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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第四十一話 ヴィルヘルムの本音

 月に一度の銀の砂糖亭は、私の中でいつの間にかひとつの「仕事の日」になっていた。


 王宮厨房の石窯オーブンとは火加減が違う。棚の道具も、作業台の広さも違う。でも同じ菓子を作っているはずなのに、銀の砂糖亭の厨房で作ると、少しだけ違う顔に仕上がる。それが面白くて、毎月来るたびに新しい発見がある。


 今日は可可(カカオ)を使ったガレットを試すつもりだった。バターをたっぷり折り込んで層を作り、可可(カカオ)の粉を生地に練り込む。焼くとさくさくと層が剥がれて、噛むたびに苦みと甘さが交互に来る。北方向けの試作としても使えないか、確認したかった。


 ヴィルヘルムは今日も、開口一番こちらの準備を確認してから、自分の仕事に入った。


「今日は何だ」


可可(カカオ)のガレットです。層を作りたくて」


「折り込みか。バターは」


「王都東の農家から、冬仕入れのものを」


「……ここの冬バターとどちらが向く」


「今日並べて確認しようと思っています」


 ヴィルヘルムが少し目を細めた。否定も肯定もない顔だった。でも私はもうその顔が「悪くない」の意味だと知っていた。



 二人で並んで作業する時間は、最初の頃より静かになっていた。


 最初の数回は、ヴィルヘルムが「なぜその手順か」「なぜその温度か」を聞いてきた。私は答えながら、自分でも「なぜそうしているか」を整理した。言語化することで、自分のやり方がより明確になった。前世でも、仕事の手順を後輩に説明するとき、自分が一番多くを学ぶということがあった。あれと同じ感覚だった。


 今日のヴィルヘルムは、しばらく黙って作業していた。


 バターを薄く延ばして、折り込んで、冷やして、また延ばす。この繰り返しの中に、層が生まれる。単純な工程に見えて、力の加え方と温度の管理が全てだ。


 可可(カカオ)の粉が入ると生地がわずかに重くなる。その分、折り込む力を少し変えないといけない。


「力を抜け」とヴィルヘルムが横から言った。「今のはバターを潰している」


「……そうですね」


 私は力を緩めた。ヴィルヘルムが自分の生地を延ばしながら、横目でこちらを確認した。口を挟むだけで手は止めない。それがこの人の教え方だった。


 可可(カカオ)の香りが、じわじわと厨房に広がってきた。温めた可可(カカオ)粉の、丸みのある苦い匂いだ。バターの甘さと混ざって、もわりと鼻の奥に届く。これを嗅ぐと、作業している手に力が入る。今日も焼き上がりが楽しみになる匂いだった。


「一つ、聞いていいですか」


 私は作業台を見ながら言った。ヴィルヘルムが「何だ」と答えた。


「なぜ最初に声をかけたんですか」


 少し間があった。ヴィルヘルムの手が止まった——と思ったが、一拍置いただけで、すぐにまた動き始めた。


「晩餐会のマカロンを食べた」とヴィルヘルムが言った。「外交筋の客から分けてもらった。食べて——」


 ヴィルヘルムが少し間を置いた。


「驚いた」


「……驚いた、ですか」


「ああ。あの席で、あの菓子が出た。誰が作ったかを知りたかった」


「なぜですか」


 ヴィルヘルムが生地をひっくり返した。大きな手が、器用に生地を扱っていた。


「あのマカロンは、国の話をする席に出るために作られていた。菓子がそういう仕事をしている——それが、面白かった」


「面白かった」


「職人として、だ。令嬢かどうかは関係ない。あの菓子を作った人間がどういう人間か、それだけが知りたかった」


 (この人は最初から、そういう人だったのか)


 最初の日、「令嬢の道楽に付き合う気はない」と言った人が。サブレを食べて三秒止まった人が。一週間考えてから戻ってきた人が——最初から、「菓子を作った人間」として私を見ていた。


 令嬢である前に、作り手として。


 (前世で、自分のことを「阿爾珂那アルカーナ商事の阿部さんの部下」ではなく「この企画書を作った人間」として見てくれた人が、一人いた)


 その人のことを思い出した。加藤先輩ではない。もっと前の、研修時代の先輩だ。「お前の名前で仕事をしろ」と言い続けた人だった。あの人の言葉がなければ、前世の私は「会社の一員」で終わっていたかもしれない。


 ヴィルヘルムは、別の角度から同じことを言っている。


「ありがとうございます」と私は言った。


「礼を言われることではない」とヴィルヘルムが言った。「私が知りたかっただけだ」



 ガレットを石窯オーブンに入れて、待つ時間になった。


 ヴィルヘルムが作業台を片付けながら、背中を向けたまま言った。


「今日の出来はどうだ、自分で」


「バターの折り込みが、途中で一度甘くなりました。あそこは修正できたと思いますが、断面を見るまで確信が持てません」


「どこだ」


「三回目の折り込みのとき、右端が少し」


「見ていた」とヴィルヘルムが言った。「修正は間に合っていた。ただ——その後の手が、気にしすぎて固くなった」


「……そうですか」


「気になると次の工程に影響する。ミスより、ミスに引っ張られることの方が問題になることが多い」


 (それは、前世でも言われた)


 加藤先輩に、ではない。もっと若い頃の、失敗した後の私に、誰かが言った言葉だった。誰が言ったかは覚えていないが、言葉だけが残っている。前世の記憶のかけらはそういうものが多い——誰が言ったかより、何を言ったかが残っている。


 石窯オーブンの中から、可可(カカオ)の香りがさらに濃くなって漏れてきた。焼けている匂いだ。バターが溶けて層の隙間に広がり、可可(カカオ)が熱で香りを開かせていく匂い。焼き始めてすぐの、まだ形が確定する前の、可能性の塊のような匂い。


「焼けるまで、もう少しですね」


「ああ」


 ヴィルヘルムが椅子に座った。私も向かいの椅子に腰を下ろした。


 ヴィルヘルムの店の職人が二人、奥の厨房で作業している音がしていた。銀の砂糖亭には常時三人の職人がいる。ヴィルヘルムが育てた人間たちだ。月に一度この場に来るたびに、その人たちの仕事ぶりが少し見える。


「一つ、聞いていいですか」とヴィルヘルムが言った。


 今度は私が「どうぞ」と答える番だった。


「北方に出す菓子——一緒に考えてもいいか。私の店の職人も交えて」


 私は少し止まった。


「銀の砂糖亭の職人を、ですか」


「うちの人間は、私より保存と輸送に詳しい。遠くに菓子を送る経験がある。北方まで品質を保って届けるには、そういう知識がいる」


「……それは」


「嫌なら言え」とヴィルヘルムが言った。ぶっきらぼうだったが、圧力ではなかった。「ただ、力になれると思った」


 私は生地が焼ける音を聞いた。石窯オーブンの中で、層がふくらんでいる音がした。


「……喜んで」と私は言った。「ぜひ、一緒に考えてください」


 ヴィルヘルムが短くうなずいた。それだけだった。


 (チームが、また一人増えた)


 いや、一人ではなく、銀の砂糖亭の職人たちを含めれば、もっと多い。でも核心はヴィルヘルム自身がチームに入ってくれたことだ。「売ってほしい」から始まった関係が、「一緒に考えたい」になった。


 石窯オーブンの扉を開けると、可可(カカオ)のガレットが、きつね色に焼けていた。


 表面がぱりっとして、層がくっきりと見えた。持ち上げると、軽くて、でも密度がある。かじると、さくさくという小さな音と一緒に、可可(カカオ)の苦みが来て、その後からバターのコクが追いかけてきた。層が口の中で一枚ずつ解けていく感覚がある。最後に、ほんの少しの塩が輪郭を整える。


 ヴィルヘルムが一切れ取って、食べた。


 三秒、止まった。


 (やはり止まるのか、この人も)


 ヴィルヘルムがもう一切れ取った。黙って食べた。


可可(カカオ)の比率を少し下げると、北方の子供向けにも出せる」と言った。


「そうですね。大人向けと子供向けで二種類作ることも考えています」


「一緒に考えよう」


「はい」


 厨房の窓の外で、王都の夕方の光が、石畳の上で伸び始めていた。


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