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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第五十五話 いつもの厨房で

 いつもの朝だった。


 王都の冬の朝の、乾いた空気が、鼻の奥を刺した。廊下をいくつか抜けて、階段を下りて、厨房の扉を開けた。扉の蝶番が、いつもと同じ音を立てた。その音を、何百回聞いてきただろう。もう数えていない。


 中に入ると、グレンがいた。


 奥の棚の前に立って、鍋を磨いていた。大きな銅の鍋を、丁寧に、ゆっくりと布で磨いていた。鍋が磨かれるとき、グレンは何かを考えている。大事なことを、言おうとしている。私はそれを、随分前から知っている。


「おはようございます」と私は言った。


「おはようございます」とグレンが答えた。鍋から目を離さずに。


 私は作業台の前に立った。


 道具が、棚の上にいつもの場所にある。ボウルも、計りも、ヘラも。石窯オーブンは、まだ温めている最中だった。蓋の隙間から、ほんのわずかだけ熱が漏れていた。冬の厨房に、石窯オーブンの熱だけが静かに広がっていた。


 私はエプロンを結んで、材料の棚を見た。


 今日何を作るか、まだ決めていなかった。



 扉が開いた。


 ファルク殿下が入ってきた。


 外套を羽織って、いつもの静かな歩き方で、壁際の椅子に向かった。椅子を引いて、腰を下ろした。初めてその椅子に座った日の動作とは、もう全然違う。毎日来る人間の、迷いのない座り方だった。


 グレンが動いた。茶を用意する音がした。


「何を作るんだ」とファルクが言った。


「まだ決めていません」と私は答えた。


「そうか」


「珍しいですか」


「いや」とファルクが言った。「では好きなものを作れ」


 この会話を、何度しただろう。


 数えていない。でも毎回、少しだけ意味が違う気がする。最初は探りを入れるような「好きなものを」だった。北方から戻った日は、重みがあった。今日は——ただ穏やかな「好きなものを」だった。この場所に当然のようにいる人間が、当然のように言う言葉になっていた。


 (それが、全部が着地した、ということなのかもしれない)


 グレンがお茶をファルクのそばに置いて、また鍋の方に戻っていった。鍋を磨く音が、再び始まった。


 私は棚を見ていた。


「令嬢様」とグレンが言った。鍋から目を離さずに。


「なんですか」


「今日は、いい可可(カカオ)が入っています」


 私は少し止まった。


 それから、棚の一番奥の木箱を取り出した。蓋を開けると、深い香りが立ち上がった。可可(カカオ)特有の、苦みと甘みが一緒に来る、あの香りだ。慣れると、これがないと物足りなくなる。前世でチョコレートを食べていたあの頃から、私はこの香りが好きだった。


「では可可(カカオ)を使います」と私は言った。


「何を作るんだ」とファルクが聞いた。


「……それはまだ」


 バターを計りながら考えた。可可(カカオ)を使う。今日は冬の、空気が乾いた朝だ。石窯(オーブン)が温まっている。手の感覚では、今日は薄く焼くより、しっとりしたものがいい気がする。でも形はまだ、決まっていなかった。


 グレンが「令嬢様が決めたものを作ります」と言った。鍋を磨きながら。


 私は少し笑った。


 (この人は本当に、いつもそうだ)


 大事なことを言うとき鍋を磨く。でも今日の鍋磨きは——何を言おうとしているのではなく、ただここにいる、という意味の磨き方だった気がした。何十年も料理を作ってきた人間が、自分のいる場所で、いつも通りの朝をやっている、そういう磨き方だった。



 生地をまとめながら、形を考えた。


 薄く伸ばして型で抜くか。丸めてそのまま焼くか。型に流し込んで焼くか。可可(カカオ)の風味を活かすなら、シンプルな形がいい。足すより、引く方向で考えた方がいい日もある。


 (これは何と呼ぼう)


 バターと砂糖を合わせながら、思った。可可(カカオ)を練り込んだ生地を丸めて、表面を少し荒らしてから焼く。焼き上がりは外が少しかたく、中がしっとり。割ると可可(カカオ)の断面が濃く出る。食べると、最初に苦みが来て、それから温かさが広がる。


 名前はない。まだない。


「できたら」と私は言った。「また名付けてください」


 ファルクが少し止まった。


 お茶のカップを持ったまま、私の方を見た。


「……また難しいことを頼む」


 そう言いながら——笑った。


 私は手を止めた。


 ファルク殿下が笑っている。無表情でも、口元だけ緩めているのでもなく、ちゃんと笑っていた。前世でも今世でも、この人がこういう顔をするのを、私はこれまで見たことがなかった気がする。「また難しいことを頼む」と言いながら、笑う顔。


 グレンが、背中を向けたまま、ほんの少し肩が動いた。笑いをこらえているのかもしれなかった。


 (この人が笑うのを、私はこれからも見続ける)


 そう思ったら、手が自然に動いた。


 バターと砂糖の生地に、可可(カカオ)の粉を加えた。深い焦げ茶色が、白い生地に混ざっていった。ヘラで、丁寧に、均一になるまで混ぜた。可可(カカオ)の香りが、バターの香りと混ざって、厨房に広がり始めた。


 ファルクがお茶を一口飲んだ。


 グレンが鍋から手を離して、奥の棚の方へ向かった。助手が一人入ってきて「おはようございます」と言った。いつもと同じ朝だった。


 名前のない菓子の生地を、私はゆっくりとまとめた。


 丸めて、均一な大きさに切り分けた。表面を少しだけ粗くした。天板に並べた。


 石窯オーブンの扉を開けると、熱が一度に押し出されてきた。冬の厨房の冷たさと、石窯オーブンの熱が、一瞬混ざった。天板をそっと入れた。扉を閉めた。


 あとは、待つだけだった。



 窓から王都の冬の空が見えた。


 白に近い青の、澄んだ空だった。昨日と同じ空だった。明日もたぶん、同じ空だった。


 石窯(オーブン)が温まっていた。


 バターと可可(カカオ)の香りが、厨房に広がり始めた。


 私は今日も、好きなものを作る。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【完】



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