第五十四話 加藤先輩への報告
結婚式の翌日は、静かだった。
昨日あれだけの人がいた王宮が、今朝はいつもと同じ顔をしていた。廊下に人が戻って、扉が開いて閉まって、どこかで鳥が鳴いて。昨日のことが夢だったかのような、普通の朝だった。
私はいつもの時間に厨房に来た。
グレンがいた。「おはようございます」と言った。「昨日はお疲れ様でした」とも言った。それだけだった。グレンはいつも、大事なことを一言で言う。「お疲れ様でした」の四文字の中に、昨日一日分の全部が入っていた。
「おはようございます。グレンこそ、菓子の準備から大変でしたね」
「楽しかったです」とグレンが言った。
(この人は本当に、菓子が好きなんだ)
それがわかる言い方だった。楽しかった、という言葉に、嘘が一切なかった。結婚式の菓子を作る機会を、この人は何年もためて待っていた。その仕事が終わった翌朝の「楽しかった」だから、重みが違う。
私は作業台の前に立って、材料を確認した。
今日何を作るか、最初から決まっていた。
バターを計った。薄力粉を計った。砂糖を計った。卵を割った。それだけの作業をしながら、私は頭の中で——前世のことを、考えていた。
*
阿爾珂那商事のオフィスを、思い出す。
蛍光灯の白い光。コピー機の音。デスクに積み上げた書類。窓の外に見えた、高層ビルの隙間の空。残業の夜に、誰かが持ってきたコンビニのコーヒー。缶コーヒーの、少し金属の味がする液体を飲みながら、画面と向き合っていた夜が、何百回あっただろう。
加藤先輩は、少し遠いところにいた。
席が近くても、いつも少し遠かった。廊下を歩く背中を見て、何かを言おうとして、言えなかった。エレベーターを一緒に待ちながら、何かを話そうとして、天気の話をした。昼休みに同じ方向へ歩きながら、「先輩、転勤しないでください」という言葉を喉の奥に持ったまま、コンビニで分かれた。
転勤が決まったとき——「ずっと隣にいてください」と言えばよかった。
言えなかった理由は今ではわかる。言っても何も変わらない、と最初から決めていたからだ。言葉にする前に、結末を諦めていた。前世の私は、大事な言葉をいつも、喉の手前で止めていた。
バターと砂糖をすり混ぜた。ボウルの中で、白くなめらかに変わっていく。この作業は、手を動かしながら頭が整理できる。前世から今世まで、私はそういう人間だった。
(おつかれ、加藤先輩)
内心で、静かに言った。
(前世の貴方に言えなかったことは、今世でちゃんと言えました。ずっと隣にいてください、と——言いました。昼間の光の中で、顔を見て、声にして、言いました)
(今世の先輩は、ちゃんと答えてくれました)
「わかった」と言ってくれた。「残りは厨房で言う」と言ってくれた。前世では転勤先に行ってしまった人が、今世では「厨房に来てください」という条件を承諾してくれた。形は全然違う。でも——その魂が、ちゃんと答えてくれた。
卵を加えた。泡立て器で混ぜた。なめらかになるまで、手を動かし続けた。
(前世の後悔は、今世で回収できました。全部、ではないかもしれない。でも——一番言えなかった言葉は、言えました。それで十分です)
(先輩、お疲れ様でした。前世はお世話になりました)
粉をふるいにかけた。白い粉が、さらりと落ちた。薄力粉の、少しだけ甘いような匂いが鼻の奥に入ってきた。
*
「何を作っている」
声がして、私は顔を上げた。
ファルク殿下が、扉を開けて厨房に入ってきたところだった。いつもの外套。いつもの静かな歩き方。椅子の方に向かいながら、作業台に目をやっていた。
「バターの焼き菓子です」と私は答えた。「シンプルなものにしました」
「なぜそれを」
私は少し考えてから、正直に言った。
「前世の先輩に教わったものです」
ファルクが椅子を引く手を止めた。
「先輩に」
「……あなたに、教わったものです」
言い直してから、少し思った。どちらが正しいのかわからなかった。前世の加藤先輩が会社帰りに立ち寄った洋菓子店の話をしてくれたのが、この菓子を覚えるきっかけだった。でも今世のファルク殿下は、その話の記憶を——持っているのか、持っていないのか。
ファルクが椅子に座って、少し目を細めた。
「何が違う」
「……」
私は手を止めた。
何が違うか。
前世の加藤先輩と今世のファルク殿下は、同じ魂だ。ファルクは最初からそれを知っていた。私も今はわかっている。同じ魂だから、繋がっている。でも——違う。
「同じで、違います」と私は言った。
ファルクが少し黙った。
「……そうか」
それだけだった。でもその「そうか」は、否定ではなかった。この人の「そうか」は、受け取ったという意味だ。
私は作業を再開した。粉と生地を合わせた。ひとまとめにして、少し休ませる。この工程を急ぐと、焼き上がりが硬くなる。
前世と今世は、繋がっていて——でも別の話だ。
加藤先輩への後悔は、今世で回収した。でも加藤先輩はやはり前世の人だ。今ここにいるのはファルク殿下で、昨日「ずっと隣にいてください」と言った相手も、今この厨房に来た人も、ファルク殿下だ。同じ魂の、今世の姿だ。
前世の記憶は消えない。消えなくていい。でも前世の後悔を、今世で生きている人のことと、混同してはいけない。
それが——区別できるようになったのは、最近のことだった。
(そういえば最初は、どちらの気持ちかわからなかった)
北方から戻った夜の廊下で言った。「前世の先輩への気持ちと、今世のあなたへの気持ちが混ざっていた」と。それが今は、混ざっていない。前世の後悔は前世の話として終わった。今世の気持ちは、今世のファルク殿下に向いている。
それでいい。それで、全部が着地した。
グレンが「令嬢様、今日はいいバターが入っています」と奥から言った。
「ありがとうございます。使います」
ファルクがカップを受け取りながら「上手くいきそうか」と言った。
「今日のは——うまくいくと思います」と私は答えた。
生地が、手の中でしっとりとまとまっていた。バターの香りが、もう部屋の中に広がり始めていた。冬の厨房の石の冷たさと、バターの香りの温かさが混ざって、いつもの空気になった。
前世への報告は、静かに、終わった。




