第三十九話 マルティナの再来
銀の砂糖亭に薄焼き菓子が並んでから、十日ほどが経った。
グレンが「週に一度の納品が追いつかなくなりそうです」と報告してきた日、ヴィルヘルムからも「もう少し量を増やせるか」という打診が来た。想定より早い手応えだった。
(想定より、というのは、いつも前後どちらかに外れる)
前世の上司が「計画は外れることを前提にしろ。外れ方の方向を読んでおけ」と言っていた。今回の外れ方はよい方向だったが、それでも対応が必要だ。週一回の量を増やすには、材料の仕入れを調整する必要があった。王都の東の農家との取引量、南方の岩塩の定期発注——グレンと一緒に計算し直した。
(整理してから走れ、だ)
菓子を作ることと、菓子を届け続けることは、別の仕事だ。どちらも必要で、どちらも手を抜けない。
そういう朝の作業をしているとき、グレンが「令嬢様、客人がいらっしゃっています」と言ってきた。
「どなたですか」
「マルティナ・ベルガー伯爵令嬢、です」
私は少し手を止めた。
(またマルティナ嬢が)
前回は「お考え直しになっては」という話で来た。今度は——何の話だろう。正直なところ、また同じ話なら少し困る。ファルク殿下の一文が出回ってから、その話は一応落ち着いていたはずだった。
「どうぞとお伝えしてください」と私は言った。
*
マルティナは今日も、薄い訪問着を丁寧に着ていた。茶色の髪が前回と同じ結い方で、表情は——前回より、少し固かった。固い、というより、緊張、の方が近いかもしれない。
使命感ではなく、決心の固さだった。
「先日はお時間をいただきありがとうございました」とマルティナが言った。
「いいえ。今日はどういったご用件で」
マルティナが少し間を置いた。
「……実は」と、言いかけた。また止まった。もう一度「実は」と言って、今度は続けた。
「先日のお話の後、銀の砂糖亭に行きまして」
「……そうですか」
「薄焼き菓子を、買いました」
私は表情を動かさなかった。でも、胸の中で何かが少し跳ねた。
「……ありがとうございます」と私は言った。
マルティナが「おいしかったです」と言った。
すぐに続けた。「認めたくないのですが——認めざるを得ないので、来ました」と。
(この人は、本当に正直な人だ)
前回と同じことを思った。悪意がない人間は、認めることも、素直だ。
「お口に合ってよかったです」
「……口に合った、という言葉では足りません」とマルティナが言った。少し険しい顔だった。でも険しいのは、私への険しさではなく——おそらく自分への険しさだった。「あれほどのものが作れる方に、お考え直しになっては、などと申し上げてしまいました。恥ずかしい話です」
「社交界の常識として言ってくださったことは、理解しています」
「それでも」とマルティナが言った。「食べる前に言うべきではありませんでした」
私はしばらく黙った。
謝罪の言葉は、受け取り方を間違えると相手を傷つける。マルティナは謝りに来たわけではなく——認めに来た、という方が正確だと思った。その違いを、ちゃんと受け取りたかった。
「来てくださって、よかったです」と私は言った。
マルティナが少し、顔を上げた。
「一つ、教えていただけますか」とマルティナが言った。「……どうして菓子を作るんですか」
*
その問いが、部屋の中に落ちた。
今まで、この問いに正直に答えたことがなかった。前世でも今世でも——。
前世では「趣味として作っています」と答えた。職場で菓子の話をするとき、特別なものとして扱われるのが苦手で、軽く流していた。
今世では「フォルカー家の方々に食べていただくために」と言ったこともある。「証明のために」と思っていた時期もあった。「北方外交のために」という目的があった時期もあった。
でも今、マルティナがこの問いを出して——私は少し考えた。
本当のことを言っていいか、ではなく。本当のことを、ちゃんと言えるか、という確認だった。
「好きだから、です」と私は言った。
マルティナが少し固まった。
「婚約のためでも、証明のためでもなく——ただ、好きだから」
言葉にしてみると、驚くほど単純だった。でも単純なものほど、たどり着くのに時間がかかる。前世から今世にかけて、ずいぶん遠回りして——やっと、この四文字に戻ってきた気がした。
「ただ、好きだから」
マルティナがもう一度、固まった。三秒——とまではいかないが、確かに止まった。
「……そうですか」とマルティナが言った。静かな声だった。
少しの沈黙があった。
「実は、もう一枚持ってきました」とマルティナが言いながら、小さな紙包みを取り出した。「銀の砂糖亭で、もう一枚買って——お茶をいただきながらと思って」
「それはよかったです。ちょうどお茶を出そうと思っていましたから」
グレンがすかさず動いた。いつ準備していたのか、きれいな茶器と茶菓子が出てきた。
マルティナが紙包みを開いた。薄焼き菓子が一枚、出てきた。昨日の朝に焼いたものだ——バターの香りがほんのりと残っている。ほろほろとした表面が、紙の上で白く光を受けていた。
マルティナが一口かじった。
止まった。
今度は、確かに三秒だった。
カップを持ちかけた手が、途中で止まっている。口元で、かみしめるように止まっている。菓子の声を聞いているような止まり方だった。
(よかった)
(来てくれた日に、ちゃんとおいしいと思ってもらえた)
「……これは」とマルティナが言った。「食べるたびに、驚きます」
「それを聞けてよかったです」
「一口目と、二口目で、少し変わります。塩の感じが、後から来る」
「気づいてくださいましたか。塩のタイミングをずらすために、粒の大きさを少し変えています」
「……そういう工夫があるんですね」
「職人の技というほどではないですが、好きだから考えてしまって」
マルティナが、もう一口食べた。今度はゆっくり、確かめるように。
「すごいです」とマルティナが小さく言った。褒めるというより、認めた、という声だった。
*
お茶を飲みながら、しばらく話した。
マルティナは社交界の空気についての話をした。ファルク殿下の一文が出回ってから、反対の声が減ったこと。でも完全には消えていないこと。
「カルドア令嬢のことが理解されるには、もう少し時間がかかるかもしれません」とマルティナが言った。「ただ——私は、理解しました」
「ありがとうございます」
「食べれば、わかります」とマルティナが言った。「あの菓子を食べて、反対する理由を言える人は——正直なところ、いないと思います」
(この人は、面白い言い方をする)
「反対する理由を言える人がいない」は「全員が賛成する」とは違う。でもそれが、マルティナの誠実さだと思った。
帰り際、マルティナが立ち上がりながら言った。
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「また、買いに来てもいいですか」
私は少し、驚いた。
最初に来たときの「お考え直しになっては」という声と、今日の「また、買いに来てもいいですか」が、同じ人から出たとは思えない変化だった。でも——これが、菓子の力なのかもしれない。言葉では動かなかったものが、一口で動く。
「もちろんです」と私は言った。「銀の砂糖亭に週一度、届けています。いつでも」
「……ありがとうございます」
マルティナが扉を閉めた。
*
グレンが「令嬢様」と言った。
「なんですか」
「……あのマルティナ様が、また買いに来ると」
「そうですね」
「よかったです」とグレンが言った。
それから奥の棚に向かって、鍋を一つ取り出した。布を手に持って、磨き始めた。
(また磨く)
(でも今日のこれは——嬉しいから磨いている気がする)
私はグレンの背中を見ながら、小さく笑った。
ファルク殿下が「どうだった」と短く聞いた。椅子に座ったまま、お茶を飲みながら、一部始終を聞いていた顔だった。
「マルティナ嬢が認めてくれました」と私は言った。
「菓子で、か」
「菓子で、です」
ファルク殿下が少し間を置いた。
「……それでいい」
「そう思います」
「言葉より菓子の方が、この場合は確かだ」
「ファルク殿下が言うと、不思議と説得力があります」
ファルク殿下が少しだけ、眉を上げた。それ以上は何も言わなかった。紅茶を一口飲んで、また窓の方を見た。
グレンが鍋を磨く音が続いていた。王都の午後の光が窓から差して、作業台に長い影を作っていた。
明日も、週一度の納品のために菓子を焼く。材料の計算を今夜中に終わらせる。来月はヴィルヘルムの店で一緒に作る日がある。
やることは山ほどある。
でも今日の「ただ好きだから、です」という言葉が、頭の中にまだ残っていた。
自分で言って、自分で納得した言葉だった。前世から持ち越した問いに、今世でやっと答えが出た——という感覚だった。
(好きだから作る。それだけでよかった)
(ずっとそれだけだったのに、遠回りしたな)
グレンの鍋を磨く音が、厨房に静かに満ちていた。




