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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第四十六話 エルナが当主になった

 エルナが王都に来たのは、手紙が届いてから半月ほど後のことだった。


 事前に「正式に契約を結びたい」という知らせが来ていた。可可(カカオ)の共同管理ルートに関する正式な書面のやり取りと、シュタイン侯爵家が絡む流通の取り決めを、当事者として確認したいとのことだった。


 ライオネル殿下が場を設けてくれた。応接室に、テーブルと契約書の写しと、いつもより少し硬い椅子が並んだ。


 私はいつものエプロンではなく、訪問客を迎えるための服を着た。それだけで少し、厨房とは別の場所に来た感じがした。


 扉が開いた。


 エルナが入ってきた。


 (……雰囲気が変わっている)


 それが最初の感想だった。身長も体型も変わっていない。明るい茶色の髪も、北方の風で少し傷んでいるのも、同じだ。でも——空気が違う。


 以前、縁談候補として王都に来たときのエルナは「場所が変われば何かが変わるかもしれない」という緊張と、少しの迷いを帯びた顔をしていた。


 今のエルナは、その顔をしていなかった。


 扉の前に立って、部屋を一度見回した。それから私の方を見た。真っすぐな目だった。


「シュタイン侯爵家当主、エルナ・フォン・シュタインです」


 声が落ち着いていた。北方を発つ前より、少し低くなっていた。公爵家の娘が縁談のために名乗るときの声ではなく、当主として交渉の場に立つ人間の声だった。


「セシル・カルドアです。ようこそ、エルナ様」


「お招きいただきありがとうございます」


 お茶が出た。エルナが席に着いた。


「……雰囲気が変わりましたね」と私は言った。


 エルナが少し目を細めた。


「変えようとしたので」


 その言葉を聞いた瞬間、何かが、胸の奥で静かに落ちた。


 (第25話で——いや、あの北方の視察のとき、私はエルナに「変えようとしましたか」と聞いた。縁談候補として来た当時と、今のエルナが違って見えたから聞いた。あのとき、エルナは「わからない」と言った。でも今——「変えようとしたので」と言った)


「……そうですか」


「あなたに聞かれてから、ずっと考えていました」とエルナが言った。「変えようとしなければ、何も変わらないと」


「変えられましたか」


「まだ途中です」とエルナが言った。「でも、変える方向には向いています」


 (この人は正直だ。「変えました」と言わずに「途中です」と言える人は、本当に変わっている人だ)



 契約書の確認は、思ったより順調に進んだ。


 可可(カカオ)の南方から王都への輸送ルート、シュタイン侯爵家が北方への流通を担う部分、王宮の関与する範囲——ライオネル殿下の用意した書面は丁寧だった。エルナも事前に確認してきていた。


 細かい数字の確認が数箇所あった。量の上限、季節による変動、緊急時の対応——一つずつ確認しながら、書面に名前が入っていった。


 (前世の商社で何度も経験した「契約書の最終確認」に似ていた。でも今回は——私が「セシル・カルドア」として、本当に関わった仕組みの話だ)


 契約の話が終わったとき、ライオネル殿下が「では今日のところはこれで」と言って立ち上がった。


 エルナがその場に残った。私が動きかけると、エルナが「一つだけ、個人的に聞いてもいいですか」と言った。


「もちろんです」


 ライオネル殿下が扉の前で少し振り返った。扉を閉めてから、部屋が二人になった。



 「クラウスが——正式に申し出てくれました」とエルナが言った。


 声が、さっきより少しだけ、低くなっていた。いや、低いというより——やわらかかった。当主の声ではなく、エルナ自身の声だった。


「私は、受けようと思っています」


「おめでとうございます」と私は言った。


 エルナが少し目を伏せた。北方の窓から山を見ていたときと、少し似た目だった。


「……あなたのおかげです」とエルナが言った。


「私は」と私は言った。「菓子を作っただけです」


 エルナが顔を上げた。


「それが全部だったんです」


 (全部、とはどういう意味だ——と思いかけて、止まった)


 (縁談候補として来て、同じ縁談を断ろうとしていた令嬢と出会って、夜に菓子を食べた。それが、何かを動かした。エルナの中で何かが変わるきっかけになった。クラウスのことも、当主のことも、その先に続く話だ)


 (でも私は——ただ、作りたかったから作った。好きだから、作った)


「私は」とエルナが言った。「あの夜の菓子を食べて、初めて『自分のために何かをしてもらった』と思いました」


「エルナ様のために作ったというより——」


「わかっています」とエルナが言った。「あなたが作りたいものを作っただけ、ということも。でも、それがよかったんです。私のために計算された何かではなく、ただ作ったものを、一緒に食べた。それが——全部だったんです」


 私は少し黙った。


 (前世でも、今世でも、「ただ好きで作ったもの」が誰かに届くことがある。それは狙って作れるものではない。でも——届いたとき、それは「ただ作った」という事実を超えて、誰かの何かになる)


「クラウスとは、うまくいきそうですか」と私は聞いた。


 エルナが少し笑った。北方の館では見なかった、素直な笑い方だった。


「うまくやるつもりです」


「そうですか」


「あなたのように」とエルナが言った。「整理してから走るつもりで」


 (加藤先輩の言葉が、エルナに届いていたか)


「その言い方を覚えていてくれたんですね」


「忘れません」



 エルナを見送った後、廊下を歩きながら厨房に戻った。


 夕方の光が廊下の窓から差していた。冬の光は低く、横から差す。廊下に薄い影が伸びた。


 (エルナが当主になった)


 (クラウスとの話が正式に進んでいる)


 (可可(カカオ)が北方に届く仕組みが動いている)


 第二章で——あの北方視察で、まいた種が動いている。菓子外交の契約が、今はエルナ自身の手で動いている。


 大きい話だ、と思う。でも同時に、ひどく当たり前の話でもある。誰かが動こうとして、誰かが手を伸ばして、それが続いているだけだ。


 厨房の扉を開けると、石窯オーブンの熱が出てきた。


 グレンが振り返った。


「お帰りなさいませ。いかがでしたか」


「契約の話は順調です。エルナ様がよく準備されていました」


「そうですか」


「グレン」


「はい」


「今日の夕方、少し焼き菓子を試したいのですが、時間はありますか」


 グレンが少し目を細めた。「あります」と言った。


「では始めましょう」


 私はエプロンを手に取った。


 ファルク殿下が椅子に座っていた。いつも通りだった。


「どうだった」と短く言った。


「いい話でした」と私は言った。「エルナ様は、変わっていました。変えようとしていました」


「……そうか」


「はい」


 石窯オーブンが温まっていた。


 今日も、一から作る。


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