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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第四十五話 いつも通りで

 三十件の注文をこなすのに、十日かかった。


 正確には「十日で終えた」と言うべきかもしれない。前世の商社的な感覚で言えば、十日というのは「なんとか間に合った」の部類だ。品質を落とさずに量をこなすには、人手と時間の両方が必要だった。


 グレンが段取りをした。ヴィルヘルムの店から若い職人が二人、手伝いに来た。グレンが王宮厨房の若い料理人を二人つけてくれた。ほぼ毎日、六人が厨房に入った。


 はじめの二日は、正直少し混乱した。


 厨房は広い。でも「六人で同時に動く」となると、作業の流れが変わる。誰が何を担当するか、石窯オーブンの使い方の優先順位、材料の動かし方——一から整理が必要だった。


 (前世のプロジェクトで、急に人が増えたときと同じだ。増えた人数分だけ、最初は摩擦がある)


 三日目には少し流れができた。七日目には、誰が黙っていても手が動くようになった。


 (整理してから走れ、というのはこういうことだ。走り出したら、あとは走り続けるだけでいい)



 十日が経って、注文をすべて届け終えた朝、厨房はいつもより静かだった。


 手伝いに来ていた職人たちは各々の持ち場に戻った。グレンと若い料理人一人が、いつものように作業台の前に立っていた。石窯オーブンが低く唸っていた。


 壁際の椅子にファルク殿下が座っていた。


 グレンがお茶を出した。ファルクが「ありがとう」と言って受け取った。この流れも、今ではすっかり定番になった。


「令嬢様、今日は何を作られますか」とグレンが言った。


 私は少し考えた。


 十日間、注文のある菓子を作り続けた。薄焼き菓子(クッキー)可可(カカオ)の焼き菓子、果物を使った焼き型のもの——顧客が望むものを、必要な数だけ仕上げた。それはそれで、達成感がある。


 でも今日は——今日は、自分が試したいものを作りたかった。


「何を作るんだ」とファルク殿下が言った。


 (この問い、何度目だろう)


 (でも毎回、同じ問いに聞こえない)


「まだ決めていません」


「そうか」とファルクが言った。少し間を置いて「では好きなものを作れ」


 (そう来るとわかっていた。でも毎回、その言葉に少しだけ救われる)


「……今日は、可可(カカオ)を使った新しいものを試します」


「新しいもの、とは」


「まだ形がはっきりしないのですが——可可(カカオ)の粉と卵と砂糖だけで、蒸して作るものが、前世に……昔に食べたことがあって。それを今の素材で再現できないか、試してみたくて」


 ファルクが少し黙った。


 考えているのか、聞いているのか、どちらともつかない間だった。


「……どんなものか」


「食べてみたらわかります。できたら」


「そうか」


 グレンが奥から「可可(カカオ)でしたら、昨日いいものが入っています」と言った。「試作に向いた量です」


「では使わせてください」


「はい」



 可可(カカオ)の粉を量りながら、頭の中で工程を組み立てた。


 前世で食べたのは、可可(カカオ)の風味を生かした蒸し菓子だった。しっとりとして、口の中でゆっくりとけて、苦みの奥に甘さがあった。砂糖を使いすぎないほうが、素材の深みが出る。卵の量が仕上がりに大きく影響する。


 卵を二つ割った。澄んだ黄色だった。よく溶いて、砂糖を加えた。少しずつ混ぜながら可可(カカオ)の粉を足していく。スパチュラで底から返すように、丁寧に合わせた。


 粉が液体に馴染んでいくと、可可(カカオ)の香りが広がり始めた。


 深い。苦みと甘みが予告する、あの香りだ。前世でチョコレートを箱から出したときの香りより、もっと素朴で、もっと直接的だった。加工される前の素材の匂いは、こんなにも力強い。


 (この香りを初めて嗅いだのは、前世でいつだったか。覚えていない。でも今これを作っているのは——私だ)


 型に流し込んで、石窯オーブンに入れた。蒸し焼きの工程には時間がかかる。しばらく待った。


 厨房に可可(カカオ)の香りがゆっくりと満ちていった。


 ファルクが窓の外を見ながら「いい匂いだ」と言った。


「出来上がるまで少し時間がかかります」


「急がない」


 グレンが他の仕事をしていた。若い料理人が棚の整理をしていた。石窯オーブンの低い音が、厨房の奥に響いていた。


 (これがいつも通りだ。今日から、これが新しいいつも通りだ)



 出来上がったものを型から出すと、可可(カカオ)の色が深く、表面がしっとりと光っていた。切り分けると、中がほんのり温かく、湯気が細く立った。


 一切れをファルクの前に置いた。


 ファルクがひと口食べた。


 止まった。


 三秒、完全に止まった。


 (この人は今世でもそうなのか。前世でも同じだったのかと、ときどき思う)


「……」


「殿下」


「……うまい」とファルクが言った。短く、でもその「うまい」に重みがあった。「苦みが、深い」


「はい。可可(カカオ)の粉を多めに使いました」


「甘さは少ない方がいい」


「そう思っています」


 ファルクが二口目を食べた。もう一度、黙った。今度は三秒より少し長かった。


「名前はあるか」


 私は少し考えた。


「まだないです」


「……そうか」


「できたら——殿下に名付けてもらおうと思っていました」


 ファルクが、固まった。


 今度は菓子を食べたときとは違う種類の固まり方だった。三秒、というより——三秒半くらい、止まっていた。


 グレンが背中を向けた。若い料理人が棚の整理に戻った。


「……難しいことを頼む」とファルクが言った。


 その声は、いつもより少し低かった。でも——困っているのとも、拒否しているのとも違う声だった。


 私が「難しかったですか」と言う前に、ファルクが少し目元を緩めた。


 笑った。


 声に出して笑ったわけではない。でも、この人が「少し笑った」としか言いようのない表情が、一瞬だけ顔に出た。


「……考えておく」


「ありがとうございます」


「礼は、名前がついてからにしろ」


「では、名前がついたときに」



 夕方、グレンが「令嬢様、お手紙が届いています」と言って、一通の封筒を持ってきた。


 封蝋は見覚えのない紋章だった。でも筆跡に、見覚えがあった。


 北方の——エルナの字だった。


 封を開けた。


---


 セシル様へ


 お便りが遅くなりました。王都での婚約公表のご報告を聞き、心からお祝い申し上げます。


 こちらにも、いくつかご報告があります。


 クラウスが、正式に申し出てくれました。私は、受けようと思っています。


 北方から可可(カカオ)の第一便が届く見込みが立ちました。セシル様のレシピで菓子を作る予定です。厨房の職人たちが楽しみにしています。


 ——それと、一つだけ、お知らせがあります。


 侯爵家の当主が倒れました。医師は「快復には長い時間がかかる」と言っています。家の者と相談した結果、私が次を継ぐことになりました。


 至らぬところも多いかと思いますが——変えようとしているので。


 またお会いできることを楽しみにしています。


           シュタイン侯爵家当主 エルナ・フォン・シュタイン


---


 私は手紙を持ったまま、少し固まった。


 クラウスの申し出。可可(カカオ)の第一便。そして——侯爵家の当主。


 エルナが、当主になる。


 以前「縁談候補」として王都に来たときのエルナではない。北方の館で窓を見ていたエルナでもない。


 (シュタイン侯爵家当主として、動く。それは——第二章で結んだ菓子外交の契約を、エルナ自身が動かすということだ)


 (チームが、また北方に広がった)


 ファルク殿下が「何かあったか」と言った。


「エルナ様から手紙が来ました」と私は言った。「いくつか、ご報告が」


「どういう話だ」


「クラウスへの返事のこと、可可(カカオ)の件——それと、エルナ様が侯爵家の当主になられます」


 ファルクが少し黙った。


「……そうか」


「はい」


「動く人だな」


「そうです」と私は言った。「チームなので」


 グレンが奥から「おめでとうございます、と伝言できますか」と言った。


「伝えます」


 夜の厨房に、可可(カカオ)の香りがまだ残っていた。


 石窯オーブンが冷め始めていた。


 私は手紙をたたんで、エプロンのポケットに入れた。明日、丁寧な返事を書く。今日の話を全部、書く。


 第三章が終わる。


 でも——終わりではない。始まりが、北方にまで広がった。


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