第五十五話 いつもの厨房で
いつもの朝だった。
王都の冬の朝の、乾いた空気が、鼻の奥を刺した。廊下をいくつか抜けて、階段を下りて、厨房の扉を開けた。扉の蝶番が、いつもと同じ音を立てた。その音を、何百回聞いてきただろう。もう数えていない。
中に入ると、グレンがいた。
奥の棚の前に立って、鍋を磨いていた。大きな銅の鍋を、丁寧に、ゆっくりと布で磨いていた。鍋が磨かれるとき、グレンは何かを考えている。大事なことを、言おうとしている。私はそれを、随分前から知っている。
「おはようございます」と私は言った。
「おはようございます」とグレンが答えた。鍋から目を離さずに。
私は作業台の前に立った。
道具が、棚の上にいつもの場所にある。ボウルも、計りも、ヘラも。石窯は、まだ温めている最中だった。蓋の隙間から、ほんのわずかだけ熱が漏れていた。冬の厨房に、石窯の熱だけが静かに広がっていた。
私はエプロンを結んで、材料の棚を見た。
今日何を作るか、まだ決めていなかった。
*
扉が開いた。
ファルク殿下が入ってきた。
外套を羽織って、いつもの静かな歩き方で、壁際の椅子に向かった。椅子を引いて、腰を下ろした。初めてその椅子に座った日の動作とは、もう全然違う。毎日来る人間の、迷いのない座り方だった。
グレンが動いた。茶を用意する音がした。
「何を作るんだ」とファルクが言った。
「まだ決めていません」と私は答えた。
「そうか」
「珍しいですか」
「いや」とファルクが言った。「では好きなものを作れ」
この会話を、何度しただろう。
数えていない。でも毎回、少しだけ意味が違う気がする。最初は探りを入れるような「好きなものを」だった。北方から戻った日は、重みがあった。今日は——ただ穏やかな「好きなものを」だった。この場所に当然のようにいる人間が、当然のように言う言葉になっていた。
(それが、全部が着地した、ということなのかもしれない)
グレンがお茶をファルクのそばに置いて、また鍋の方に戻っていった。鍋を磨く音が、再び始まった。
私は棚を見ていた。
「令嬢様」とグレンが言った。鍋から目を離さずに。
「なんですか」
「今日は、いい可可が入っています」
私は少し止まった。
それから、棚の一番奥の木箱を取り出した。蓋を開けると、深い香りが立ち上がった。可可特有の、苦みと甘みが一緒に来る、あの香りだ。慣れると、これがないと物足りなくなる。前世でチョコレートを食べていたあの頃から、私はこの香りが好きだった。
「では可可を使います」と私は言った。
「何を作るんだ」とファルクが聞いた。
「……それはまだ」
バターを計りながら考えた。可可を使う。今日は冬の、空気が乾いた朝だ。石窯が温まっている。手の感覚では、今日は薄く焼くより、しっとりしたものがいい気がする。でも形はまだ、決まっていなかった。
グレンが「令嬢様が決めたものを作ります」と言った。鍋を磨きながら。
私は少し笑った。
(この人は本当に、いつもそうだ)
大事なことを言うとき鍋を磨く。でも今日の鍋磨きは——何を言おうとしているのではなく、ただここにいる、という意味の磨き方だった気がした。何十年も料理を作ってきた人間が、自分のいる場所で、いつも通りの朝をやっている、そういう磨き方だった。
*
生地をまとめながら、形を考えた。
薄く伸ばして型で抜くか。丸めてそのまま焼くか。型に流し込んで焼くか。可可の風味を活かすなら、シンプルな形がいい。足すより、引く方向で考えた方がいい日もある。
(これは何と呼ぼう)
バターと砂糖を合わせながら、思った。可可を練り込んだ生地を丸めて、表面を少し荒らしてから焼く。焼き上がりは外が少しかたく、中がしっとり。割ると可可の断面が濃く出る。食べると、最初に苦みが来て、それから温かさが広がる。
名前はない。まだない。
「できたら」と私は言った。「また名付けてください」
ファルクが少し止まった。
お茶のカップを持ったまま、私の方を見た。
「……また難しいことを頼む」
そう言いながら——笑った。
私は手を止めた。
ファルク殿下が笑っている。無表情でも、口元だけ緩めているのでもなく、ちゃんと笑っていた。前世でも今世でも、この人がこういう顔をするのを、私はこれまで見たことがなかった気がする。「また難しいことを頼む」と言いながら、笑う顔。
グレンが、背中を向けたまま、ほんの少し肩が動いた。笑いをこらえているのかもしれなかった。
(この人が笑うのを、私はこれからも見続ける)
そう思ったら、手が自然に動いた。
バターと砂糖の生地に、可可の粉を加えた。深い焦げ茶色が、白い生地に混ざっていった。ヘラで、丁寧に、均一になるまで混ぜた。可可の香りが、バターの香りと混ざって、厨房に広がり始めた。
ファルクがお茶を一口飲んだ。
グレンが鍋から手を離して、奥の棚の方へ向かった。助手が一人入ってきて「おはようございます」と言った。いつもと同じ朝だった。
名前のない菓子の生地を、私はゆっくりとまとめた。
丸めて、均一な大きさに切り分けた。表面を少しだけ粗くした。天板に並べた。
石窯の扉を開けると、熱が一度に押し出されてきた。冬の厨房の冷たさと、石窯の熱が、一瞬混ざった。天板をそっと入れた。扉を閉めた。
あとは、待つだけだった。
*
窓から王都の冬の空が見えた。
白に近い青の、澄んだ空だった。昨日と同じ空だった。明日もたぶん、同じ空だった。
石窯が温まっていた。
バターと可可の香りが、厨房に広がり始めた。
私は今日も、好きなものを作る。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【完】




