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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第四十三話 ファルクのもう一言

 夕方の厨房に、二人だけが残った。


 グレンは夕食の準備のために主厨房の方へ戻っていた。若い料理人たちも一緒に引き上げていた。私はこの厨房の片付けをしながら、もう少しだけ可可(カカオ)の新しいレシピのメモをまとめるつもりでいた。ファルク殿下は、いつも通り壁際の椅子に座っていた。


 外から光が差していた。


 午前中の光と夕方の光は質が違う。午前はまっすぐ白く差してくるが、夕方の光は金色に近くて、斜めに長く伸びる。厨房の石窯オーブンの側面に今日は夕方の光が当たっていて、鋳物の表面が少しだけ温かみのある色に見えた。


 私はメモを書きながら、今日の試作の結果を整理していた。可可(カカオ)とバターの比率を変えたガレットの、断面の記録。次に試す温度の範囲。エルナへ送る候補として残しておく品目。


 部屋が静かだった。


 ファルク殿下がお茶を飲む音と、私のペンが走る音と、遠くで主厨房の仕込みが始まる音だけが聞こえた。


「一つ、聞いていいか」


 ファルク殿下の声だった。


 私は顔を上げた。


 殿下は椅子に腰を下ろしたまま、こちらを見ていた。いつも通りの、静かな顔だった。何か特別に改まっているわけではなかった。でも声に、いつもより少しだけ重さがあった。


「どうぞ」と私は言った。


 ファルク殿下が少し間を置いた。一秒か、二秒か——殿下にしては短い間だった。


「婚約を——正式に、継続していいか」


 私の手が、止まった。


 (婚約を)


 ファルク殿下が続けた。「保留が終わったのは知っている。ライオネルから聞いた。でも——正式に言っていなかった。確認しないままにしていた」


「……それは」と私は言った。「私の台詞ではないですか」


 ファルク殿下が少し目を細めた。否定でも肯定でもない顔だった。


「どちらが先でもいい」と殿下が言った。「ただ、確認したかった」


 私はメモを机に置いた。


 (確認したかった)


 前世で、加藤先輩はそういう人だった。状況が曖昧なまま進めることを嫌がって、「一度整理してから確認する」という習慣があった。仕事でも、人との関係でも——あの人は確認することを怠らなかった。今世のファルク殿下も、同じだ。言葉が少ない分、言う言葉が重い。確認しないまま進む、ということをしない。


 私は少し考えた。


 考えるというより、整理した。今の自分がどこにいるか。今この厨房に何があるか。ライオネル殿下との会話と、ヴィルヘルムとの会話と、グレンの話が、順番に頭の中を通っていった。


 チームが広がっていった。可可(カカオ)の流通が動き始めた。菓子が北方に届こうとしている。その全部の真ん中に、私がいる。そしてこの厨房の椅子に、毎日この人がいる。


「チームなので」と私は言った。


 ファルク殿下が、わずかに目を細めた。また、とでも言いたそうな顔だった。


「……その言葉は、婚約の答えか」


「婚約の答えでもあります。チームに入っている人を途中で外す理由がないので」


「チームの構成員として、か」


「それだけではないですが」


 殿下が少し黙った。


 私は立ち上がった。作業台の前に立って、ファルク殿下の方を向いた。夕方の光が横から差していた。午前中の厨房と違う光だった。でも同じ場所で、同じ椅子に座っている人が、こちらを見ていた。



「——好きです、ファルク殿下」


 言った。


 昼間の厨房で、夕方の光の中で、顔を見て、言った。


 二十七話の夜と違う。あの夜は暗かった。廊下の端だった。どちらかというと、言葉が先に出て、自分でも少し驚いたような状況だった。今日は違う。整理した上で、顔を見て、言った。


 ファルク殿下が私を見ていた。三秒、止まった——食べたときとは違う種類の三秒だった。


「知っている」と殿下が言った。


「知っていても言いたかったので」


「……そうか」


 ファルク殿下が少し間を置いた。椅子の肘掛けに手を置いて、こちらをまっすぐに見たまま、言った。


「私も、同じだ」


 (またその言葉だ)


 前世でも今世でも、この人は「同じだ」と言う。第一話で「同じだ」と言った。前世の記憶が戻った夜に「同じだ」と言った。どこかで別の何かを食べて「同じだ」と言った。毎回、文脈が違う。でも毎回「同じだ」だ。


 (毎回、意味が増えている気がする)


 今の「同じだ」は、どういう意味か。好きだということが同じか。確認したかったということが同じか。ここにいることが同じか。


 たぶん、全部だ。


「殿下は」と私は言った。「毎回、『同じだ』と言いますね」


「そうか」


「飽きないですか」


「飽きない」とファルク殿下が言った。「その都度、違うことを言っている」


「……そうですね」


「君には、わかるか」


「わかるような気がします」


 ファルク殿下が、少し視線を外した。窓の方を見た。夕方の光が少し傾いて、石窯オーブンの上に細長い影を作っていた。


「婚約の答えは」と殿下が言った。


「継続します」と私は言った。「正式に」


「……そうか」


 それだけだった。


 それで十分だった。



 ファルク殿下が帰った後、私はもう少し厨房に残った。


 メモの続きを書くわけでもなく、材料を確認するわけでもなく——ただ、今日の厨房に少しいた。


 窓から差す光がだいぶ赤くなっていた。石窯オーブンはもう冷えかけていた。可可(カカオ)の香りが、薄く残っていた。


 (「私も、同じだ」)


 あの言葉が、厨房の空気の中にまだある気がした。言葉というより、声の重さが。前世で言えなかったことを今世で言えた夜があった。今日は、昼間の光の中で言えた。夜と昼では、同じ言葉でも少し違う。


 前世で最後に会社を出た日のことを、ときどき思い出す。「また明日」が次の日に来なかった日の、廊下の蛍光灯の白さを思い出す。あの廊下をもう一度歩いたとしても、加藤先輩はそこにいない。


 でも今日、厨房の椅子にいた。


 夕方の光の中で「同じだ」と言った。


 (まだ、言えていないことはある。でも言える場所にいる。言える時間が来る。毎日、そういう明日が来る)


 私はエプロンを外した。メモを畳んで、作業台を最後に一度確認して、厨房の扉を閉めた。


 明日もグレンが来る。ファルク殿下が来る。可可(カカオ)の仕込みが続く。


 いつも通りの明日が、また来る。


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