表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/55

第三十五話 母上が全部わかっていた

 父が帰った翌朝、母が来た。


 今度は事前に文が届いた。「午前中にそちらへ参ります」とだけ書いてあった。母らしい、無駄のない一文だった。


 父から連絡が行ったのだろうと思った。昨夜の話を聞いて、母も確認しに来た——そういう流れだと想像した。


 でもグレンから「公爵夫人様がお越しです」という知らせを受けて応接の間に向かうと、母はソファに腰を下ろして、特に慌てた様子もなく、持参した薄い本を開いていた。


「セシル、来たのね」


「お早いお越しで」


「父上から聞いたんでしょう、と思っているでしょう」


「……はい」


「そうではないの」と母が本を閉じた。「私はずっと前から、ここに来るつもりでいたわ」



 カルドア公爵夫人は、四十八歳だ。


 父とは対照的に、外見はおだやかで物腰が柔らかい。でも——幼い頃から、この人には敵わないと思っていた。何かを言う前に全部わかっている。何かが起きる前に備えている。家の中で最も恐れるべき存在は父ではなく母だ、と子供のころに気がついた。


「お茶を」


「結構よ。こちらに来て座りなさい」


 私は母の向かいに座った。母が私を見た。昔から変わらない目だった。値踏みでも批判でもない。ただ、娘を見る目だ。


「菓子を作るあなたの顔が」と母が言った。


「はい」


「一番いい顔をしているのよ」


 私は少し止まった。


「……いつから」


「ずっと前から。あなたが厨房に入り込んで、生地を触っているとき——ああ、この子はこれが好きなんだと思っていたわ」


「それは知っていましたか、父上に伝えましたか」


「言ったわ。何度も」母がにっこりと笑った。「父上がなかなか信じなかっただけで」


 (そういうことか)


 父が昨夜「急かさずに待っていた」と言っていた。その背景に、母の言葉があったのかもしれない。


「あなたの中で最近、何かがはっきりと戻ってきたことも」と母が続けた。「知っていたわ」


「前世の記憶の話ですか」


「そう」母が少し首を傾けた。「あなたの中に何かが戻ってきた、と感じたの。お母さんにはわかるのよ」


「……本当に先読みが得意な方だ」


「得意ではなくて、あなたのことをよく見ているだけよ」母が言った。「あなたはわかりやすい。感情を整理してから話す子だから、整理前の顔が出るときは——何かあったな、とすぐにわかるの」


 私は少し息を吸った。


 (この人には本当に、敵わない)


「菓子の商品化の件も」と私は言った。「知っていましたか」


「昨夜、父上から聞いたわ。でもそうなるだろうと思っていた」


「なぜですか」


「あなたが厨房に毎日通っているって聞いたとき——これはいつか外に出るな、と思ったから」母が言った。「あなたの菓子は、厨房の中だけに収めておけるものじゃないわ」


 私は何も言えなかった。


 褒められている——という感覚ではなかった。長い間、この人が見ていた、という感覚だった。



 しばらく話してから、母が「殿下にご挨拶したいわ」と言った。


「……厨房に来てもらえますか。今日もいると思うので」


「あら、毎日?」


「毎日です」


 母が少しだけ目を細めた。何かを言おうとして——「行きましょう」とだけ言った。


 厨房に向かいながら、母は廊下を歩く私の横に並んだ。


「北方に行ったのね」と母が言った。


「はい。殿下の視察に同行しました」


「父上には怒られた?」


「……昨夜、少し」


「そうね。父上は心配性だから」母が言った。「でも、あなたが大丈夫だったのは知っているわ。殿下がいらしたから」


「それは——」


「安心できる人がそばにいるときのあなたの顔、と、いないときの顔は違うのよ」


 私は言葉に詰まった。


 厨房の扉の前で、母が足を止めた。


「準備はいい?」


「……どちらかというと、殿下の準備が」


「大丈夫よ」と母がにっこりした。「さあ」



 扉を開けると、グレンが作業台の前に立っていた。石窯オーブンが温まっていて、バターの甘い香りが漂っていた。今日は午前中から薄焼き菓子(クッキー)の試作を続けていて、冷ましたものが小皿に並んでいた。


 壁際の椅子に、ファルク殿下が座っていた。紅茶を手に持って、今日も静かにいた。


「グレン、母が来ました」と私は言った。「ご挨拶を」


 グレンが「公爵夫人様、ようこそおいでくださいました」と丁寧に頭を下げた。母が「いつもセシルがお世話になっています」と返した。


 そこで母が、椅子のファルク殿下を見た。


 ファルク殿下が立ち上がった。


「ファルクです」と殿下が言った。短く、でも礼儀は正しかった。


「カルドア家のヴィオラです」と母が言った。「セシルの母でございます。お目にかかれて光栄です」


「こちらこそ」


 短い挨拶だった。でも母は特に困った様子もなかった。初対面でこれだけ無口な相手に対して、母はむしろ落ち着いていた。


「厨房に通ってくださっているそうで」と母が言った。


 ファルク殿下が私を一瞬見てから、母に視線を戻した。


「……毎日」


「まあ」と母が言った。


 声に特別な感情はなかった。でも目が細くなっていた。この人が「まあ」と言うとき——たいてい、全部わかって言っている。


 グレンが奥で何かを磨き始めた音がした。


 ファルク殿下が、なぜか目をそらした。


 窓の方を見た。冬の白い光が差し込んでいて、殿下の横顔に当たった。私の知っている厨房でのこの人の横顔だった。


 母が私の方を見た。


 (この顔は「わかった」という顔だ)


 何がわかったのかは、まだわからなかった。



 母が帰ったのは、昼を少し過ぎたころだった。


 試作の薄焼き菓子(クッキー)を一枚食べた——可可(カカオ)を薄く延ばして、細かく砕いた干し果実を混ぜ込んだものだった。表面はさっくりとして、中はほんの少ししっとりしている。噛むと可可(カカオ)の苦みが先に来て、果実の甘酸っぱさが後から広がる。


 母が、三秒間、止まった。


 (この反応、厨房に来る人みんなに出る。一体なんなんだ、この菓子の力は)


「……おいしいわ」と母が言った。「あなたらしい菓子ね」


「どういう意味ですか」


「苦くて甘い」


 私は何も言えなかった。


 帰り際に母は王宮の廊下を歩いて、馬車寄せに向かった。私が見送りに付いた。


「父上との話、うまくいったようね」と母が言いながら歩いた。


「少し驚きました。思ったより聞いてくれました」


「父上はね、理由があると判断したら聞く人なのよ。ただ、最初に理由がないと動かないから——あなたが全部話してよかったわ」


「教えていただいた方が、楽でした」


「教えても、あなたはどうせ自分で確かめるでしょう」と母が笑った。


 馬車の前に着いた。御者が扉を開けた。母が乗り込む前に、少し振り返った。


「あの方ね」と母が言った。


「ファルク殿下ですか」


「あなたの前だと——正直な顔をするのね」


 私は少し止まった。


「そうですか」


「そういうことよ」と母が言った。


「……そういうこと、とは」


 続きを言う前に、母が馬車の中に入った。扉が閉まった。


 御者が出発の合図を出した。馬車がゆっくりと動き始めた。


 窓から母の手だけが出て、一度だけ小さく振った。


 私はその馬車が曲がり角に消えるまで見ていた。


 (そういうこと、とは——どういうことだ)


 考えながら厨房に戻ると、ファルク殿下が椅子に座っていた。グレンが作業台の片付けをしていた。いつもの厨房の光景だった。


「お母様はお帰りになりましたか」とグレンが言った。


「今、馬車で」


「いい方ですね」


「……先読みが、とても得意な方です」


「令嬢様に似ていらっしゃいますね」


「私はあそこまで先は読めません」


 グレンが鍋を棚に戻しながら「そうですか」と言った。笑っていた。


 ファルク殿下が「何を言っていたんだ」と言った。


「どこからですか」


「最後の方」


「……あなたの前だと正直な顔をする、と言われました」と私は答えた。


 殿下が少し黙った。


「……そうか」


「殿下は、どう思いますか」


 三秒間、止まった。


「……わからない」とファルクが言った。「だが——お前の前でしか出ない顔があることは、わかる」


 それだけだった。それで十分だった。


 母の言った「そういうこと」の意味が、少しだけ、わかった気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ