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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第四十九話 プロポーズという概念

 考えてみると、誰も「結婚」とは一度も正式に言っていなかった。


 婚約は継続している。公表も終わった。グレンは「令嬢様でなくなる日が近い」と言った。王宮の人間は皆、次に何が来るかを知っている顔をしている。でも「結婚しましょう」とか「いつ式を挙げるのか」という話を、誰も私に向かって直接言っていない。


 周囲の全員が「当然そういう流れになる」という前提で動いていて、当事者二人だけが——少なくとも私は——それを正式に確認していなかった。


 (前世の感覚で言えば、内定が出ているのに入社の書類を書いていない状態、に似ている)


 まあ、そのうち誰かが言うだろうと思っていた。


 「誰か」が口火を切るとしたら、この場合おそらくファルク殿下だろう、とも漠然と思っていた。


 漠然と思っていたことが、ある午後に現実になった。



 その日のファルク殿下は、いつもより少し早く厨房に来た。私がバターを室温に戻しながら今日の作業手順を確認していると、扉が開いて、いつもの椅子に腰を下ろした。グレンが「殿下、お茶をお持ちします」と言ってすぐに動いた。


 今日は何を焼こうかと考えながら、私はバターをボウルに入れた。冬のバターは硬い。室温に戻していても芯が残ることがある。でもそういうバターの方が、仕込みに時間がかかる分、気泡がきめ細かく入って仕上がりが軽くなる。急がない方がうまくいく素材というのが、あった。


「……セシル」


 名前で呼ばれたのは、数えるほどしかない。私は手を止めて振り返った。


 ファルク殿下が紅茶を受け取らずに、こちらを見ていた。グレンが「殿下?」と言って、そっと茶を置いて奥に下がった。あの人は、こういうときの空気の読み方が早い。


「一つ、確認したいことがある」とファルク殿下が言った。


「はい」


 ファルク殿下がしばらく黙った。三秒ではない。もう少し長い沈黙だった。言葉を選んでいる、というよりも——言い方を確認している、という沈黙だった。


「結婚を——正式に申し込んでいいか」


 私は少し止まった。


 頭の中で何かが整理される音がした。婚約はしている。でも「申し込む」とは言っていなかった。そうだ、一度も言っていなかった。婚約の経緯は複雑で、前世の記憶が戻って、婚約破棄しようとして、向こうも記憶を取り戻していて、紆余曲折あって継続になって——流れで全部決まってきた。正面から「申し込む」という言葉が出たのは、今が初めてだった。


「……すでに婚約者ではないですか」と私は言った。


「婚約と結婚は違う」とファルク殿下が言った。「改めて聞きたかった」


 (この人は、形式を大事にする人だ)


 前世でも今世でも、「言わなくてもわかる」で済ませない人だった。わかっていることをわかっている上で、言葉にする。それがこの人の誠実さの形だった。


 私はボウルを作業台に置いて、ファルク殿下の方を向いた。


「一つ、条件があります」


 ファルク殿下の目が、少し動いた。驚いたとも呆れたともつかない、でもどちらでもない目だった。


「何だ」



 私は少し考えた。本当に少しだけ考えた。


 グレンの「結婚式の菓子は私に」という言葉がまだ残っていた。ヴィルヘルムがいつか「お前は職人だ」と言った声も。エルナが「それが全部だったんです」と言ったときの声も。ファルク殿下が毎朝椅子に座って、何も言わずに紅茶を飲んでいる姿も。


 全部が、ここにある。この厨房に。


「厨房に、ずっと来てください」と私は言った。「それだけです」


 ファルク殿下が——止まった。


 三秒間、完全に止まった。


 これは美味しいものを食べたときの三秒とは、少し違う種類の三秒だった。でも止まること自体は同じで、何かが本物になった瞬間に起きる、この人の癖だった。


 三秒が過ぎた。


「……それだけか」


「それだけです」


 ファルク殿下が、もう一度私を見た。言葉の意味を確認するような目だった。私は「はい」と言う代わりに、もう一度「それだけです」と言った。


「わかった」


 短かった。でも過不足がなかった。この人の「わかった」は、本当にわかったときしか出ない言葉だと、もう知っていた。


 私はボウルに向き直って、バターを泡立て器で混ぜ始めた。



 (プロポーズへの返事が「厨房に来てください」なのは——我ながらどうかと思う)


 バターが温まって、だんだん柔らかくなってきた。泡立て器を動かすごとに、バターが白く、軽くなっていく。空気が入る音がする。単純な作業だが、手応えが変わっていくのがわかる。


 (でも、それが全部だった)


 結婚したら変わることがある。肩書きが変わる。住む場所が変わるかもしれない。関わる人間の数が増える。できることも増える。でも私が「ずっとそうであってほしい」と思うのは——ファルク殿下が毎日この椅子に座って、グレンの茶を飲みながら、私が何かを作るのを黙って見ている、あの時間だった。


 あの時間がある限り、他は何が変わっても大丈夫だと思っていた。


 前世では、加藤先輩に「ここにいてください」と言えなかった。言う前に、結末を決めてしまった。でも今世は——言えた。しかも「プロポーズへの条件」という形で言えた。これはさすがに先輩にも言えなかった形だったが、言い方としては今世流で良かったと思う。


「……少し笑っているように見えるが」


 ファルク殿下の声がした。私は顔を上げた。


「そうですか?」


「そうだ」


「バターの泡立て加減が丁度よくなってきたので」


 ファルク殿下が少し黙った。


「そうか」


 信じたのかどうかわからなかった。でも「そうか」と言ったので、少なくとも追及しないことにしたらしかった。


 グレンが奥から「殿下、お茶が冷める前にどうぞ」と声をかけた。ファルク殿下が「ああ」と言って、ようやく紅茶に手を伸ばした。


 厨房の空気が、少しだけ変わった。


 変わったが——いつも通りだった。それがよかった。



 夕方、厨房を出るときに、ファルク殿下が「明日も来る」と言った。


 「知っています」と答えた。


 「それと」とファルクが言った。珍しく少し間があった。「……返事を、ありがとう」


 私は少し固まった。「返事、というのは」


「条件の話だ」


「ああ」


 (「ありがとう」をこの人が言うのは、珍しい)


「こちらこそ」と私は言った。「聞いてくださって。改めて聞いてくれなければ、ずっと誰も言わないままだったかもしれない」


「そうはならなかった」とファルクが言った。「私が、もう少し早く言うつもりだった」


「いつから考えていたんですか」


 ファルク殿下が少し目を細めた。「……グレンに、令嬢様でなくなる日が近い、と言われてから」


 (グレンが火をつけたのか、この人にも)


 私は笑いをこらえた。「グレンに感謝しないといけませんね」


「鍋でも贈るか」


「喜ぶと思います」


 ファルク殿下が少し目元を緩めた。笑ったとは言えなかったが、笑いに近い何かだった。


 廊下の方から夕方の気配が入ってきた。石窯オーブンの火を落とすグレンの音がした。


 明日もここに来る人が、廊下の方へ歩いていった。私はその背中を少し眺めてから、エプロンを外した。


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