第四十四話 王都に知れ渡る日
知らせというのは、なぜこちらが準備できていない日に来るのだろう。
その朝、グレンが厨房に入ってきたとき、手に何も持っていなかった。鍋も、布も、計量の道具も——何も持たずに入ってきた。それだけで「いつも通りではない」とわかった。
「令嬢様」とグレンが言った。
「なんですか」
「……今朝の王都に、二つ、話が出ました」
私は手を止めた。
作業台の上に薄焼き菓子の生地を広げている途中だった。バターと小麦粉を合わせて、やっと生地になったところだった。もう少しで次の工程に入れる、というタイミングだった。
(このタイミングに来るか)
でも、整理せずに動くのは悪手だ。まず聞く。
「一つずつ教えてください」
「はい」とグレンが言った。「まず——カルドア公爵家とフォルカー王家の婚約が、正式に公表されました」
私は少し固まった。
固まったのは三秒ほどだった。もともと想定はしていた話だ。正式な婚約継続を確認したのは先日のことで、それが公表されるのは時間の問題だと思っていた。だから驚きより先に、ひとつ大きく息を吐いた。
「もう一つは」
「……銀の砂糖亭の『セシル・カルドア作』の菓子が、話題になっています」
「ヴィルヘルムの店のものが、ですか」
「はい。婚約公表の話と、ほぼ同時に広まったようで——」
グレンが少し言葉を選んだ。
「『第二王子妃候補が作った菓子』という文脈で、広まっているようです」
私は、もう一度、止まった。
(……その文脈は、少し違う)
菓子は、婚約があるから作っているのではない。令嬢だから作っているわけでも、王子妃候補だから作っているわけでも、ない。ただ、作りたいから作っている。好きだから、作っている。
でもそれを今、口に出しても何も変わらない。世の中に広まった話の「文脈」は、当事者の意図通りには動かない。前世でも、何度もそれを見てきた。
(整理してから走れ。今必要なのはその順番だ)
壁際の椅子でファルク殿下が紅茶を持ったまま、私を見ていた。何も言わなかった。この人は私が整理しているときに、余計な言葉を差し込まない。それがありがたかった。
*
その日の昼過ぎ、ヴィルヘルムが厨房に来た。
「連絡しようと思っていたら、先に来てしまいました」とヴィルヘルムが言った。珍しく、少しだけ早足で入ってきた。手に革の書類入れを持っていた。
「店の前に、人が来ています」
「買いに来た方ですか」
「そういう方もいます。ただ——話を聞きに来た客の方が多い。令嬢の菓子はどこで買えるか、と」
私は少し黙った。
「店に並んでいるものはすべて出しています。ただ、問い合わせが多くて……在庫がいつもより早く動いています」
「わかりました」
「令嬢」とヴィルヘルムが言った。口ひげの下で、少し真剣な目をしていた。「これはチャンスだ」
私はヴィルヘルムを見た。
「チャンス」という言葉の意味は、わかる。婚約公表と菓子の話題が重なったことで、普段は菓子店に来ない層まで名前が届いた。今この瞬間に動けば、広がり方が変わる。前世の商社でも、こういうタイミングは「一度しか来ない」と言われていた。
でも——
「チャンスというより」と私は言った。「始まりです」
ヴィルヘルムが眉を動かした。
「どういうことだ」
「チャンスは、それを活かせるかどうかが問われます。でも私が今日から動くのは——チャンスを活かすためではなく、始めるためです。今日が最初の日、というだけで」
ヴィルヘルムが少し黙った。職人が何かを考えるときの、静かな黙り方だった。
「……変わった考え方をする令嬢だな」
「そうですか」
「褒めている」とヴィルヘルムが言った。「悔しいが」
(この人は正直なときだけ「悔しいが」と付け加える。それが癖だとわかってきた)
*
ヴィルヘルムが帰った後、グレンがまた厨房に来た。今度は手に一枚の紙を持っていた。
「令嬢様」
「なんですか」
グレンが少し間を置いた。
「……注文が、三十件来ています」
私は手を止めた。
薄焼き菓子の生地を休ませている途中だった。午後の仕込みの計算をしていたところだった。三十件——という数字が、頭の中に入ってきた。
「三十件……」
「はい。今日だけで。銀の砂糖亭への問い合わせが多く、ヴィルヘルム殿が持参してくださいました」
私は紙を受け取った。丁寧な字で、名前と注文の内容が並んでいた。薄焼き菓子、石窯で焼いた焼き菓子の詰め合わせ、可可を使ったものを——という指定もあった。
「令嬢様、大丈夫ですか」とグレンが言った。心配しているのではなく、どう動くか確認している声だった。
「大丈夫です」と私は言った。「整理します」
壁際から「対応できるか」という声がした。
ファルク殿下だった。椅子に座ったまま、こちらを見ていた。紅茶は飲み終えていた。いつの間にか手を膝の上に置いていた。
「やります」と私は言った。
三十件の注文。一件ずつ何が必要か。どの材料をどれだけ仕込むか。どの順番で焼くか。銀の砂糖亭のヴィルヘルムの職人と手分けできるか。グレンと、今の厨房の体制で、どこまで対応できるか。
頭の中で計算が始まった。前世の加藤先輩の声が、どこかから聞こえた気がした。
——整理してから走れ。
「整理してから走れ、なので」
ファルク殿下が少し黙った。
「……誰かの言葉か」
「前世の先輩に教わった言葉です」と私は言った。「でも今日も、使えます」
ファルクが「そうか」と短く言った。それだけだった。でも、その「そうか」は、いつもより少しだけ重かった。
(加藤先輩の言葉が、今世でまた役に立った。先輩——ここまで来ましたよ)
私は紙をグレンに返した。
「グレン、今日からのスケジュールを出してください。材料の在庫と、ヴィルヘルムの店の職人が手伝えるかどうかも確認します。まず三十件の内訳を見てから、優先順位を決めます」
「はい」とグレンが答えた。てきぱきと動き出した。
石窯がまだ温かかった。
バターの香りが厨房に漂っていた。
私は作業台の前に立って、もう一度、手を動かし始めた。
三十件。始まりの数字だ。多いとも少ないとも言わない。ただ、一件ずつ、丁寧に仕上げる。それだけだ。
(令嬢が作るんじゃない——私が、作るんだ)
(その文脈は、いつか、ちゃんと届く)




