラゴンの咆哮と共に、粘度の高い唾液が勢いよくドレスに飛んできた。
「キャァァァァア!」
キセはガタガタと震えながら、耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
「食べられるッ……」
アフエンが後ろに一歩退いた。
人間の言葉を理解しているのか、目を細めてキセから距離を取ったのだ。
なによ、あんただって散々ベアリーに酷いことしたくせに! これじゃあ何もしていないアフエンが悪者みたいじゃない。
「この子はそんな子じゃない!」
アフエンの前で腕を広げ、キセにそう叫んだ。
「な、何よ!」
「私はこの子に助けてもらったのよ! それが証拠でしょう!」
「それでも、わたくしの従者の腕を引きちぎって食べたのよ?!」
好物が花だっていうこの子が?
私が言い返そうとする前に、公爵様がキセに食って掛かった。
「あの時は違う! 普通は、人、食べないっ!」
公爵様が、キセに牙を向くように喉を鳴らした。
「グオオオオッ——!!」
「あ……。ごめん、なさい」
公爵様がシュンと頭を下げ、アフエンの方を向いて謝った。
これじゃあ主従関係が逆転しているみたいじゃない!
「…………と、とにかく。二度とお前は、私の前に、現れるな!!」
「わ、わかりました!! ベアリー! 覚えていなさいよ!」
なんで私に責任転嫁するの! ていうか、あっさり引きすぎ!
「…………もう帰る」
「公爵様。いつかお礼に伺います!」
「…………好きにしろ」
公爵様はアフエンに乗り、飛んで行ってしまった。
その場に残された私は、ドレスについた唾液を落とすために噴水へと向かった。
だんだんと冷静になってくると、私がしたことは正しかったのか分からなくなってきた。この小説の中の人たちからするとドラゴンは畏怖の対象で、恐怖することは仕方のないことだった。
そして、脇役のくせに出しゃばり過ぎた気もした。




