表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/55

第五十話 父と母と娘の結婚

 父は、娘のことになると途端に不器用になる人だった。


 それを最初に気づいたのは、七歳の誕生日のことだった。書斎でいつも難しい顔をしている父が、私の誕生日だけは何か言おうとして、何も言えずに、最終的に「大きくなったな」とだけ言って書斎に戻った。その背中を見ながら——ああ、この人は愛情の出し方が不器用なんだな、と思った。七歳にしては冷静な観察だったが、前世の記憶がある分、子供の自分でも気づいた。


 五十二歳になった今も、変わっていない。



 カルドア公爵夫妻が王宮を正式に訪れたのは、ファルク殿下のプロポーズから十日ほど後のことだった。


 「家族としての挨拶」という名目だった。婚約の際の挨拶は既に済んでいる。でも今回は「結婚の話が正式に進む前に、一度きちんとお会いしたい」という母の発案だったと、後で聞いた。


 客間に通されたとき、父はいつもの厳格な顔をしていた。背筋が伸びて、目が細くて、口の端が少し引き締まっている。「カルドア公爵」の顔だった。


 でも私には、耳の後ろが少し赤いのが見えた。


 (緊張している)


 父はこういうとき、耳が赤くなる。これも七歳の頃から知っていることだった。


 母は隣で、いつも通り穏やかだった。場の空気を読む速度が人より三倍くらい早い人で、「あなた、今日は話しすぎないようにしてください」と父に小声で言っていた。父が「わかっている」と言っていたが、わかっているとは思えなかった。


 ファルク殿下が入ってきた。


 背が高くて、無表情で、歩き方が静かな人だ。初めて見る人間に対して、そこそこの圧をかける種類の佇まいをしている。父がわずかに背筋を正した。母が「まあ」と小さく言った。ファルク殿下が二人に向かって、礼をした。


「ファルク・レヴィン・アークライトです。このたびは足を運んでいただき、ありがとうございます」


 短くて、過不足がなかった。


 父が「カルドア公爵のベルナルトです」と答えた。声が、心なしか低かった。緊張すると声が低くなる人だ。


 母が「公爵夫人のアデラと申します。よろしくお願いいたします」と続けた。にこやかだった。この場の空気が全員の中で一番楽なのは、おそらく母だった。



 話は、思ったより静かに進んだ。


 式の日程、準備の進め方、今後の居所のこと——細かい話は別の機会にと言うことになって、今日は顔を合わせることが主目的だった。グレンが茶と薄焼き菓子クッキーを持ってきた。私が昨日焼いたもので、バニラを少し利かせた、シンプルな仕上がりのものだ。


 ヴィルヘルムに「シンプルなものほど誤魔化しが利かない」と言われて以来、大事な場面ではシンプルなものを出すようにしていた。


 父が薄焼き菓子(クッキー)を一枚取って、口に入れた。


 三秒、止まった。


 (うちの家系の三秒だ)


 母が「美味しいですね」と言った。止まらずに言えた人だった。


 ファルク殿下が「セシルが焼きました」と言った。


 父がゆっくりと私を見た。何かを言おうとして——やめた。また薄焼き菓子(クッキー)に視線を戻した。「……そうか」とだけ言った。


 (この人は、感動したときほど言葉が少なくなる)



 帰り際の話だった。


 母が「少し厨房を見せていただけますか」と言って、グレンが案内することになった。ファルク殿下も同行することになって——結果として、客間に残ったのが父と私だけになった。


 父がしばらく、窓の外を見ていた。庭の枯れた木が、風に揺れていた。


「父上」と私が言いかけると、父が先に口を開いた。


「……ファルク殿下は、どういう人だ」


「どういうと言いますと」


「一言で言え」


 私は少し考えた。「毎日厨房に来て、椅子に座って、グレンの紅茶を飲む人です」


 父が私を見た。「……それだけか」


「それが全部です」


 父が少し黙った。「菓子は食べるのか」


「よく食べます。美味しいと止まります」


「止まる」


「三秒間」


 父がまた黙った。窓の外を見て、それから手元を見た。何かを言おうとしているのが、背中からわかった。不器用な人の「言おうとしている」は、体全体に出る。


「……よろしくお願いします、と言えたか」


「はい」


「あれでよかったか」


 私は少し固まった。


 客間でファルク殿下と向き合ったとき、父が改まって言った言葉があった。「娘を——よろしくお願いします」という、短い言葉だった。ファルク殿下が「こちらこそ」と答えた。二言だった。ただの二言だったが、父の目の端がその瞬間に少し赤くなった。


 廊下から母の声がした。「あなた、泣かないでください」


 「泣いていない」と父が言った。声が少し低かった。


 「目が赤いですよ」と母が言った。


 父が小さく咳払いをした。


 (うちの家系も、大事なときに同じ顔をする)


 父の、ファルク殿下の、グレンの——皆、大事なことほど言葉が少なくなる。感情が、別の場所に出る。そういう家系に囲まれて、私も同じようになったのか、最初からそうだったのかは、もうわからなかった。


「あれでよかったです」と私は答えた。「ファルク殿下に届いていました」


 父がゆっくりと頷いた。「……そうか」



 父が帰り際に、もう一度だけ立ち止まった。


 廊下の出口の前で、振り返った。いつもの厳格な顔をしていたが、目の端がまだ少し赤かった。


「お前が選んだ道だ」と父が言った。「間違っていなかった」


 私は少し黙った。


「……父上は、知っていたんですか」


「何を」


「私が、自分で選んでいるということを。ずっと前から」


 父がしばらく黙った。窓の外の庭を見て、また私を見た。


「お前が三歳の頃から、目が違った。前世の記憶のある目だと、わかった」


「知っていたなら、もっと早く言ってください」


「お前が自分で気づくまで待った」と父は言った。声に迷いがなかった。「私が言えば、お前の答えが変わる可能性があった。だから待った」


 (この家系は全員、待つのが得意らしい)


 ファルク殿下も「言えるときを作ろうとしていた」と言っていた。父は「自分で気づくまで待った」と言う。グレンは「ずっと言おうと思っていた」とためてから言った。


 待つことで何かを渡す種類の人間が、私の周りには多かった。


「……次からは、少しだけ早く言ってください」と私は言った。「待たれすぎると、こちらも何も言えなくなります」


 父が少し眉を動かした。怒ったとも呆れたともつかない顔だった。でもやがて、低い声で「わかった」と言った。


 母が「それはよかった。では帰りましょう、あなた」と言って父の袖を引いた。父が「わかっている」と言った。


 二人が廊下を歩いていく背中を見ながら、私はしばらくそこに立っていた。


 母が振り返らずに「セシル、ありがとう」と言った。何に対してのありがとうなのかは、言わなかった。でも、わかった。


 「こちらこそ」と私は言った。


 廊下が静かになった。石畳の冷たさが、足から伝わってきた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ