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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第四十二話 グレンの秘密

 グレンが改まった顔をするのは、珍しかった。


 珍しい、というのは正確ではないかもしれない。グレンは普段から表情が動きにくい人だ。でも「表情が少ない」のと「改まっている」のは別のことで、今日のグレンはあきらかに後者だった。


 朝の仕込みが一段落した頃だった。ファルク殿下がまだ来る前の、厨房が私とグレンだけの時間だった。グレンが大きな鍋を棚から下ろして、作業台に置いた。


「令嬢様」とグレンが言った。


「はい」


「一つ、お話があります」


 私は手を止めた。


 (グレンが、お話、と言う日が来た)


 グレンは日々の仕事の報告や確認は淀みなく話すが、自分のことを話す人ではない。「一つお話があります」という切り出し方は、少なくとも私がこの厨房に通い始めてから、一度もなかった。


「聞きます」と私は言った。


 グレンが鍋を取り出して、布でゆっくりと磨き始めた。


 (また鍋を磨いている)


 大事なことを言うとき、グレンは必ず何かを磨く。最初に気づいたのはいつだったか——ヴィルヘルムが返事を持ってきた日だったか、それより前だったか。とにかく、グレンの「鍋を磨く」は「本当のことを言う前の準備」だと、今の私には分かった。


「私が、この厨房に来た頃の話を少し」とグレンが言った。


「どうぞ」


「二十三年前になります。私が三十二のとき、王宮料理長の職を拝命しました」


「はい」


「料理の仕事は、それより十年ほど前から続けていました。修業をして、腕を磨いて、料理人として認められるまでに、それだけかかりました」


 グレンが鍋の内側を、丁寧に磨いた。布がゆっくり動いた。


「……私は、若い頃、別の道を考えていた時期があります」


「別の道」


「菓子職人に、なりたかったんです」


 私は声を出さなかった。出せなかった、という方が正確かもしれない。


 グレンが鍋から目を離さずに続けた。


「料理人として修業を始める前に、一年だけ菓子の工房で働いたことがあります。王都の外れにある、小さな工房でした。薄焼き菓子(クッキー)やパイ皮を専門にしているところで、職人が三人しかいなかった」


「……知りませんでした」


「申し上げていなかったので」


 グレンが布の向きを変えた。鍋が鈍く光り始めた。


「その工房が、一年で閉まりました。店主が病気で——続けられなくなって。私は次の仕事を探す必要があって、料理の方の口が先に見つかった。それで料理人になりました」


「菓子職人の口は」


「探しませんでした」とグレンが言った。静かな声だった。「正直に言えば、諦めたんだと思います。菓子の工房は料理の仕事より少ない。修業先を探すのも、一からやり直しになる。料理の方がすでに一年の経験があった。そちらの方が現実的だと、そう判断しました」


 (現実的に判断して、別の道に進んだ)


 前世でも、そういう選択をしたことがある。やりたかったことと、できることと、すべきことが重ならなくて——すべきことを選んだことが、何度もある。


「料理の仕事は好きです。今も好きです。王宮料理長という立場は、誇りを持って続けています」とグレンが言った。「でも菓子は——ずっと、心の端にありました。続けるかもしれなかった、もう一つの道として」


 グレンが初めて鍋から顔を上げて、私の方を見た。


「令嬢様が厨房に来たとき」とグレンが言った。


「はい」


「自分が諦めたものを——持っている人が来た、と思いました」


 私は何も言わなかった。


「令嬢様の最初の日を覚えています。恐る恐る、というよりは、真剣な顔で厨房に入ってきた。道具の使い方を確認して、材料の場所を聞いて、作業を始めた。道楽の人間の顔ではなかった。本気で菓子を作りに来た人間の顔でした」


「……そうでしたか」


「はい。だから手伝いたかった。令嬢様が作るものを、届けたかった。私が諦めた道を、令嬢様が行くなら——その隣で仕事がしたかった」


 グレンがまた鍋の方に視線を戻した。布が、ゆっくりと動いた。



 私はしばらく、何も言えなかった。


 感情の整理がつかないのではなく、感情が一度に来すぎた。驚きと、温かさと、申し訳なさと、それから——「知らなかった」という、少し遅れた後悔のような感覚が、順番に来た。


 (グレンがそういう人だったとは。二十三年前に諦めた道を持つ人が、私のすぐ隣で仕事をしていた)


「……グレンも、チームだったんですね」と私はようやく言った。


「最初から、です」とグレンが言った。


「知りませんでした」


「申し上げませんでしたから」


 グレンが鍋を台に置いた。また別の鍋を棚から取り出した。


 (この人は本当に、大事なことを鍋を磨きながら言う)


 私は作業台に手を置いた。今日の仕込みに戻ろうと思ったが、もう少しだけここにいたかった。


「一つ聞いていいですか」と私は言った。


「はい」


「菓子を作ることは、今も好きですか。自分で作ることが」


 グレンが少し間を置いた。


「好きです。今でも、時々夜中に一人で簡単なものを焼くことがあります。誰にも出しませんが」


「……それを知ってから、もっと早く言えばよかったと思っています」


「何をですか」


「一緒に作りましょう、と。グレンが作りたいものを。仕込みの合間でも、仕事が終わった後でも」


 グレンが手を止めた。


「……よろしいのですか」


「もともと、厨房は私のものではないのに、私が自分のものにしていたようなところがあります。グレンこそ、この厨房の人なのに」


「令嬢様、そういうことでは——」


「そういうことです」と私は言った。「次の月曜日の朝、早めに来てください。グレンが作りたいものを教えてもらって、一緒に作ります。私は材料を準備するので」


 グレンが再び手を止めた。少しの間、鍋と私の顔を交互に見た。


 それから静かに「……はい」と言った。



 昼過ぎ、ファルク殿下がいつも通り扉を開けて厨房に入ってきた。


「何を作っているんだ」


「今日はジンジャーの薄焼き菓子(クッキー)です。北方向けのレシピを、冬の保存を考えて組み直しています」


「ジンジャー」


「体が温まります。殿下もお一ついかがですか」


 ファルク殿下が椅子に座った。グレンが茶を出した。


 薄焼き菓子(クッキー)は薄く延ばして型で抜いてから焼いた。ジンジャーとシナモンを両方入れた生地は、焼いている間から厨房全体に香りが広がる。温かくてすこし刺激のある匂いで、これを嗅ぐと背中から温まる感覚があった。焼き上がりは縁がかりっとして、中心だけわずかに柔らかい。嚙むと、最初に香りが来て、後から甘さと辛みが重なって来る。


 ファルク殿下に皿を出した。殿下が一枚取って、口に入れた。


 三秒、止まった。


「……温かい」


石窯(オーブン)から出したばかりですので」


「味が、だ」


「ジンジャーが効いています。北方の冬に向いているかと思って」


 ファルク殿下がもう一枚取った。グレンが奥で小さく笑っているのが気配でわかった。


 (グレンが今日から少し変わった気がする)


 鍋を磨きながら話してくれた話が、まだ頭の中に温かく残っていた。二十三年前に諦めた道を、今もずっと心の端に持っていた人が——最初から、そこにいた。


 私は次の生地を計りながら、グレンの背中を見た。いつも通りの立ち方で、いつも通りの仕事をしていた。でも今日は少し、背筋が違う気がした。


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