第四十九話 プロポーズという概念
考えてみると、誰も「結婚」とは一度も正式に言っていなかった。
婚約は継続している。公表も終わった。グレンは「令嬢様でなくなる日が近い」と言った。王宮の人間は皆、次に何が来るかを知っている顔をしている。でも「結婚しましょう」とか「いつ式を挙げるのか」という話を、誰も私に向かって直接言っていない。
周囲の全員が「当然そういう流れになる」という前提で動いていて、当事者二人だけが——少なくとも私は——それを正式に確認していなかった。
(前世の感覚で言えば、内定が出ているのに入社の書類を書いていない状態、に似ている)
まあ、そのうち誰かが言うだろうと思っていた。
「誰か」が口火を切るとしたら、この場合おそらくファルク殿下だろう、とも漠然と思っていた。
漠然と思っていたことが、ある午後に現実になった。
*
その日のファルク殿下は、いつもより少し早く厨房に来た。私がバターを室温に戻しながら今日の作業手順を確認していると、扉が開いて、いつもの椅子に腰を下ろした。グレンが「殿下、お茶をお持ちします」と言ってすぐに動いた。
今日は何を焼こうかと考えながら、私はバターをボウルに入れた。冬のバターは硬い。室温に戻していても芯が残ることがある。でもそういうバターの方が、仕込みに時間がかかる分、気泡がきめ細かく入って仕上がりが軽くなる。急がない方がうまくいく素材というのが、あった。
「……セシル」
名前で呼ばれたのは、数えるほどしかない。私は手を止めて振り返った。
ファルク殿下が紅茶を受け取らずに、こちらを見ていた。グレンが「殿下?」と言って、そっと茶を置いて奥に下がった。あの人は、こういうときの空気の読み方が早い。
「一つ、確認したいことがある」とファルク殿下が言った。
「はい」
ファルク殿下がしばらく黙った。三秒ではない。もう少し長い沈黙だった。言葉を選んでいる、というよりも——言い方を確認している、という沈黙だった。
「結婚を——正式に申し込んでいいか」
私は少し止まった。
頭の中で何かが整理される音がした。婚約はしている。でも「申し込む」とは言っていなかった。そうだ、一度も言っていなかった。婚約の経緯は複雑で、前世の記憶が戻って、婚約破棄しようとして、向こうも記憶を取り戻していて、紆余曲折あって継続になって——流れで全部決まってきた。正面から「申し込む」という言葉が出たのは、今が初めてだった。
「……すでに婚約者ではないですか」と私は言った。
「婚約と結婚は違う」とファルク殿下が言った。「改めて聞きたかった」
(この人は、形式を大事にする人だ)
前世でも今世でも、「言わなくてもわかる」で済ませない人だった。わかっていることをわかっている上で、言葉にする。それがこの人の誠実さの形だった。
私はボウルを作業台に置いて、ファルク殿下の方を向いた。
「一つ、条件があります」
ファルク殿下の目が、少し動いた。驚いたとも呆れたともつかない、でもどちらでもない目だった。
「何だ」
*
私は少し考えた。本当に少しだけ考えた。
グレンの「結婚式の菓子は私に」という言葉がまだ残っていた。ヴィルヘルムがいつか「お前は職人だ」と言った声も。エルナが「それが全部だったんです」と言ったときの声も。ファルク殿下が毎朝椅子に座って、何も言わずに紅茶を飲んでいる姿も。
全部が、ここにある。この厨房に。
「厨房に、ずっと来てください」と私は言った。「それだけです」
ファルク殿下が——止まった。
三秒間、完全に止まった。
これは美味しいものを食べたときの三秒とは、少し違う種類の三秒だった。でも止まること自体は同じで、何かが本物になった瞬間に起きる、この人の癖だった。
三秒が過ぎた。
「……それだけか」
「それだけです」
ファルク殿下が、もう一度私を見た。言葉の意味を確認するような目だった。私は「はい」と言う代わりに、もう一度「それだけです」と言った。
「わかった」
短かった。でも過不足がなかった。この人の「わかった」は、本当にわかったときしか出ない言葉だと、もう知っていた。
私はボウルに向き直って、バターを泡立て器で混ぜ始めた。
*
(プロポーズへの返事が「厨房に来てください」なのは——我ながらどうかと思う)
バターが温まって、だんだん柔らかくなってきた。泡立て器を動かすごとに、バターが白く、軽くなっていく。空気が入る音がする。単純な作業だが、手応えが変わっていくのがわかる。
(でも、それが全部だった)
結婚したら変わることがある。肩書きが変わる。住む場所が変わるかもしれない。関わる人間の数が増える。できることも増える。でも私が「ずっとそうであってほしい」と思うのは——ファルク殿下が毎日この椅子に座って、グレンの茶を飲みながら、私が何かを作るのを黙って見ている、あの時間だった。
あの時間がある限り、他は何が変わっても大丈夫だと思っていた。
前世では、加藤先輩に「ここにいてください」と言えなかった。言う前に、結末を決めてしまった。でも今世は——言えた。しかも「プロポーズへの条件」という形で言えた。これはさすがに先輩にも言えなかった形だったが、言い方としては今世流で良かったと思う。
「……少し笑っているように見えるが」
ファルク殿下の声がした。私は顔を上げた。
「そうですか?」
「そうだ」
「バターの泡立て加減が丁度よくなってきたので」
ファルク殿下が少し黙った。
「そうか」
信じたのかどうかわからなかった。でも「そうか」と言ったので、少なくとも追及しないことにしたらしかった。
グレンが奥から「殿下、お茶が冷める前にどうぞ」と声をかけた。ファルク殿下が「ああ」と言って、ようやく紅茶に手を伸ばした。
厨房の空気が、少しだけ変わった。
変わったが——いつも通りだった。それがよかった。
*
夕方、厨房を出るときに、ファルク殿下が「明日も来る」と言った。
「知っています」と答えた。
「それと」とファルクが言った。珍しく少し間があった。「……返事を、ありがとう」
私は少し固まった。「返事、というのは」
「条件の話だ」
「ああ」
(「ありがとう」をこの人が言うのは、珍しい)
「こちらこそ」と私は言った。「聞いてくださって。改めて聞いてくれなければ、ずっと誰も言わないままだったかもしれない」
「そうはならなかった」とファルクが言った。「私が、もう少し早く言うつもりだった」
「いつから考えていたんですか」
ファルク殿下が少し目を細めた。「……グレンに、令嬢様でなくなる日が近い、と言われてから」
(グレンが火をつけたのか、この人にも)
私は笑いをこらえた。「グレンに感謝しないといけませんね」
「鍋でも贈るか」
「喜ぶと思います」
ファルク殿下が少し目元を緩めた。笑ったとは言えなかったが、笑いに近い何かだった。
廊下の方から夕方の気配が入ってきた。石窯の火を落とすグレンの音がした。
明日もここに来る人が、廊下の方へ歩いていった。私はその背中を少し眺めてから、エプロンを外した。




