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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第四十八話 グレンのもう一言

 その日の午後は、珍しく仕込みが早く終わった。


 明日の分の薄焼き菓子(クッキー)の生地は冷やし室に入れてある。銀の砂糖亭に送る焼き菓子の詰め合わせも、朝のうちに完成させた。可可(カカオ)を使った新しいレシピの試作は、今週末に回す予定だ。仕事が残っていないわけではない。でも今日やるべきことは、全部片づいた。


 そういうときに何もしない、ということが私は昔から苦手だった。前世では「社畜の習い」と自分で呼んでいたが、今世でも大して変わっていない。手が空くと、次の仕事を探してしまう。


 グレンが作業台を拭きながら、ふと私の方を見た。


「令嬢様、少しよろしいですか」


 いつも通りの声だった。でも「少しよろしいですか」という枕詞がついたのは、珍しかった。グレンが前置きをするときは、だいたい大事な話の前だ。


「はい、どうぞ」と私は言った。


 ファルク殿下は今日、執務があると言って厨房に来ていなかった。珍しいことだったが、そういう日もある。部屋の中にはグレンと私だけで、石窯オーブンの余熱がじんわりと床に染み込んでいた。


 グレンが手を止めて、布巾を作業台の上に置いた。


「……令嬢様でなくなる日が、近いですね」


 私は少し間を置いた。


「そうですね」


 直接的な言い方だった。でも間違いではない。婚約は正式に継続している。公表も終わっている。次に来るのが何かは、誰の目にも明らかだ。


「おめでとうございます、と言うべきか」とグレンが言った。「それとも、寂しいと言うべきか」


「どちらでも構いませんよ」


「両方だと思っています」とグレンが言った。「令嬢様がここに来られた日から、もうずいぶん経ちます」


 私は棚の道具を眺めた。銅の泡立て器、木のへら、目の細かいふるい——来た当初は使い方もわからなかったものが、今は手を伸ばせばどれでも使いこなせる。


「変わりましたね」と私は言った。「最初は本当に、何も知らなかったので」


「令嬢様が変わったのではなく、元々持っていたものが出てきた、と私は思っています」


 グレンらしい言い方だった。褒めているのか、単純に観察した結果を述べているのか、判断が難しい。前世で上司に「仕事ができる人間は環境が変わっても仕事ができる」と言われたことがあったが、あれと似た空気だった。


「結婚されると」とグレンが続けた。「厨房に来られますか」


 私はすぐに答えた。「来ます。毎日」


 グレンが少し目を細めた。「殿下も毎日いらっしゃいますか」


「たぶん」と私は言った。「あの方は、一度決めたことを変えない人なので」


 北方からの帰路で「通りかかるのをやめる」と言って、以来一日も欠かさず厨房の椅子に座っている人だ。結婚してから来なくなる理由が、特に思い当たらなかった。


 グレンが少し間を置いた。


「……では、変わらないですね」


 私は首を横に振った。


「変わりますよ」


「そうですか」


「変わります」と私は繰り返した。「肩書きが変わりますし、使える時間も変わるかもしれません。できることの幅も、広がるでしょう。変わらないわけがない」


 グレンが静かに聞いていた。


「でも」と私は続けた。「変わらないものの方が多いと思います」


 厨房がある。道具がある。石窯オーブンがある。グレンがいる。ファルク殿下が椅子に座っている。そういうものは、肩書きが変わっても変わらない。少なくとも——変えるつもりはなかった。



 グレンが布巾を手に取り直した。何か言おうとして、少し止まった。それから作業台の端に置いてあった銅の小鍋を手に取った。


 (あ、と私は思った)


 グレンが大事なことを言う前に鍋を磨く、というのは、もう何度も見ていた。最初は気づかなかったが、回数を重ねるうちにわかるようになった。布巾で鍋の縁をゆっくり拭きながら、グレンは少し黙った。


 私も黙って待った。


「一つだけ、お願いがあります」とグレンが言った。


「なんですか」


 グレンが鍋から目を離さずに言った。


「結婚式の菓子は——私に、作らせてください」


 私は、少し固まった。


 固まった理由は、驚きと——それから、別の何かが混ざったからだった。


 グレンは王宮料理長だ。五十年近く厨房に立ってきた人で、どんな晩餐会の菓子も手がけてきた。「作る技術がある」という意味では、当然の申し出だった。でも今の言い方は、仕事の話ではなかった。


「……グレン、それは」


「ずっと、言おうと思っていました」とグレンが言った。「令嬢様が初めてここに来られた日から、なんとなく、そう思っていました。でも言い出すタイミングがわからなくて」


「最初から、ですか」


「職人は、見ればわかります。令嬢様は最初から、職人の目をしていた」


 私は少し黙った。


「……買いかぶりすぎです」


「そうは思いません」とグレンが言った。声に変わりはなかった。ただ、鍋を拭く手が少し遅くなった。「令嬢様が厨房に来られる前と後で、ここは別の場所になりました。殿下も来られるようになった。銀の砂糖亭との縁もできた。可可(カカオ)のルートも動きました。令嬢様がいなければ、どれも起きなかったことです」


 私はしばらく何も言えなかった。


 前世の上司も、定年間際にそういうことを言った人だった。退職の日に「お前がいなければ、この部署はもう少し静かだったが、もう少しつまらなかった」と言われた。あのときと似た、空気の重さがあった。


「だから」とグレンが続けた。「最後の——最後というか、けじめの菓子は、私が作らせてください。令嬢様のお祝いとして、私が腕を振るいたい」


 (この人は本当に、大事なことをためてから言う)


 最初から言えばよかったのに、と思う反面——ためてきたから、今の重さがあるとも思った。軽い言葉では出ない種類の、重さだった。


「……一つだけ、聞いていいですか」と私は言った。


「はい」


「好きなものを作っていいですよ、と言ったら、何を作りますか」


 グレンが少し考えた。


可可(カカオ)を使ったものを作りたいと思っています。令嬢様が北方のルートを動かす前は、王宮でもなかなか手に入らない素材でしたが——今は定期的に届くようになった。せっかくですから」


 私は少し笑った。


「では」と私は言った。「お願いします」


 グレンが、ようやく顔を上げた。長い厨房仕事で刻まれた皺の端が、少し動いた。笑ったとは言えないが、笑いに近い何かだった。


「ありがとうございます」とグレンが言った。「精一杯作ります」


「期待しています」


 グレンが鍋を棚に戻した。布巾を畳んだ。それからいつも通りの顔で「そろそろ夕方の仕込みに入ります」と言った。


 切り替えが早い人だ、といつも思う。でも今日に限っては——切り替えの前の一瞬に、何十年分かの何かが凝縮されていた気がした。



 夕暮れの光が厨房の窓から斜めに差し込んでいた。


 私は作業台の端に腰を下ろして、明日の試作のための素材を眺めながら、少しだけぼんやりした。


 結婚式、という言葉が初めて、自分の話として頭の中に入ってきた。


 婚約は継続している。公表も終わっている。グレンが「近い」と言った。私自身も、そうだと思っていた。でも「そうだと思っていた」と「実際に頭の中で場面として想像する」は、少し違う。


 (前世の加藤先輩が、転勤前日に「お疲れ様でした」と言ったとき——あのとき、「終わった」と頭でわかっても、胸が追いつくのに一週間かかった)


 今は逆だった。頭が追いついていない。胸の方が、少し先を行っていた。


 グレンの声が奥から聞こえてきた。「令嬢様、夕方の仕込みに参加されますか」


「行きます」と私は答えた。


 石窯オーブンが、夕方に向けてまた温まり始めていた。


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