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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第三十九話 マルティナの再来

 銀の砂糖亭に薄焼き菓子(クッキー)が並んでから、十日ほどが経った。


 グレンが「週に一度の納品が追いつかなくなりそうです」と報告してきた日、ヴィルヘルムからも「もう少し量を増やせるか」という打診が来た。想定より早い手応えだった。


 (想定より、というのは、いつも前後どちらかに外れる)


 前世の上司が「計画は外れることを前提にしろ。外れ方の方向を読んでおけ」と言っていた。今回の外れ方はよい方向だったが、それでも対応が必要だ。週一回の量を増やすには、材料の仕入れを調整する必要があった。王都の東の農家との取引量、南方の岩塩の定期発注——グレンと一緒に計算し直した。


 (整理してから走れ、だ)


 菓子を作ることと、菓子を届け続けることは、別の仕事だ。どちらも必要で、どちらも手を抜けない。


 そういう朝の作業をしているとき、グレンが「令嬢様、客人がいらっしゃっています」と言ってきた。


「どなたですか」


「マルティナ・ベルガー伯爵令嬢、です」


 私は少し手を止めた。


 (またマルティナ嬢が)


 前回は「お考え直しになっては」という話で来た。今度は——何の話だろう。正直なところ、また同じ話なら少し困る。ファルク殿下の一文が出回ってから、その話は一応落ち着いていたはずだった。


「どうぞとお伝えしてください」と私は言った。



 マルティナは今日も、薄い訪問着を丁寧に着ていた。茶色の髪が前回と同じ結い方で、表情は——前回より、少し固かった。固い、というより、緊張、の方が近いかもしれない。


 使命感ではなく、決心の固さだった。


 「先日はお時間をいただきありがとうございました」とマルティナが言った。


「いいえ。今日はどういったご用件で」


 マルティナが少し間を置いた。


「……実は」と、言いかけた。また止まった。もう一度「実は」と言って、今度は続けた。


「先日のお話の後、銀の砂糖亭に行きまして」


「……そうですか」


薄焼き菓子(クッキー)を、買いました」


 私は表情を動かさなかった。でも、胸の中で何かが少し跳ねた。


「……ありがとうございます」と私は言った。


 マルティナが「おいしかったです」と言った。


 すぐに続けた。「認めたくないのですが——認めざるを得ないので、来ました」と。


 (この人は、本当に正直な人だ)


 前回と同じことを思った。悪意がない人間は、認めることも、素直だ。


「お口に合ってよかったです」


「……口に合った、という言葉では足りません」とマルティナが言った。少し険しい顔だった。でも険しいのは、私への険しさではなく——おそらく自分への険しさだった。「あれほどのものが作れる方に、お考え直しになっては、などと申し上げてしまいました。恥ずかしい話です」


「社交界の常識として言ってくださったことは、理解しています」


「それでも」とマルティナが言った。「食べる前に言うべきではありませんでした」


 私はしばらく黙った。


 謝罪の言葉は、受け取り方を間違えると相手を傷つける。マルティナは謝りに来たわけではなく——認めに来た、という方が正確だと思った。その違いを、ちゃんと受け取りたかった。


「来てくださって、よかったです」と私は言った。


 マルティナが少し、顔を上げた。


「一つ、教えていただけますか」とマルティナが言った。「……どうして菓子を作るんですか」



 その問いが、部屋の中に落ちた。


 今まで、この問いに正直に答えたことがなかった。前世でも今世でも——。


 前世では「趣味として作っています」と答えた。職場で菓子の話をするとき、特別なものとして扱われるのが苦手で、軽く流していた。


 今世では「フォルカー家の方々に食べていただくために」と言ったこともある。「証明のために」と思っていた時期もあった。「北方外交のために」という目的があった時期もあった。


 でも今、マルティナがこの問いを出して——私は少し考えた。


 本当のことを言っていいか、ではなく。本当のことを、ちゃんと言えるか、という確認だった。


「好きだから、です」と私は言った。


 マルティナが少し固まった。


「婚約のためでも、証明のためでもなく——ただ、好きだから」


 言葉にしてみると、驚くほど単純だった。でも単純なものほど、たどり着くのに時間がかかる。前世から今世にかけて、ずいぶん遠回りして——やっと、この四文字に戻ってきた気がした。


「ただ、好きだから」


 マルティナがもう一度、固まった。三秒——とまではいかないが、確かに止まった。


「……そうですか」とマルティナが言った。静かな声だった。


 少しの沈黙があった。


「実は、もう一枚持ってきました」とマルティナが言いながら、小さな紙包みを取り出した。「銀の砂糖亭で、もう一枚買って——お茶をいただきながらと思って」


「それはよかったです。ちょうどお茶を出そうと思っていましたから」


 グレンがすかさず動いた。いつ準備していたのか、きれいな茶器と茶菓子が出てきた。


 マルティナが紙包みを開いた。薄焼き菓子(クッキー)が一枚、出てきた。昨日の朝に焼いたものだ——バターの香りがほんのりと残っている。ほろほろとした表面が、紙の上で白く光を受けていた。


 マルティナが一口かじった。


 止まった。


 今度は、確かに三秒だった。


 カップを持ちかけた手が、途中で止まっている。口元で、かみしめるように止まっている。菓子の声を聞いているような止まり方だった。


 (よかった)


 (来てくれた日に、ちゃんとおいしいと思ってもらえた)


 「……これは」とマルティナが言った。「食べるたびに、驚きます」


「それを聞けてよかったです」


「一口目と、二口目で、少し変わります。塩の感じが、後から来る」


「気づいてくださいましたか。塩のタイミングをずらすために、粒の大きさを少し変えています」


「……そういう工夫があるんですね」


「職人の技というほどではないですが、好きだから考えてしまって」


 マルティナが、もう一口食べた。今度はゆっくり、確かめるように。


「すごいです」とマルティナが小さく言った。褒めるというより、認めた、という声だった。



 お茶を飲みながら、しばらく話した。


 マルティナは社交界の空気についての話をした。ファルク殿下の一文が出回ってから、反対の声が減ったこと。でも完全には消えていないこと。


「カルドア令嬢のことが理解されるには、もう少し時間がかかるかもしれません」とマルティナが言った。「ただ——私は、理解しました」


「ありがとうございます」


「食べれば、わかります」とマルティナが言った。「あの菓子を食べて、反対する理由を言える人は——正直なところ、いないと思います」


 (この人は、面白い言い方をする)


 「反対する理由を言える人がいない」は「全員が賛成する」とは違う。でもそれが、マルティナの誠実さだと思った。


 帰り際、マルティナが立ち上がりながら言った。


「一つ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「また、買いに来てもいいですか」


 私は少し、驚いた。


 最初に来たときの「お考え直しになっては」という声と、今日の「また、買いに来てもいいですか」が、同じ人から出たとは思えない変化だった。でも——これが、菓子の力なのかもしれない。言葉では動かなかったものが、一口で動く。


「もちろんです」と私は言った。「銀の砂糖亭に週一度、届けています。いつでも」


「……ありがとうございます」


 マルティナが扉を閉めた。



 グレンが「令嬢様」と言った。


「なんですか」


「……あのマルティナ様が、また買いに来ると」


「そうですね」


「よかったです」とグレンが言った。


 それから奥の棚に向かって、鍋を一つ取り出した。布を手に持って、磨き始めた。


 (また磨く)


 (でも今日のこれは——嬉しいから磨いている気がする)


 私はグレンの背中を見ながら、小さく笑った。


 ファルク殿下が「どうだった」と短く聞いた。椅子に座ったまま、お茶を飲みながら、一部始終を聞いていた顔だった。


「マルティナ嬢が認めてくれました」と私は言った。


「菓子で、か」


「菓子で、です」


 ファルク殿下が少し間を置いた。


「……それでいい」


「そう思います」


「言葉より菓子の方が、この場合は確かだ」


「ファルク殿下が言うと、不思議と説得力があります」


 ファルク殿下が少しだけ、眉を上げた。それ以上は何も言わなかった。紅茶を一口飲んで、また窓の方を見た。


 グレンが鍋を磨く音が続いていた。王都の午後の光が窓から差して、作業台に長い影を作っていた。


 明日も、週一度の納品のために菓子を焼く。材料の計算を今夜中に終わらせる。来月はヴィルヘルムの店で一緒に作る日がある。


 やることは山ほどある。


 でも今日の「ただ好きだから、です」という言葉が、頭の中にまだ残っていた。


 自分で言って、自分で納得した言葉だった。前世から持ち越した問いに、今世でやっと答えが出た——という感覚だった。


 (好きだから作る。それだけでよかった)


 (ずっとそれだけだったのに、遠回りしたな)


 グレンの鍋を磨く音が、厨房に静かに満ちていた。


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