第五十話 父と母と娘の結婚
父は、娘のことになると途端に不器用になる人だった。
それを最初に気づいたのは、七歳の誕生日のことだった。書斎でいつも難しい顔をしている父が、私の誕生日だけは何か言おうとして、何も言えずに、最終的に「大きくなったな」とだけ言って書斎に戻った。その背中を見ながら——ああ、この人は愛情の出し方が不器用なんだな、と思った。七歳にしては冷静な観察だったが、前世の記憶がある分、子供の自分でも気づいた。
五十二歳になった今も、変わっていない。
*
カルドア公爵夫妻が王宮を正式に訪れたのは、ファルク殿下のプロポーズから十日ほど後のことだった。
「家族としての挨拶」という名目だった。婚約の際の挨拶は既に済んでいる。でも今回は「結婚の話が正式に進む前に、一度きちんとお会いしたい」という母の発案だったと、後で聞いた。
客間に通されたとき、父はいつもの厳格な顔をしていた。背筋が伸びて、目が細くて、口の端が少し引き締まっている。「カルドア公爵」の顔だった。
でも私には、耳の後ろが少し赤いのが見えた。
(緊張している)
父はこういうとき、耳が赤くなる。これも七歳の頃から知っていることだった。
母は隣で、いつも通り穏やかだった。場の空気を読む速度が人より三倍くらい早い人で、「あなた、今日は話しすぎないようにしてください」と父に小声で言っていた。父が「わかっている」と言っていたが、わかっているとは思えなかった。
ファルク殿下が入ってきた。
背が高くて、無表情で、歩き方が静かな人だ。初めて見る人間に対して、そこそこの圧をかける種類の佇まいをしている。父がわずかに背筋を正した。母が「まあ」と小さく言った。ファルク殿下が二人に向かって、礼をした。
「ファルク・レヴィン・アークライトです。このたびは足を運んでいただき、ありがとうございます」
短くて、過不足がなかった。
父が「カルドア公爵のベルナルトです」と答えた。声が、心なしか低かった。緊張すると声が低くなる人だ。
母が「公爵夫人のアデラと申します。よろしくお願いいたします」と続けた。にこやかだった。この場の空気が全員の中で一番楽なのは、おそらく母だった。
*
話は、思ったより静かに進んだ。
式の日程、準備の進め方、今後の居所のこと——細かい話は別の機会にと言うことになって、今日は顔を合わせることが主目的だった。グレンが茶と薄焼き菓子を持ってきた。私が昨日焼いたもので、バニラを少し利かせた、シンプルな仕上がりのものだ。
ヴィルヘルムに「シンプルなものほど誤魔化しが利かない」と言われて以来、大事な場面ではシンプルなものを出すようにしていた。
父が薄焼き菓子を一枚取って、口に入れた。
三秒、止まった。
(うちの家系の三秒だ)
母が「美味しいですね」と言った。止まらずに言えた人だった。
ファルク殿下が「セシルが焼きました」と言った。
父がゆっくりと私を見た。何かを言おうとして——やめた。また薄焼き菓子に視線を戻した。「……そうか」とだけ言った。
(この人は、感動したときほど言葉が少なくなる)
*
帰り際の話だった。
母が「少し厨房を見せていただけますか」と言って、グレンが案内することになった。ファルク殿下も同行することになって——結果として、客間に残ったのが父と私だけになった。
父がしばらく、窓の外を見ていた。庭の枯れた木が、風に揺れていた。
「父上」と私が言いかけると、父が先に口を開いた。
「……ファルク殿下は、どういう人だ」
「どういうと言いますと」
「一言で言え」
私は少し考えた。「毎日厨房に来て、椅子に座って、グレンの紅茶を飲む人です」
父が私を見た。「……それだけか」
「それが全部です」
父が少し黙った。「菓子は食べるのか」
「よく食べます。美味しいと止まります」
「止まる」
「三秒間」
父がまた黙った。窓の外を見て、それから手元を見た。何かを言おうとしているのが、背中からわかった。不器用な人の「言おうとしている」は、体全体に出る。
「……よろしくお願いします、と言えたか」
「はい」
「あれでよかったか」
私は少し固まった。
客間でファルク殿下と向き合ったとき、父が改まって言った言葉があった。「娘を——よろしくお願いします」という、短い言葉だった。ファルク殿下が「こちらこそ」と答えた。二言だった。ただの二言だったが、父の目の端がその瞬間に少し赤くなった。
廊下から母の声がした。「あなた、泣かないでください」
「泣いていない」と父が言った。声が少し低かった。
「目が赤いですよ」と母が言った。
父が小さく咳払いをした。
(うちの家系も、大事なときに同じ顔をする)
父の、ファルク殿下の、グレンの——皆、大事なことほど言葉が少なくなる。感情が、別の場所に出る。そういう家系に囲まれて、私も同じようになったのか、最初からそうだったのかは、もうわからなかった。
「あれでよかったです」と私は答えた。「ファルク殿下に届いていました」
父がゆっくりと頷いた。「……そうか」
*
父が帰り際に、もう一度だけ立ち止まった。
廊下の出口の前で、振り返った。いつもの厳格な顔をしていたが、目の端がまだ少し赤かった。
「お前が選んだ道だ」と父が言った。「間違っていなかった」
私は少し黙った。
「……父上は、知っていたんですか」
「何を」
「私が、自分で選んでいるということを。ずっと前から」
父がしばらく黙った。窓の外の庭を見て、また私を見た。
「お前が三歳の頃から、目が違った。前世の記憶のある目だと、わかった」
「知っていたなら、もっと早く言ってください」
「お前が自分で気づくまで待った」と父は言った。声に迷いがなかった。「私が言えば、お前の答えが変わる可能性があった。だから待った」
(この家系は全員、待つのが得意らしい)
ファルク殿下も「言えるときを作ろうとしていた」と言っていた。父は「自分で気づくまで待った」と言う。グレンは「ずっと言おうと思っていた」とためてから言った。
待つことで何かを渡す種類の人間が、私の周りには多かった。
「……次からは、少しだけ早く言ってください」と私は言った。「待たれすぎると、こちらも何も言えなくなります」
父が少し眉を動かした。怒ったとも呆れたともつかない顔だった。でもやがて、低い声で「わかった」と言った。
母が「それはよかった。では帰りましょう、あなた」と言って父の袖を引いた。父が「わかっている」と言った。
二人が廊下を歩いていく背中を見ながら、私はしばらくそこに立っていた。
母が振り返らずに「セシル、ありがとう」と言った。何に対してのありがとうなのかは、言わなかった。でも、わかった。
「こちらこそ」と私は言った。
廊下が静かになった。石畳の冷たさが、足から伝わってきた。




