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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第三十八話 銀の砂糖亭、初日

 その日の朝、私は夜明け前から厨房に入っていた。


 冬の暗さの中で、石窯オーブンに火を入れた。薪が爆ぜる音がして、火口の赤い光が厨房の壁に揺れた。バターを計量台に出した。王都の東の農家から届いたもので、手のひらにのせると冷たく重い。今の季節は脂肪分が多く、焼いたときの香りが違う。このバターで作ると、焼き上がりの表面にうすく艶が出る。


 塩のサブレを焼いた。


 分量は決まっている。バター、薄力粉、砂糖、塩——シンプルな配合だ。シンプルなものほど、誤魔化しが利かない。生地の温度、捏ねる力、休ませる時間——全部が最後の一枚に出る。


 二十分後に石窯オーブンから取り出したとき、厨房にバターと塩の香りが満ちた。焼き立ての薄焼き菓子(クッキー)は、端がわずかに色づいて、中心はまだほろほろと柔らかい。この段階で一枚手に取ると、指先からほろりと崩れる。そのときの砂のような、でも砂より上等な口当たりが——この菓子の真骨頂だった。


 グレンが「令嬢様、お早いですね」と言いながら入ってきた。


「今日の朝だから」と私は言った。


 グレンが少し微笑んだ。「わかっています」


 ヴィルヘルムの職人が受け取りに来るのは、夕方だ。でも今日は特別な日で、グレンも私も、それをわかって早く来ていた。



 夕方、箱に詰めた薄焼き菓子(クッキー)をヴィルヘルムの職人に渡した。


 きちんと梱包された木箱が、馬車に積まれていくのを見送りながら、私は一度だけ、深く息を吸った。


 (行った)


 (私の菓子が、外へ行った)


 感覚が、思ったより大きかった。王宮の厨房から出て、王都の通りへ出て、銀の砂糖亭のショーケースへ——という道筋が、頭の中に見えた気がした。



 翌朝。


 銀の砂糖亭が開店するのは、朝の九つ時だとグレンに聞いていた。


 私は八つ半に、馬車を一台使って王都の目抜き通りに向かった。


 一人で、と言いたかったが——馬車の中にすでに先客がいた。


「……どうしてここにいるんですか」と私は言った。


「馬車に乗っていた」とファルク殿下が言った。


「なぜ」


「向かうと思った」


 (この人は、どうしてこういう読み方をするんだろう)


 私は少し考えてから「一緒に来るんですか」と聞いた。


「邪魔になるなら降りる」


「……邪魔にはなりません」


 ファルク殿下が小さく頷いた。それ以上は何も言わなかった。馬車が動き出して、二人ともしばらく黙っていた。


 王宮から目抜き通りまで、馬車で四半刻ほどだ。窓の外を石畳の道が流れていく。朝の王都は人の動きが早い。荷車が行き来して、商店が次々と扉を開けていた。


 銀の砂糖亭の手前で、馬車を止めてもらった。


「通りから見ます」と私はグレンに——ではなく、馭者に告げて、馬車を降りた。



 「銀の砂糖亭」は、目抜き通りの石造りの建物の一階にあった。


 白い木の看板に、金文字で店名が書かれている。ショーウィンドウの幅は広く、通りから中が見えるようになっていた。五十年以上の老舗らしく、建物に貫禄があった。石の壁が冬の朝の光を受けて、落ち着いた色に光っていた。


 私は通りの向かい側に立って、窓を見た。


 ショーウィンドウの中に、ケースが並んでいた。ヴィルヘルムの店の定番菓子——丁寧に層を作ったパイ、きれいな球形のトリュフ、薄く焼いた焦がし砂糖のプレート。どれも、腕のある職人の仕事だとわかる完成度だった。


 そしてその端に。


 小さな木製のトレーに、あの薄焼き菓子(クッキー)が並んでいた。


 隣に、白い小さな札があった。


 遠くて細かい字は読めなかったが——近づかなくても、何が書いてあるかはわかった。


「セシル・カルドア作」と書いてある。私はそれを確信していた。


 (ある)


 ただそれだけを思った。


 人通りのある王都の朝の通りで、私の菓子が、私の名前のついた札とともに、ショーケースに並んでいる。


 目が、少し熱くなった。泣くほどではない。でも、何か込み上げるものがあった。


 前世で企画書が通って、それが世の中に出たときの感覚——あれに少し似ていた。でも全然違った。あの頃の感覚を引っ張り出してみると、確かに似た温度があった。何かが世界に出た、という感覚。でも——


 (あれは会社の仕事だった)


 企画書は私が作ったが、会社の名前で出た。上司の名前が先に来て、チームの成果として処理された。私の名前は書類の隅に小さく入っていた。


 (これは——私の菓子だ)


 「セシル・カルドア作」と書かれた札。前世で一度も持てなかった手応えが、今この瞬間、王都の朝の通りで、ショーケースの向こう側にあった。


「あの菓子か」


 隣で声がして、私は少し驚いた。


 ファルク殿下が、並んで通りに立っていた。こちらも同じくショーウィンドウを見ていた。


「……そうです」


「遠くてよく見えないが」


「見えなくても、わかります」


 ファルク殿下が少し黙った。


「見に来たんですか」と私は言った。


「ついてきた」


「それは知っています。でも——なぜ」


 ファルク殿下がこちらを向かずに、ショーウィンドウを見たまま言った。


「ただ見ていたかった」


 (この人は、たまに、こういう言い方をする)


 私は正面を向いたまま、少し間を置いた。


「……ありがとうございます」


「礼は要らない」


「でも、言いたいので」


 ファルク殿下が少しだけ、私の方に視線を移した。三秒、止まった。それから正面に戻った。



 開店してすぐ、客が来た。


 最初の一人は四十代くらいの女性だった。買い物帰りらしく、籠を提げていた。通りすがりにウィンドウを見て、立ち止まった。ショーウィンドウに近づいて、中を見た。


 (見ている。薄焼き菓子(クッキー)のトレーを見ている)


 私は通りの向かい側から、息を止めてその様子を見ていた。


 女性が入口の扉を開けた。


 少しして、店の中でヴィルヘルムの職人がトレーを取り出す動作が、ガラス越しに見えた。女性が手に取る。白い紙に包んでもらっている。


 (買った)


 (最初の客が、買っていった)


 (私の菓子を、知らない誰かが——買っていった)


 その瞬間の感覚は、言葉にするのが難しかった。


 菓子を作るとき、食べてくれる人の顔は考える。グレンが食べる顔。ファルク殿下が三秒止まる顔。エルナが手紙で「おいしかった」と書いてくる文面。でも今、見知らぬ誰かが私の菓子を紙に包んでもらって店を出ていく——それは、今まで想像したことのない達成感だった。


 その人が籠に包みを入れながら店を出てきた。通りに出ると、少し立ち止まって、包みから一枚取り出した。


 口に入れた。


 三歩歩いて——止まった。


 (三秒)


 (知らない人が、三秒止まった)


 私は思わず口元に手を当てた。


「どうした」とファルク殿下が聞いた。


「……あの方が、止まったので」


「ああ」とファルク殿下が言った。「止まるな」


 (この人は当然のように言う)


 私は笑った。声には出さなかったが、笑った。前世でも今世でも、あまり人前では笑わない方だったが——今日は、笑わずにいられなかった。


 その後も、客は来た。ウィンドウを見て立ち止まる人が、何人かいた。全員が買うわけではないが、薄焼き菓子(クッキー)のトレーに目を止める人は多かった。目抜き通りの老舗に、今まで並んでいなかったものが並んでいる——という引力は、確かにあった。


 (菓子は、こうやって世界に出るんだ)


 前世で商社の仕事をしていたとき、「モノが動く」という感覚はあった。書類と数字の後ろで、実際のモノが世界中を動いていく感覚。でもそれは間接的なものだった。今は——自分の手で作ったものが、直接、知らない誰かの口に入っていく。


 それが、思ったより、ずっと、よかった。


「そろそろ戻るか」とファルク殿下が言った。


「もう少しだけ」


「……そうか」


 ファルク殿下は何も言わなかった。隣に立って、一緒に見ていた。


 王都の朝の光が、目抜き通りの石畳を照らしていた。銀の砂糖亭のウィンドウに、冬の光が当たって反射していた。その中に、白い小さな札が見えた。


 遠すぎて字は読めなかった。


 でも、そこに「セシル・カルドア作」と書いてあることが、わかった。


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