第四十七話 カカオの第一便
それが届いたのは、朝の仕込みが終わって、石窯の温度を整えているときだった。
グレンが厨房の奥から「令嬢様、見てください」と声をかけてきた。声に、いつもとは少し違う種類の張りがあった。鍋を磨いているわけでも、手が止まっているわけでもない。ただ——これは大事な話の前の声だ、とわかった。
「何がありましたか」
「来ました」
グレンが作業台に木箱を置いた。
蓋がまだ閉まっていた。運搬用の釘打ちをグレンが外して、静かに蓋を持ち上げた。
香りが来た。
(——ああ、これだ)
深い。
可可特有の、苦みの予告のような香りだった。甘さはまだない。でも甘さになる前の何か、原料のままの力強さが、厨房の空気を一瞬で塗り替えた。石窯の熱の匂いも、朝のバターの残り香も、その香りの前では脇に退いた。
「シュタイン家との共同管理ルート経由で届いた初便です」とグレンが言った。静かな声だった。「南方から王都まで、新しい経路で来ました」
私は木箱の中を覗き込んだ。
粒が均一だった。以前に扱ったものより色が深く、表面に鈍い光がある。輸送中に傷んでいない。品質が安定している——それが見ただけでわかった。
(これが、北方に向かう。エルナの厨房に届く)
一粒、手に取った。
ずしりとした重さがあった。小さいのに、重みがある。かじってみた。
最初は固い。歯が入った瞬間、苦みが来た。鋭い苦みではなく、奥から広がってくる種類の苦みだ。噛み続けると、苦みの奥から甘みが出てくる。焦げた木の煙のような、土の深いところのような——言葉では説明しにくい、複雑な甘さだった。
(前世で、コンビニの棚に並んでいたチョコレートと、同じ素材から来ている)
(あのころ、当たり前のように手に取って、当たり前のように食べていた。どこから来るのか、誰が動かしているのか、考えたこともなかった)
(でも今——これを動かしたのは、私だ)
「令嬢様が作った仕組みで届きました」
グレンが静かに言った。
言葉は短かった。でもグレンが「静かに言った」というのは、この人にとって「大事なことを言った」ということだ。鍋を磨いていない。布を持っていない。手を作業台の端に添えて、まっすぐ私を見て、言った。
「グレン」
「はい」
「……ありがとうございます」
「私はお手伝いをしただけです」
「それがなければ、届いていませんでした」
グレンが少しだけ目を細めた。この人は滅多に笑わない。でも目元は笑う。今、その目元が動いた。
「令嬢様が、北方へ行かれた甲斐がありました」
*
壁際でファルク殿下が紅茶を飲んでいた。
今朝も来ていた。いつも通り、グレンが椅子を引いて、お茶を出して、ファルクが「ありがとう」と言って受け取った。
ファルクが木箱の方をちらりと見た。
「それが、可可か」
「第一便です。シュタイン家との共同管理ルートで届きました」
「——これが、北方に行くのか」
私は少し考えた。
「方向としては逆です。南方からここに届いて、ここで製品にして、それが北方に行きます。今回届いたものは……エルナ様の厨房で使われます」
「エルナが」
「私のレシピで菓子を作ると、手紙に書いてありました。厨房の職人を集めて、順番に覚えてもらうつもりだと」
ファルクが少し間を置いた。
「……遠くまで行くな」
(——その言い方を、聞いたことがある)
第二章の、北方視察のとき。エルナの館を出発して、馬車に乗り込む前。山を見て「遠い」とファルクが言った。あれは距離の話だった。物理的な、王都から北方までの話だった。
今の「遠くまで行くな」は、違う。
南方から来た可可が、王都の厨房で菓子になって、北方のエルナの厨房に届いて、誰かの口に入る——その話だ。
「遠くまで行く」のは距離ではなく、私が作った仕組みが届く先の話だ。
(第23話の「遠い」が、今度は別の意味で使われた)
「チームなので」と私は言った。
ファルクが私を見た。
「チーム、か」
「はい。グレンも、ヴィルヘルムも、エルナ様も——チームです。遠くまで行くのは私だけではなく、チームで行くので」
ファルクが少し黙った。
「……なるほど」
「殿下も、チームです」と私は言った。
ファルクが「私が」と言った。
「厨房に毎日来てくださっているので」
「……それがチームの条件か」
「今のところは」
ファルクが短く「そうか」と言った。それだけだった。でもカップを持つ手が、ほんのわずかに動いた。満足した人間の動作だった。
*
午後から、可可を使った試作を始めた。
昨日のエルナの話で頭にあったのは、北方の気候に合わせたレシピだった。北方は乾燥していて、気温が低い。王都の石窯と同じ設定では焼き具合が変わる。材料の比率も、少し変える必要がある。
可可の粉を量った。バターを常温に戻した。卵を割って、溶く。砂糖は控えめにする——北方で食べるなら、甘さより可可の深みを前に出した方がいいと思った。
生地を作りながら、頭の中でエルナの厨房を想像した。
一度しか行っていない。でも、覚えている。石造りの床、天井の梁、北向きの窓。王宮の厨房より冷えて、でも職人が丁寧に使っている道具がある。あの厨房で、私のレシピが動く。
(菓子は、私がいなくても作られる)
(それが、仕組みを作るということだ)
前世の商社で、ずっとプロジェクトを動かしていた。でも「自分がいないと動かない仕事」ばかりだった。仕組みを作ったつもりが、気づけば仕組みの中の一部品になっていた。それが嫌だったわけではないが——消耗した。
今は違う。
私が北方にいなくても、私のレシピが動く。エルナが動かす。エルナの職人が作る。誰かの手に届く。
それが——菓子を作ることの、今世での意味かもしれない。
型に生地を流し込んで、石窯に入れた。
しばらくして、可可の香りが厨房に広がり始めた。苦みの先に甘みが来る、あの香りだ。
「いい匂いだ」とファルクが言った。
「昨日と同じ素材です」
「昨日と少し違う」
「配合を変えました。北方向けです」
ファルクが「北方に送るものを、ここで作るのか」と言った。
「試作です。同じ配合でエルナ様の厨房で作れるかどうか、確認してから送ります」
「……手が込んでいる」
「必要な手順です」
グレンが遠くで「令嬢様らしい」と呟いた。聞こえていたが、私は何も言わなかった。
*
夕方、焼き上がったものを切り分けた。
断面が滑らかで、可可の色が均一に入っていた。表面は少し乾いていて、北方の気候に合わせたかさが出ている。冬の乾いた空気の中で食べることを想定した、その仕上がりだった。
一切れをグレンに渡した。グレンが食べた。三秒、止まった。
(グレンも止まる)
「……いいと思います」とグレンが言った。珍しく、すぐに言葉が出た。「北方の方に届けても、喜ばれると思います」
「では配合を記録しておきます。エルナ様に送るレシピに加えます」
「はい」
ファルクが「私は」と言った。
「もちろんです」と私は言って、一切れを置いた。
ファルクが食べた。
止まった。三秒、きっちりと止まった。
それから「……昨日より、奥に何かある」と言った。
「可可の量を増やしました」
「甘さが少ない」
「北方向けです」
「北方の人間は、甘さより深みを好むのか」
「確かめていません。でも、エルナ様がそう言っていたので」
「エルナが」
「寒い場所では、甘いものより体が温まるものが好まれると。可可の苦みは、温まった感覚が続くと言っていました」
ファルクが「……そうか」と言った。少し考えるような間だった。
(この人は短い言葉の中に、考えが入っている)
「殿下」
「なんだ」
「可可の話をした当初は、誰もが半信半疑だったと思います。カカオが外交に使えると言ったときも、北方に流通を作ると言ったときも」
「そうだったな」
「今日、届きました」
ファルクが私を見た。
「それが言いたかったか」
「少しだけ、言いたかったです」
「……言っていい」
私は少し笑った。
「ありがとうございます」
石窯の余熱がまだ厨房に残っていた。可可の香りが空気に溶けていた。
グレンが作業台を片付け始めた。今日の仕事が終わりに近い。
木箱の中には、まだ可可の粒が残っていた。明日も試作する。明後日も考える。エルナの厨房に届くまで、何度でも整えていく。
(前世のコンビニの棚に並んでいたチョコレートの向こう側に、こういう話があった。どこかで誰かが動かして、誰かに届けて、誰かが食べる)
(今は——私が動かす側にいる)
「令嬢様」とグレンが言った。「明日の仕込みは何を準備しておきますか」
「明日は可可と、バターと——北方の配合の修正を試します。もう少し卵を減らして、何回か焼き直したいです」
「わかりました」
「グレン」
「はい」
「今日は——ありがとうございました」
グレンが少し間を置いた。鍋に手をかけた。磨こうとしているのかどうか、微妙な手の位置だった。
「令嬢様が来てくださってから、この厨房はずっとよくなっています」とグレンが言った。
「私もです」と私は言った。「ここに来てから——ずっと」
夜の厨房に、可可の香りがまだあった。
石窯が、静かに冷めていった。




