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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第五十三話 結婚式

 朝の空気が、冷たく、澄んでいた。


 冬の王都の朝は、どこか音が少ない。馬の蹄音も、市場の声も、まだ遠い。支度の女官たちが廊下を行き来する衣擦れの音と、遠い鐘の音だけが、部屋まで届いてきた。


 私はそれを、窓辺に立ったまま聞いていた。


 王都の空は、青というより白に近い色をしていた。雲が薄く広がっていて、でも晴れている。冬の朝にしか出ない、あの色の空だった。


 (今日が、結婚式だ)


 思うと、胸の中がしんとした。怖いわけでも、悲しいわけでもない。ただ静かに、今日がそういう日だ、という事実が体の中に落ちてきた感じがした。


 女官たちが来て、支度が始まった。



 会場に入る前に、一つだけ寄った場所があった。


 菓子の卓だ。


 式典の前に用意された広間の隅に、今日のために作られた菓子が並んでいた。グレンが作った菓子が、白い布の上に整然と並んでいた。小さな焼き菓子が幾種類か、砂糖をまぶした果実のコンフィが、薄紅色のゼリー細工が。全部、グレンの手仕事だった。


 (ずっと言おうと思っていました、と——あの人は言った)


 「結婚式の菓子は私に作らせてください」とグレンが言ったとき、私は少し固まった。こんなにも大事なことを、この人はいつも、ためてからひとことで言う。


 グレンの菓子の隣に、もう一種類の菓子があった。銀の砂糖亭のヴィルヘルムが「一品だけ出す」と言って用意したものだ。深い焦げ茶色の可可(カカオ)を使ったテリーヌが、小さく切り分けられて並んでいた。断面が、整然としていた。表面が、薄い光を帯びていた。


 私はそれを一つだけ、つまんで口に入れた。


 可可(カカオ)の深い苦みが最初に来て、それからゆっくりと、バターのなめらかさと砂糖の甘さが広がった。温かくも冷たくもないのに、どこか体が温まるような味だった。ヴィルヘルムが五十年かけて作ってきた味の、この日のための一皿だった。


 「競争じゃないぞ」と先に言ったあの人が、でも全力で作ってきた一皿だとわかった。


 (この人たちの仕事が、今日の卓に並んでいる)


 私が動かした菓子が、北方のエルナのところへ届いている。私が名前をつけた薄焼き菓子(クッキー)が、今日も銀の砂糖亭の棚にある。でも今日この卓にあるのは——私の菓子ではなく、グレンとヴィルヘルムが今日のために作った菓子だった。それが、不思議と、温かかった。



 父が、廊下で待っていた。


 父は緊張していた。気づかれないようにしていたけれど、わかった。手を前で組んで、少し固く立っていた。目の端が、いつもより赤かった。


「……お前が選んだ道だ」と父が言った。「間違っていなかった」


 (また同じことを言う)


 帰り際に言ったのと同じ言葉だった。でも今日の方が、声が少し低かった。式の前なのに泣きそうな声を、父は懸命に抑えていた。この家系は全員、大事なときに同じ顔をする。


「……父様」


「なんだ」


「行ってきます」


 父が、少し止まった。


 それから「ああ」と言った。その一言だけだったけれど、それで十分だった。



 式典の場に、エルナからの花があった。


 北方の山地でしか咲かない、白い小花を束ねたものだった。「贈り物として送らせてください」と手紙が来ていた。式には来られないが、花だけは、と。「あなたが私に贈ってくれたものを、形を変えてお返しします」と書かれていた。


 (私はただ菓子を作っただけなのに)


 でも「それが全部だったんです」と、エルナは言った。それが全部だった、というのが、前世の商社にいた私にはいちばんよくわかる言葉だった。手を動かすことが、全部になることがある。


 誓いの言葉は、短かった。


 この国の習わしでは、長い誓文を読み上げるものらしいが、ファルク殿下が「短くする」と言って、短くなった。第二王子が言えば通る。それはいいことなのか悪いことなのか判断がつかないが、今日は助かった。長い誓文を人前で読み上げる自信は、私にはなかった。



 式が終わって、人が散り始めた頃。


 広間の端に、二人でいる時間が、少しだけできた。


 エルナの花の近くだった。白い小花が、窓から差し込む冬の光を受けて、柔らかく光っていた。


 ファルクが、静かに言った。


「昨夜——まだ言えていないと言っていた一つは」


 間を置いた。


「何だ」


 私は、ファルクの目を見た。


 夜の廊下ではなかった。暗い場所でも、人目を避けた場所でもなかった。冬の昼間の光が窓から入って、この場所を明るく照らしていた。その光の中で、私はファルクの目を見た。


 一度だけ、息を吸った。


「ずっと——隣にいてください」


 前世で言えなかった、一番最初の言葉。


 転勤が決まったとき言えなかった言葉。言葉にする前に、結末を決めてしまっていた言葉。喉の奥に残ったまま、前世が終わった言葉。


 今世で、昼間の光の中で、この人の目を見て、言えた。


 ファルクが——止まった。


 三秒間。


 完全に、止まった。


 (最後の三秒だ)


 初めてスポンジ菓子を食べたときの三秒。深夜に差し入れた菓子を受け取ったときの三秒。北方でサブレを食べたときの三秒。ヴィルヘルムが初めてサブレを口にしたときの三秒。この三秒が何度も積み重なって、今日のここまで来た。そして今、最後の三秒が、ここで止まっている。


 三秒が、過ぎた。


「……わかった」とファルクが言った。


「それだけですか」


 殿下が少し間を置いた。目が、少し細くなった。


「それだけじゃない」


 一拍。


「でも——残りは厨房で言う」


 私は少し、力が抜けた。


 (この人らしい答えだった)


 残りは厨房で言う。この人が「厨房で言う」と言うとき、それは必ず言う、という意味だ。この人は、言うと言ったことは言う。前世から今世まで、この魂はそういう人間だった。


 エルナの白い花が、冬の光の中で揺れた。


 厨房で言う、ということは——厨房に来る、ということだ。残りの言葉がある限り、この人は来る。来る限り、私は菓子を作る。菓子を作る限り、この人はまた来る。


 それが、これからずっと続く。


 (それでいい)


 それが全部だった。それで、十分だった。


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