第三十五話 母上が全部わかっていた
父が帰った翌朝、母が来た。
今度は事前に文が届いた。「午前中にそちらへ参ります」とだけ書いてあった。母らしい、無駄のない一文だった。
父から連絡が行ったのだろうと思った。昨夜の話を聞いて、母も確認しに来た——そういう流れだと想像した。
でもグレンから「公爵夫人様がお越しです」という知らせを受けて応接の間に向かうと、母はソファに腰を下ろして、特に慌てた様子もなく、持参した薄い本を開いていた。
「セシル、来たのね」
「お早いお越しで」
「父上から聞いたんでしょう、と思っているでしょう」
「……はい」
「そうではないの」と母が本を閉じた。「私はずっと前から、ここに来るつもりでいたわ」
*
カルドア公爵夫人は、四十八歳だ。
父とは対照的に、外見はおだやかで物腰が柔らかい。でも——幼い頃から、この人には敵わないと思っていた。何かを言う前に全部わかっている。何かが起きる前に備えている。家の中で最も恐れるべき存在は父ではなく母だ、と子供のころに気がついた。
「お茶を」
「結構よ。こちらに来て座りなさい」
私は母の向かいに座った。母が私を見た。昔から変わらない目だった。値踏みでも批判でもない。ただ、娘を見る目だ。
「菓子を作るあなたの顔が」と母が言った。
「はい」
「一番いい顔をしているのよ」
私は少し止まった。
「……いつから」
「ずっと前から。あなたが厨房に入り込んで、生地を触っているとき——ああ、この子はこれが好きなんだと思っていたわ」
「それは知っていましたか、父上に伝えましたか」
「言ったわ。何度も」母がにっこりと笑った。「父上がなかなか信じなかっただけで」
(そういうことか)
父が昨夜「急かさずに待っていた」と言っていた。その背景に、母の言葉があったのかもしれない。
「あなたの中で最近、何かがはっきりと戻ってきたことも」と母が続けた。「知っていたわ」
「前世の記憶の話ですか」
「そう」母が少し首を傾けた。「あなたの中に何かが戻ってきた、と感じたの。お母さんにはわかるのよ」
「……本当に先読みが得意な方だ」
「得意ではなくて、あなたのことをよく見ているだけよ」母が言った。「あなたはわかりやすい。感情を整理してから話す子だから、整理前の顔が出るときは——何かあったな、とすぐにわかるの」
私は少し息を吸った。
(この人には本当に、敵わない)
「菓子の商品化の件も」と私は言った。「知っていましたか」
「昨夜、父上から聞いたわ。でもそうなるだろうと思っていた」
「なぜですか」
「あなたが厨房に毎日通っているって聞いたとき——これはいつか外に出るな、と思ったから」母が言った。「あなたの菓子は、厨房の中だけに収めておけるものじゃないわ」
私は何も言えなかった。
褒められている——という感覚ではなかった。長い間、この人が見ていた、という感覚だった。
*
しばらく話してから、母が「殿下にご挨拶したいわ」と言った。
「……厨房に来てもらえますか。今日もいると思うので」
「あら、毎日?」
「毎日です」
母が少しだけ目を細めた。何かを言おうとして——「行きましょう」とだけ言った。
厨房に向かいながら、母は廊下を歩く私の横に並んだ。
「北方に行ったのね」と母が言った。
「はい。殿下の視察に同行しました」
「父上には怒られた?」
「……昨夜、少し」
「そうね。父上は心配性だから」母が言った。「でも、あなたが大丈夫だったのは知っているわ。殿下がいらしたから」
「それは——」
「安心できる人がそばにいるときのあなたの顔、と、いないときの顔は違うのよ」
私は言葉に詰まった。
厨房の扉の前で、母が足を止めた。
「準備はいい?」
「……どちらかというと、殿下の準備が」
「大丈夫よ」と母がにっこりした。「さあ」
*
扉を開けると、グレンが作業台の前に立っていた。石窯が温まっていて、バターの甘い香りが漂っていた。今日は午前中から薄焼き菓子の試作を続けていて、冷ましたものが小皿に並んでいた。
壁際の椅子に、ファルク殿下が座っていた。紅茶を手に持って、今日も静かにいた。
「グレン、母が来ました」と私は言った。「ご挨拶を」
グレンが「公爵夫人様、ようこそおいでくださいました」と丁寧に頭を下げた。母が「いつもセシルがお世話になっています」と返した。
そこで母が、椅子のファルク殿下を見た。
ファルク殿下が立ち上がった。
「ファルクです」と殿下が言った。短く、でも礼儀は正しかった。
「カルドア家のヴィオラです」と母が言った。「セシルの母でございます。お目にかかれて光栄です」
「こちらこそ」
短い挨拶だった。でも母は特に困った様子もなかった。初対面でこれだけ無口な相手に対して、母はむしろ落ち着いていた。
「厨房に通ってくださっているそうで」と母が言った。
ファルク殿下が私を一瞬見てから、母に視線を戻した。
「……毎日」
「まあ」と母が言った。
声に特別な感情はなかった。でも目が細くなっていた。この人が「まあ」と言うとき——たいてい、全部わかって言っている。
グレンが奥で何かを磨き始めた音がした。
ファルク殿下が、なぜか目をそらした。
窓の方を見た。冬の白い光が差し込んでいて、殿下の横顔に当たった。私の知っている厨房でのこの人の横顔だった。
母が私の方を見た。
(この顔は「わかった」という顔だ)
何がわかったのかは、まだわからなかった。
*
母が帰ったのは、昼を少し過ぎたころだった。
試作の薄焼き菓子を一枚食べた——可可を薄く延ばして、細かく砕いた干し果実を混ぜ込んだものだった。表面はさっくりとして、中はほんの少ししっとりしている。噛むと可可の苦みが先に来て、果実の甘酸っぱさが後から広がる。
母が、三秒間、止まった。
(この反応、厨房に来る人みんなに出る。一体なんなんだ、この菓子の力は)
「……おいしいわ」と母が言った。「あなたらしい菓子ね」
「どういう意味ですか」
「苦くて甘い」
私は何も言えなかった。
帰り際に母は王宮の廊下を歩いて、馬車寄せに向かった。私が見送りに付いた。
「父上との話、うまくいったようね」と母が言いながら歩いた。
「少し驚きました。思ったより聞いてくれました」
「父上はね、理由があると判断したら聞く人なのよ。ただ、最初に理由がないと動かないから——あなたが全部話してよかったわ」
「教えていただいた方が、楽でした」
「教えても、あなたはどうせ自分で確かめるでしょう」と母が笑った。
馬車の前に着いた。御者が扉を開けた。母が乗り込む前に、少し振り返った。
「あの方ね」と母が言った。
「ファルク殿下ですか」
「あなたの前だと——正直な顔をするのね」
私は少し止まった。
「そうですか」
「そういうことよ」と母が言った。
「……そういうこと、とは」
続きを言う前に、母が馬車の中に入った。扉が閉まった。
御者が出発の合図を出した。馬車がゆっくりと動き始めた。
窓から母の手だけが出て、一度だけ小さく振った。
私はその馬車が曲がり角に消えるまで見ていた。
(そういうこと、とは——どういうことだ)
考えながら厨房に戻ると、ファルク殿下が椅子に座っていた。グレンが作業台の片付けをしていた。いつもの厨房の光景だった。
「お母様はお帰りになりましたか」とグレンが言った。
「今、馬車で」
「いい方ですね」
「……先読みが、とても得意な方です」
「令嬢様に似ていらっしゃいますね」
「私はあそこまで先は読めません」
グレンが鍋を棚に戻しながら「そうですか」と言った。笑っていた。
ファルク殿下が「何を言っていたんだ」と言った。
「どこからですか」
「最後の方」
「……あなたの前だと正直な顔をする、と言われました」と私は答えた。
殿下が少し黙った。
「……そうか」
「殿下は、どう思いますか」
三秒間、止まった。
「……わからない」とファルクが言った。「だが——お前の前でしか出ない顔があることは、わかる」
それだけだった。それで十分だった。
母の言った「そういうこと」の意味が、少しだけ、わかった気がした。




