第三十六話 マルティナという障壁
噂というのは、人の口から口へと移るとき、なぜか少しずつ形を変える。
私が気づいたのは、グレンが「令嬢様、少しお耳に入れたいことがあります」と言ってきた朝のことだった。いつもより声が低かった。大事なことを言う前の声だ。
「なんですか」
「……王都の社交界で、少し話が広まっているようです」
「話、というのは」
グレンが少し間を置いた。鍋の縁を指で触りながら、言葉を選んでいた。
「カルドア令嬢が菓子を商品にしようとしている、という話です。ヴィルヘルム殿との交渉の件が、どこからか漏れたようで」
私は手を止めた。
(……想定はしていた。完全に内密にできる話ではなかった。でも、こんなに早いとは)
「どういう文脈で広まっていますか」
「賛否、両方あるようです」とグレンが言った。「『令嬢が商品を作るとはどういうことか』という声と……『面白いことをする人だ』という声と」
「前者の方が多いですか」
グレンが少し、視線を下げた。
「……現時点では」
(わかった。現時点では、というのが正直な答えだ)
私は作業台に両手をついて、状況を整理した。
貴族令嬢が商業活動を行うことは、この国では前例がないわけではない。ただ、「公爵令嬢が」「王宮の厨房で作ったものを」「外の店に」という組み合わせは、様々な意味で例外的だった。フォルカー王家との婚約という文脈が加わると、さらに複雑になる。
(感情の話ではなく、構造の話だ。貴族の格式というルールが、ここに割り込んでいる)
加藤先輩がよく言っていた。「感情と構造を混ぜるな。整理してから走れ」。感情的に反発している人間と、ルールとして異議を唱えている人間は、対処法が違う。今回の話は——おそらく後者だ。
ファルク殿下が壁際の椅子から「何かあったか」と短く言った。
「少し整理が必要な話です」と私は言った。「問題が来る前に、来ました」
「……そうか」
ファルク殿下が紅茶を一口飲んで、それから窓の方を見た。口を挟まなかった。この人は、私が整理しているときに余計な言葉を足さない。それがありがたかった。
*
マルティナ・ベルガー伯爵令嬢が「少しお話しできますか」と使いを寄越してきたのは、それから二日後のことだった。
私が「どうぞ」と返答すると、翌日の午後に王宮の応接室にやってきた。
マルティナは二十歳の、きちんとした令嬢だった。明るい茶色の髪を丁寧に結い上げて、薄いブルーの訪問着を着ていた。表情は固かったが、怒りや悪意の固さではなかった。使命感、とでも言うような顔だった。
「ご多忙のところをありがとうございます」とマルティナが言った。礼儀正しい声だった。
「わざわざいらしてくださって」と私も返した。
お茶が出た。二人してカップを手に持った。
少しの沈黙があった。
マルティナが先に口を開いた。
「単刀直入に申し上げますと——カルドア令嬢が菓子を商品として外に出すことを、お考え直しになっては、と思いまして」
「なるほど」
「不躾なことを申し上げているのは承知しています。ただ、社交界での声を聞いて、誰かがお伝えしなければと思い、参りました」
(この人は、自分が正しいことをしていると信じている。悪意ではない。それが逆に、少し難しい)
「どのような懸念があるか、伺えますか」と私は言った。
マルティナが少し背筋を正した。言葉を選んでいる顔だった。
「令嬢が商品を——それも、実際に手を動かして作った菓子を——外の店で販売するというのは、これまでにない話です。それ自体が問題というわけではないのですが……」
「ですが、何でしょう」
「フォルカー家との婚約中でいらっしゃるということも、社交界の目には入ります。令嬢が商品を作ることは、フォルカー家への侮辱にもなりかねません、と……そういう声も出ています」
私はカップをそっと置いた。
(フォルカー家への侮辱。そういう言い方をするのか。これは感情の問題ではなく、やはり構造の問題だ。貴族の格式という「ルール」の話をしている)
「お気遣いいただいて、ありがとうございます」と私は言った。
「……いいえ」
「一つ、聞いていいですか」
「はい」
「フォルカー家の当事者が問題ないと言えば、問題ありませんか」
マルティナが、少し固まった。
私の言葉の意味を理解して、それから意味を確認して——という過程が、顔に出ていた。
「それは……」とマルティナが言いかけた。「フォルカー家が、という意味でしょうか」
「ファルク殿下が、という意味です。婚約者ご本人が」
(この問いには論理的な答えが一つしかない。フォルカー家への侮辱かどうかを判断する権限は、フォルカー家にある。フォルカー家の当事者が問題なしと言えば、第三者が問題だと言い続けるのは——論理的に成立しない)
マルティナが少し黙った。お茶に視線を落として、それから私を見た。
「……それはそうですが」
困った顔だった。反論ではなく、認めたくないが認めざるを得ない、という顔だった。
「反論があれば、聞きます」と私は言った。意地悪な言い方ではなく、本当にそう思っていた。この人の懸念が筋の通ったものであれば、私も考える余地がある。
「……いいえ」とマルティナが言った。「論理的には、おっしゃる通りです」
「ありがとうございます」
「ただ——感情的には、という話が社交界にはあります。論理だけで動かない方も、おられるので」
「それは承知しています」と私は言った。「そのための、時間もあります」
マルティナがもう一度、少し固まった。
(この令嬢は正直な人だ。悪意がない分、いちばん誠実に話せる相手かもしれない)
「お茶をもう一杯いかがですか」と私は言った。
*
マルティナが帰った翌日のことだった。
グレンが「令嬢様、少し奇妙なことが」と言いながら厨房に入ってきた。珍しく鍋を手に持っていた——作業中ではなく、磨きながら歩いてきた。大事なことを言う前の動作だ。
「何がありましたか」
「……王都の社交界に、非公式の一文が出回っているそうです」
「どういう一文ですか」
グレンが少し間を置いた。
「フォルカー家より——という形式で。『婚約者の活動を支持する』とだけ、書かれているそうです」
私は少し固まった。
(フォルカー家より。ファルク殿下の名前で。婚約者の活動を支持する、という一文が——非公式に、でも確実に、社交界に出回った)
(誰が動いたか。言わなくてもわかった)
私はゆっくりと振り返った。
ファルク殿下が壁際の椅子に座って、いつも通り紅茶を飲んでいた。
「……殿下」
「なんだ」
「昨日、私がマルティナ嬢と話したことを、知っていましたか」
「聞いた」
「グレンから?」
「ああ」
「それで」
「必要だと思った」とファルクが言った。短く、重い声だった。「異論があるなら聞く」
私は少し考えた。
異論はあるか。フォルカー家の名前が先に動いたことへの異論は——正直なところ、ない。論理として正しい動きだ。私が「フォルカー家の当事者が問題なしと言えば」という問いを立てた以上、当事者が答えを出したことになる。完璧な返し方だった。
(ただ——ありがたい、と思っている)
「……ありがとうございます」と私は言った。
「礼は要らない」とファルクが言った。
「言いたかったので」
ファルクが少しだけ視線を向けた。三秒、止まった。それから紅茶を一口飲んで、また窓の方を見た。
グレンが鍋を磨く音だけが、厨房に響いていた。




