第五十一話 ヴィルヘルムの祝福
銀の砂糖亭に月に一度通うようになって、もう一年が過ぎていた。
最初に訪れたときは——ヴィルヘルムが王宮の厨房に来て、サブレを食べて三秒止まった、あの日の翌月だった。条件の話が整って、最初の打ち合わせのために来たのが始まりで、いつの間にか「月に一度の共同作業の日」という形になった。決まりごととして設けたわけではなく、気づいたらそうなっていた、という種類の習慣だった。
銀の砂糖亭は、王都の目抜き通りに面した古い建物だ。外壁は白漆喰で、窓枠が深い茶色で、看板に銀の砂糖の粒を象った彫刻がある。扉を開けると薄焼き菓子とバターと、それから木の匂いがする。職人の厨房の匂いだった。
その日の朝、私は王宮の厨房で仕込みを済ませてから銀の砂糖亭に向かった。
*
ヴィルヘルムは厨房にいた。いつも厨房にいる。店の表に出てくることは少なくて、客への対応は弟子たちに任せている。自分は厨房で手を動かす、という人だった。
私が入ると、ヴィルヘルムが作業台から目を上げた。「来たか」
「お邪魔します」
今日のヴィルヘルムの作業台には、可可の粉と砂糖が並んでいた。可可を使った新しいレシピに取り組んでいる最中らしかった。北方のルートが安定してから、銀の砂糖亭にも定期的に可可が届くようになった。その使い方を、ヴィルヘルムが独自に研究していた。
「今日は何をやるんだ」とヴィルヘルムが言った。
「先週の試作の続きです」と私は言った。「可可と蜂蜜を合わせた焼き菓子で、生地の配合をもう少し調整したくて」
「どのあたりが気になる」
「焼き上がりの硬さです。食べたときに、もう少しほろりと崩れてほしい。今の配合だと、少し締まりすぎる」
ヴィルヘルムが少し黙って考えた。「バターの比率を上げてみたか」
「はい。でも上げすぎると今度は広がりすぎる」
「焼き温度は」
「少し下げてみましたが、可可の香りが十分に出なくなった」
「難しいな」とヴィルヘルムが言った。「可可は温度に敏感だ。低すぎれば香りが飛ぶ、高すぎれば苦みが勝つ」
「そうなんです」
(この人と話していると、前世の研究開発部門の先輩と話している感覚に近い。問いを立てて、仮説を出して、試して、また問いを立てる。作業の設計が似ている)
エプロンを結んで、作業台に並んだ。ヴィルヘルムと横に立って作業するのは、最初は少し緊張したが、今は慣れた。並んで作業することで見えるものがある、とわかった。隣にいる人間が何に手間をかけて、何を省いているか。そこに職人の考え方が出る。
*
一刻ほど作業を進めたところで、ヴィルヘルムが手を止めた。
私の方を向かずに、作業台の向こうを見ながら言った。
「結婚の話を、聞いた」
私は手を止めた。
「はい」
「……おめでとう、と言うべきか」
「ありがとうございます」
ヴィルヘルムが少し間を置いた。作業台の上の可可の粉を、布で拭った。大きな手の動きで、丁寧に拭いた。
「王子妃になっても、ここに来るのか」
「来ます」と私は言った。迷いなく言えた。「月に一度の約束なので」
「約束は、したか。私と」
「したも同然です」
ヴィルヘルムが、口ひげの端を少し動かした。笑ったとも言えなかったが、拒否でもなかった。
「……そうか」とヴィルヘルムが言った。
私はまた作業に戻った。生地をまとめて、台の上に置いた。手のひらで押しながら伸ばす。可可の粉が均一に入るように、向きを変えながら折り込む。暗い茶色の生地に、蜂蜜の甘い香りが混ざって、複雑な香りになる。
(可可はいつ嗅いでも、少し前世を思い出す香りがする。でも今は、そこに今世の厨房が重なっている)
「一つだけ、言わせろ」
ヴィルヘルムの声が低かった。私は手を動かしながら「はい」と言った。
「お前は職人だ」
私の手が、一瞬だけ止まった。
「職人」という言葉を、この人から最初に言われた日のことを思い出した。あれはまだ銀の砂糖亭に通い始めて間もない頃で、私がレシピの意図を説明したときにヴィルヘルムが短く言った言葉だった。「……お前は職人の考え方をする」と。あの一言が、ずっと頭の中に残っている。
前世の加藤先輩に「仕事ができる」と言われたこととは、少し違う種類の言葉だった。もっと根っこの部分を、名指しされた感じがした。
「肩書きが変わっても、それは変わらない」とヴィルヘルムが続けた。「王子妃になっても、お前の手は職人の手だ」
私はしばらく、生地を伸ばし続けた。
何か言おうとして——やめた。言葉にすると軽くなる気がした。ヴィルヘルムも多分、返事を期待していない言い方だった。ただ言った。それで十分という種類の言葉だった。
「……ありがとうございます」とだけ言った。
ヴィルヘルムが「礼は要らない」と言った。「事実を言っただけだ」
*
昼過ぎ、試作が一段落した。新しい配合の可可の焼き菓子が焼き上がって、ヴィルヘルムと二人で確認した。
バターの比率を少し下げて、代わりに卵黄を加えた。焼き温度は前回より少し高めにして、時間を短くした。仕上がりは——表面に薄い艶が出て、割ると断面がほろりと崩れた。可可の深い香りが、割った瞬間に立ち上がった。
ヴィルヘルムが一つ取って、口に入れた。
止まった。
三秒間、止まった。
(この人の三秒は、初めて見たときから変わらない)
私も一つ食べた。可可の苦みと蜂蜜の甘みが、口の中でほどける。バターの風味が後から来て、最後に塩気がかすかに残る。焼き色がついた部分の香ばしさが、全体を引き締めていた。
悪くない。いや、よかった。
「これだ」とヴィルヘルムが言った。
「はい、これです」
「次はこれを、銀の砂糖亭の棚に並べる」
「レシピは貸します」
「貸すな、売れ」とヴィルヘルムが言った。「職人の仕事に、貸す、はない」
私は少し笑った。「わかりました。では売ります」
*
帰り際に、ヴィルヘルムが「一つ聞いていいか」と言った。
「どうぞ」
「結婚式の菓子は、グレンが作るんだろう」
「はい」と私は答えた。「グレンがずっと言いたかったことだったようで、お願いしました」
ヴィルヘルムが頷いた。何かを考えているような顔だった。職人が何かを測るときの目で、作業台の上の可可の粉を見ていた。
「……私も、一品だけ出していいか」
私は少し固まった。
グレンのときと、同じ種類の固まり方だった。「言われた」ということの重さが、一拍遅れて届く感じ。
「もちろんです」と私は言った。
「競争じゃないぞ」とヴィルヘルムが先に言った。「グレンとの競争にするつもりはない」
「わかっています」
「お前の祝いとして、出したい。それだけだ」
私は「ありがとうございます」と言った。今度は素直に言えた。
ヴィルヘルムが「礼は要らないと言っている」とまた言った。「職人として、筋の通った席に一品出したい。それが理由だ」
(でも——グレンの可可の菓子と、ヴィルヘルムの菓子が、どちらが美味しいかは気になる)
とは言わなかった。言ったら確実に「競争じゃないと言っただろう」と言われる。でも、実際に両方食べる日が来るのは——楽しみだった。職人二人がそれぞれの腕を尽くして作ったものを、同じ席で食べられる日というのは、そうそうない。
「では、お願いします」と私は言った。
「ああ」とヴィルヘルムが言った。
銀の砂糖亭の扉を開けると、夕方の王都の風が入ってきた。薄焼き菓子とバターの香りが、風に混じって少し遠くなった。
石畳の通りに出ながら、私は今日焼いた可可の焼き菓子の配合を頭の中で繰り返した。次にもう一度試作するなら、塩の量を少し変えてみたい。仕上げに岩塩を一粒だけ表面に乗せるのはどうだろうか。ヴィルヘルムは「余計なことをするな」と言うかもしれないが、試してみる価値はある。
職人というのは——常に次のことを考えているものだ。
この人から「お前は職人だ」と言われた日から、私はそれを知っていた。




