第四十話 カカオが動き始める
ライオネル殿下から使いが来たのは、昼過ぎのことだった。
私はちょうど作業台に向かって、可可の生地を練っていた。北方に送る試作品の三回目だ。先月エルナから手紙が届いて、「以前のものより滑らかな食感が合うかもしれない」という感想をもらっていた。バターの比率を変えて、粉の種類も少し変えて、今日は低温で長く焼くつもりでいた。
グレンが扉のところで小声で話して、戻ってきた。
「ライオネル殿下が、令嬢様にお話がある、と」
「今ですか」
「できるだけ早いうちに、とのことです」
私は手の可可生地を一度まとめて布をかけ、手を拭いた。
「何の話か、聞きましたか」
「可可に関わることだと」
(可可)
私の手が、一瞬止まった。可可の流通の件なら、北方視察から戻ってすでに二ヶ月近くが経つ。ライオネル殿下が動いているとは聞いていたが、具体的な話が来るのは、まだもう少し先だと思っていた。
「行きます」と私は言った。「場所は」
「執務室の小会議室、とのことです」
私は布をかけた生地に目をやった。一時間くらいは持つ。それまでに戻れれば、今日中に焼けるはずだ。
*
ライオネル殿下は、先に部屋にいた。
書類が数枚、机の上に並んでいた。いつもより少ない。まとめてきた話を持ってきた人間の並べ方だった。
「来てもらって悪かったな」とライオネル殿下が言った。
「いいえ。ちょうど手が空くところでした」
嘘ではない。生地を練りながらずっと「バターは少し足りるか、足りないか」を考えていたが、その作業は中断できた。
「座ってくれ」
私は椅子に座った。ライオネル殿下が書類の一枚を手に取った。
「シュタイン侯爵家との交渉が、正式に始まった」
私の背筋が、すっと伸びた。
「可可の北方流通権の件、ですか」
「ああ。先週、侯爵家の代理人と最初の話し合いを行った。条件はまだ詰めていないが——方向性は出た。北方から王都への可可流通を、段階的に整備する。まず試験的に小量から始めて、需要を確認した上で規模を広げる。そういう形で話が進んでいる」
ライオネル殿下が書類を机に置いた。
「これが動いたのは、君が北方に行ったからだ」
「いいえ、ライオネル殿下が——」
「条件を整えたのは私だ」とライオネル殿下が言った。静かだが、遮る力があった。「動かしたのは君の菓子だ。エルナが動いたのは、君の可可の焼き菓子を食べたからだ。シュタイン侯爵家が話を聞く気になったのは、エルナが動いたからだ。因果の糸を辿れば、全部君のところに戻ってくる」
私は何も言わなかった。何か言いかけて——止まった。
(因果の糸が、全部ここに戻ってくる)
前世で企画書を作って、部署を動かして、案件を受注したことがある。でもそれは会社の名前で動いたことで、「阿爾珂那商事の案件」だった。今起きていることは——私の名前で動いている。私が厨房で作った可可の菓子から始まって、エルナが動いて、シュタイン侯爵家が動いて、今、国の規模の話になっている。
少し、眩しいような感覚があった。
「君が動かしたことだ」とライオネル殿下が続けた。「だから責任を持って関われ。これは菓子店一軒の話では、もうない」
「……わかっています」と私は言った。「最初の北方訪問から、ずっとそう思っていました」
「ではもう一つ聞く」
ライオネル殿下が、今度はゆっくりと私を見た。政治家の目だった。状況を計算している目でも、相手を試している目でもない——こちらを、人間として見ている目だった。
「どこまで関わればいいですか」と私は先に聞いた。
「それを聞こうとしていたが——少し違う」とライオネル殿下が言った。「どこまで関わればいいか、ではない。どこまでやりたいかを聞いている」
私は口を閉じた。
(どこまでやりたいか)
前世の加藤先輩——今世のファルク殿下——は、仕事の話をするときいつもそういう聞き方をした。「どこまでやればいいですか」と聞くと、「やりたいことと、やれることと、やるべきことを分けて考えろ」と言われた。先輩が聞いていたのも、「やりたいこと」の方だった。
「どこまでやりたいか」
私は少し考えた。可可の流通が国規模で動く。北方から王都へ届く。菓子店に並ぶ。誰かが手に取る。食べる。「おいしい」と言う。その先に、また次の誰かがいる。
その全部の始まりが、厨房で私が作った菓子だ。
「全部、です」と私は言った。
ライオネル殿下が、少し目を細めた。「全部、とは」
「流通の整備から、菓子のレシピの監修から、北方の料理人への伝達から——全部です。関われるなら、全部に関わりたい」
少し間があった。
ライオネル殿下が書類を一枚手に取って、何かに目を通した。
「……君には、侯爵家との窓口を任せる。非公式な形で構わない。条件の詰めには私が入るが、菓子に関わる部分の判断は君に権限を渡す」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。仕事だ」
ライオネル殿下が立ち上がった。私も立ち上がった。
*
廊下に出たところで、ライオネル殿下が歩きながら言った。
「一つ、余計なことを言っていいか」
「余計なこと、ですか」
「弟についての話だ」
私は半歩遅れた。ライオネル殿下が歩調を緩めた。廊下を二人で並んで歩く格好になった。
「……どういうことですか」
「弟が、毎日厨房に通っているらしいな」とライオネル殿下が言った。事実確認をする口調だった。
「はい。厨房の椅子に座って、お茶を飲んでいます。主にグレンが喜んでいます」
「主に」
「グレンが、です」
「……君も、ではないのか」
私は黙った。
(この人は、こういうことを突いてくる)
前世の上司の中に、一人だけ「言いにくいことを一番いい角度から聞いてくる人」がいた。ライオネル殿下は、少しその人に似ていた。政治家の言葉遣いで、でも確かにこちらの核心を突く。
「……グレンも、私も、です」と私は正直に言った。
ライオネル殿下がわずかに口元を緩めた。
「弟は幸せ者だな」
(この人が——それを言うとは思っていなかった)
ライオネル殿下は普段、人のことを「幸せ者」などとは言わない。政治と状況と打算を語る人だ。少なくとも私の前ではずっとそうだった。
「……そうですね」と私は言った。
(私も、そう思っている)
今世でまだ言えていないことがある。でも——ライオネル殿下に言われたこの言葉は、今日中に心の中に収めておいてもいい気がした。
廊下の突き当たりで、ライオネル殿下は執務棟の方に折れた。私は厨房の方へ戻った。
石窯が待っている。布をかけた可可生地が待っている。
でも今日は、生地を焼く前にもう少しだけ、さっきの会話を頭の中に置いておくことにした。




