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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第五十二話 結婚式の前夜

 厨房の扉を開けると、誰もいなかった。


 当然だ。夜半を過ぎている。グレンは自室に戻っている。助手たちも、もういない。石窯オーブンの火も落ちている。ランプだけが、作業台と棚と壁を、薄く照らしていた。


 私は扉を閉めて、厨房の中に入った。


 眠れなくて来たわけではない。眠ろうとしていなかった。明日は夜明け前から支度が始まる、早く眠らないといけない、と頭ではわかっていた。でも体が——この場所に来たかった。それだけのことだった。


 夜の厨房は、昼間とは少し違う。


 音がない。誰かが道具を動かす音も、グレンが鍋を火にかける音も、ファルク殿下が椅子の背にもたれる音も。ランプの芯が油を吸う、かすかな音だけがある。昼間は気にならないのに、夜に来るとその音がよく聞こえる。


 私は作業台の前まで歩いて、椅子を引いて、座った。


 何も作らなかった。材料に手を伸ばす気にもなれなかった。ただ、この厨房を——見ていたかった。


 (最初に来た日は、こんなに広く感じなかった)


 前世の記憶が戻ってすぐの頃、グレンに声をかけられて迷い込んだ厨房は、もっと頑丈で、冷たい感じがした。石の壁と道具の重さだけがあって、私はそこに場違いな侵入者として立っていた。


 (グレンが「令嬢が迷い込んだ」と言っていた)


 あのときグレンが追い返さなかったのは、なぜだろう。今でも少し不思議に思う。聞いたことはない。でも——もしかしたら、グレンはあの頃から何かを見ていたのかもしれない。この人が来るべき場所だ、と。大事なことを言うとき鍋を磨くあの料理長は、言葉にしないことをじっと持ち続ける人だから。


 棚の道具が、ランプの光を受けて鈍く光っていた。


 (あの日、ファルク殿下が初めてスポンジ菓子を食べた)


 どんな顔をしていたか、はっきり覚えている。三秒間、完全に止まった。あの三秒が、最初だった。美味しいものを食べるとこの人は止まる——それを知ったのが、あの厨房だった。あの三秒が積み重なって、今夜の前夜がある。


 (「おつかれ」と言われた深夜も、ここだった)


 あれは第三章の頃だったか、まだ第二章だったか。深夜の厨房に一人でいたとき、ファルク殿下が来た。差し入れを持って。「おつかれ」という、前世でしか聞いたことのない言葉を、今世の口で言った。あのとき私が泣かなかったのは、泣く前に驚いたからだ。


 この厨房は、色んなことが起きた場所だった。


 色んな言葉が交わされた場所だった。


 私は作業台の木目を指でなぞった。何度も使い込まれて、少しだけ凹んでいる部分がある。昼間は気づかない。夜に触ると、わかる。



 前世の加藤先輩の顔が、ぼんやりと浮かんだ。


 阿爾珂那(アルカーナ)商事のオフィスで、いつも少し遠いところにいた人。資料を抱えて廊下を歩く背中。残業の夜にコーヒーを飲みながら、画面を見ていた横顔。


 「ずっと隣にいてください」と——言えなかった人だ。


 転勤が決まったとき、言えばよかった。行かないでください、と。一緒に来てもいいですか、と。どちらも言えなかった。言葉は喉の奥に残って、そのまま前世が終わった。


 でも今夜、その顔は——遠かった。


 懐かしい、とは思う。消えてほしい、とも思わない。ただ、今夜は遠い。この厨房に、ランプの光に、木目の凹みに——今の私はいる。前世の後悔よりも、今夜のこの場所の方が、ずっと近くにある。


 (明日、言える)


 言えなかった言葉を、今世で言える。それがわかっていると、前世の後悔は重さを失う。完全になくなるわけではない。でも——今夜だけは、軽い。



 足音がした。


 廊下からではなく、扉の向こうからだ。ためらいのない、ゆっくりした足音だった。私はランプの方を向いたまま、待った。


 扉が開いた。


 ファルク殿下が、厨房に入ってきた。


 寝衣の上に外套を一枚羽織っていた。ランプの光を受けて、その顔が私の方を向いた。驚いた様子はなかった。私がいることを、最初から知っていたような顔だった。


「眠れなかったか」と殿下が言った。


「……はい。殿下も?」


 ファルクが少し間を置いた。


「ここに来たかった」


 私は少し、固まった。


 (同じ理由だった)


 眠れなかったから来たのではなく、来たかったから来た。同じ理由だった。この厨房に来たくなる理由が、この人にも同じようにあった——それが、少し可笑しくて、でも可笑しいとだけでは言えない気持ちがした。


 ファルクが椅子をもう一つ持ってきて、私の隣に引いた。作業台の前に、二人並んで椅子に座った。誰もいない夜の厨房で、石窯オーブンの火は落ちていて、ランプだけが光っていた。


 しばらく、どちらも話さなかった。


 それで不自然ではなかった。この厨房は、言葉がなくても成立する場所だ。ファルク殿下がいると特にそうなる。この人の沈黙は、埋めなければいけないものではない。


 私はランプの光を見ていた。ファルクは作業台を見ていた。


 やがて、殿下が口を開いた。


「前世で言えなかったことを全部、言えましたか」


 私は少し考えた。


 今世で言えたこと——「今のあなたのことが好きです」と言えた。昼間の光の中で、顔を見て言えた。プロポーズへの返事として「厨房に来てください」と言えた。それは言えた。


 でも。


「……まだ一つだけ」と私は言った。


「何が」


「明日、言います」


 ファルク殿下が、少し間を置いた。


「……そうか」


 それだけだった。それ以上聞かなかった。この人は、待てる。前世の頃から——この人の魂は、待つことを知っていた。


 私は作業台の木目に、もう一度、指を当てた。


 明日言う。言えなかった言葉を、明日ここではなく、昼間の光の中で言う。それが決まっていると——今夜のこの厨房が、少し穏やかな場所になった気がした。


 「前世で言えなかったことを、今世で言えばいい」と自分で言ったのは、もう随分前のことだ。


 その言葉の最後の一つが、明日、終わる。


 ランプが、静かに燃えていた。石窯オーブンが、冷えた石の気配を放っていた。道具が棚の上で、光を受けて、黙っていた。


 私とファルク殿下は、誰もいない夜の厨房に、並んで座っていた。


 それだけだった。それで、十分だった。


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