表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/55

第四十七話 カカオの第一便

 それが届いたのは、朝の仕込みが終わって、石窯オーブンの温度を整えているときだった。


 グレンが厨房の奥から「令嬢様、見てください」と声をかけてきた。声に、いつもとは少し違う種類の張りがあった。鍋を磨いているわけでも、手が止まっているわけでもない。ただ——これは大事な話の前の声だ、とわかった。


「何がありましたか」


「来ました」


 グレンが作業台に木箱を置いた。


 蓋がまだ閉まっていた。運搬用の釘打ちをグレンが外して、静かに蓋を持ち上げた。


 香りが来た。


 (——ああ、これだ)


 深い。


 可可(カカオ)特有の、苦みの予告のような香りだった。甘さはまだない。でも甘さになる前の何か、原料のままの力強さが、厨房の空気を一瞬で塗り替えた。石窯オーブンの熱の匂いも、朝のバターの残り香も、その香りの前では脇に退いた。


 「シュタイン家との共同管理ルート経由で届いた初便です」とグレンが言った。静かな声だった。「南方から王都まで、新しい経路で来ました」


 私は木箱の中を覗き込んだ。


 粒が均一だった。以前に扱ったものより色が深く、表面に鈍い光がある。輸送中に傷んでいない。品質が安定している——それが見ただけでわかった。


 (これが、北方に向かう。エルナの厨房に届く)


 一粒、手に取った。


 ずしりとした重さがあった。小さいのに、重みがある。かじってみた。


 最初は固い。歯が入った瞬間、苦みが来た。鋭い苦みではなく、奥から広がってくる種類の苦みだ。噛み続けると、苦みの奥から甘みが出てくる。焦げた木の煙のような、土の深いところのような——言葉では説明しにくい、複雑な甘さだった。


 (前世で、コンビニの棚に並んでいたチョコレートと、同じ素材から来ている)


 (あのころ、当たり前のように手に取って、当たり前のように食べていた。どこから来るのか、誰が動かしているのか、考えたこともなかった)


 (でも今——これを動かしたのは、私だ)


 「令嬢様が作った仕組みで届きました」


 グレンが静かに言った。


 言葉は短かった。でもグレンが「静かに言った」というのは、この人にとって「大事なことを言った」ということだ。鍋を磨いていない。布を持っていない。手を作業台の端に添えて、まっすぐ私を見て、言った。


「グレン」


「はい」


「……ありがとうございます」


「私はお手伝いをしただけです」


「それがなければ、届いていませんでした」


 グレンが少しだけ目を細めた。この人は滅多に笑わない。でも目元は笑う。今、その目元が動いた。


「令嬢様が、北方へ行かれた甲斐がありました」



 壁際でファルク殿下が紅茶を飲んでいた。


 今朝も来ていた。いつも通り、グレンが椅子を引いて、お茶を出して、ファルクが「ありがとう」と言って受け取った。


 ファルクが木箱の方をちらりと見た。


「それが、可可(カカオ)か」


「第一便です。シュタイン家との共同管理ルートで届きました」


「——これが、北方に行くのか」


 私は少し考えた。


「方向としては逆です。南方からここに届いて、ここで製品にして、それが北方に行きます。今回届いたものは……エルナ様の厨房で使われます」


「エルナが」


「私のレシピで菓子を作ると、手紙に書いてありました。厨房の職人を集めて、順番に覚えてもらうつもりだと」


 ファルクが少し間を置いた。


「……遠くまで行くな」


 (——その言い方を、聞いたことがある)


 第二章の、北方視察のとき。エルナの館を出発して、馬車に乗り込む前。山を見て「遠い」とファルクが言った。あれは距離の話だった。物理的な、王都から北方までの話だった。


 今の「遠くまで行くな」は、違う。


 南方から来た可可(カカオ)が、王都の厨房で菓子になって、北方のエルナの厨房に届いて、誰かの口に入る——その話だ。


 「遠くまで行く」のは距離ではなく、私が作った仕組みが届く先の話だ。


 (第23話の「遠い」が、今度は別の意味で使われた)


「チームなので」と私は言った。


 ファルクが私を見た。


「チーム、か」


「はい。グレンも、ヴィルヘルムも、エルナ様も——チームです。遠くまで行くのは私だけではなく、チームで行くので」


 ファルクが少し黙った。


「……なるほど」


「殿下も、チームです」と私は言った。


 ファルクが「私が」と言った。


「厨房に毎日来てくださっているので」


「……それがチームの条件か」


「今のところは」


 ファルクが短く「そうか」と言った。それだけだった。でもカップを持つ手が、ほんのわずかに動いた。満足した人間の動作だった。



 午後から、可可(カカオ)を使った試作を始めた。


 昨日のエルナの話で頭にあったのは、北方の気候に合わせたレシピだった。北方は乾燥していて、気温が低い。王都の石窯オーブンと同じ設定では焼き具合が変わる。材料の比率も、少し変える必要がある。


 可可(カカオ)の粉を量った。バターを常温に戻した。卵を割って、溶く。砂糖は控えめにする——北方で食べるなら、甘さより可可(カカオ)の深みを前に出した方がいいと思った。


 生地を作りながら、頭の中でエルナの厨房を想像した。


 一度しか行っていない。でも、覚えている。石造りの床、天井の梁、北向きの窓。王宮の厨房より冷えて、でも職人が丁寧に使っている道具がある。あの厨房で、私のレシピが動く。


 (菓子は、私がいなくても作られる)


 (それが、仕組みを作るということだ)


 前世の商社で、ずっとプロジェクトを動かしていた。でも「自分がいないと動かない仕事」ばかりだった。仕組みを作ったつもりが、気づけば仕組みの中の一部品になっていた。それが嫌だったわけではないが——消耗した。


 今は違う。


 私が北方にいなくても、私のレシピが動く。エルナが動かす。エルナの職人が作る。誰かの手に届く。


 それが——菓子を作ることの、今世での意味かもしれない。


 型に生地を流し込んで、石窯オーブンに入れた。


 しばらくして、可可(カカオ)の香りが厨房に広がり始めた。苦みの先に甘みが来る、あの香りだ。


「いい匂いだ」とファルクが言った。


「昨日と同じ素材です」


「昨日と少し違う」


「配合を変えました。北方向けです」


 ファルクが「北方に送るものを、ここで作るのか」と言った。


「試作です。同じ配合でエルナ様の厨房で作れるかどうか、確認してから送ります」


「……手が込んでいる」


「必要な手順です」


 グレンが遠くで「令嬢様らしい」と呟いた。聞こえていたが、私は何も言わなかった。



 夕方、焼き上がったものを切り分けた。


 断面が滑らかで、可可(カカオ)の色が均一に入っていた。表面は少し乾いていて、北方の気候に合わせたかさが出ている。冬の乾いた空気の中で食べることを想定した、その仕上がりだった。


 一切れをグレンに渡した。グレンが食べた。三秒、止まった。


 (グレンも止まる)


 「……いいと思います」とグレンが言った。珍しく、すぐに言葉が出た。「北方の方に届けても、喜ばれると思います」


「では配合を記録しておきます。エルナ様に送るレシピに加えます」


「はい」


 ファルクが「私は」と言った。


「もちろんです」と私は言って、一切れを置いた。


 ファルクが食べた。


 止まった。三秒、きっちりと止まった。


 それから「……昨日より、奥に何かある」と言った。


可可(カカオ)の量を増やしました」


「甘さが少ない」


「北方向けです」


「北方の人間は、甘さより深みを好むのか」


「確かめていません。でも、エルナ様がそう言っていたので」


「エルナが」


「寒い場所では、甘いものより体が温まるものが好まれると。可可(カカオ)の苦みは、温まった感覚が続くと言っていました」


 ファルクが「……そうか」と言った。少し考えるような間だった。


 (この人は短い言葉の中に、考えが入っている)


「殿下」


「なんだ」


可可(カカオ)の話をした当初は、誰もが半信半疑だったと思います。カカオが外交に使えると言ったときも、北方に流通を作ると言ったときも」


「そうだったな」


「今日、届きました」


 ファルクが私を見た。


「それが言いたかったか」


「少しだけ、言いたかったです」


「……言っていい」


 私は少し笑った。


「ありがとうございます」


 石窯オーブンの余熱がまだ厨房に残っていた。可可(カカオ)の香りが空気に溶けていた。


 グレンが作業台を片付け始めた。今日の仕事が終わりに近い。


 木箱の中には、まだ可可(カカオ)の粒が残っていた。明日も試作する。明後日も考える。エルナの厨房に届くまで、何度でも整えていく。


 (前世のコンビニの棚に並んでいたチョコレートの向こう側に、こういう話があった。どこかで誰かが動かして、誰かに届けて、誰かが食べる)


 (今は——私が動かす側にいる)


 「令嬢様」とグレンが言った。「明日の仕込みは何を準備しておきますか」


「明日は可可(カカオ)と、バターと——北方の配合の修正を試します。もう少し卵を減らして、何回か焼き直したいです」


「わかりました」


「グレン」


「はい」


「今日は——ありがとうございました」


 グレンが少し間を置いた。鍋に手をかけた。磨こうとしているのかどうか、微妙な手の位置だった。


「令嬢様が来てくださってから、この厨房はずっとよくなっています」とグレンが言った。


「私もです」と私は言った。「ここに来てから——ずっと」


 夜の厨房に、可可(カカオ)の香りがまだあった。


 石窯オーブンが、静かに冷めていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ