第三十四話 父と娘の長い夜
夕食が終わって、父と二人になった。
応接の間ではなく、王宮の客間に通してもらった。暖炉に火が入っていて、外の冬の風音が遠くに聞こえる。テーブルの上には茶が二つ。グレンが気を利かせて用意してくれたものだった。
父がカップを手に持って、私を見た。
「昼間の話の続きをしよう」と父が言った。「今度は、私の質問に答えながら」
「わかりました」
「毒疑惑の件から始める。あれは——ヴァネッサ夫人が仕掛けたことで間違いないか」
「状況の証拠として、そう判断しています。直接の証拠はありません」
「ファルク殿下も同じ認識か」
「はい。殿下と確認しました」
父が少し考える顔をした。指先でカップの縁を叩く癖が出ていた。
「フォルカー家は現在どういう状況だ」
「ヴァネッサ夫人は王宮への出入りが制限されていると聞いています。詳細はファルク殿下に確認が必要ですが」
「そうか」
父が少し間を置いた。
「北方視察の件だが——お前は阿爾珂那商事という組織を、どの程度理解している」
「前世で勤めていた場所に、似た性質の組織です」
言ってしまってから、少し息が止まった。
前世、と言った。
父の表情が変わった——わけではなかった。ただ、少し目の焦点が変わった。何かを待っているような目になった。
「……前世の記憶が」と私は言った。「あります」
そこまで言って、止まった。どう続けるか、言葉を探していた。
「知っている」と父が言った。
静かに。でも確かに。
私が、固まった。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。外の風音が続いていた。父がカップを置く音がした。それ以外、何も聞こえなかった。
「……なぜ」と私は言った。「なぜ知っているんですか」
「お前が三歳のころ」と父が言った。「厨房に入り込んで、菓子を作ろうとしていた」
「それは」
「教えていないはずの手順を知っていた」
私は黙った。
三歳のころの記憶は、おぼろげだ。でも厨房が好きだったことは覚えている。バターの匂い、砂糖の焦げる甘さ、石窯の熱——それが好きで、よく忍び込んでいた。
「生地の合わせ方だった」と父が続けた。「バターと粉を合わせるときの手の動かし方。それを——誰かに教わったわけでもなく、自然にやっていた。料理人が止めようとしたら、お前が『こうしないと駄目なの』と言ったそうだ」
「……知りませんでした、その話」
「お前に言っても、三歳では理解できなかっただろう」
父が暖炉の方を見た。
「私も、最初は偶然だと思った。子供が見よう見まねで——と。だが何度も同じことがあった。厨房で、書物で、庭で。お前が、誰にも教わっていないことを知っていた」
「……」
「それと並行して、お前の性格が変わっていった。物事を整理してから動くようになった。感情より先に情報を求めるようになった。子供としては——少し、不思議な変化だった」
父が私を見た。
「前世の記憶が戻ったのは、いつだ」
「……数日前のことです。はっきりと覚醒したのは、つい最近で」私は少し間を置いた。「ただ——今のお話を聞いて、少し繋がりました。三歳の頃から、前世の記憶が無意識に滲み出ていたのだと思います。手順を知っていたのも、整理してから動く癖も——自分では意識していなかった。体が覚えていたものが、外に出ていたのだと」
「そうか」
「父上は、ずっと知っていたんですか」
「確信ではなかった」と父が言った。「でも——お前の中に、何か別のものがあることは、感じていた。だから」
父が少し言葉を止めた。
「だから、急かさなかった。お前が自分で整理するまで、待っていた」
私は、少し息を吸った。
(この人は——ずっと見ていたのか。何も言わずに、ただ見ていたのか)
前世の記憶が戻ってから数日、自分なりに整理しようとしていた。過去のことと現在のことを分けて、感情と事実を切り離して、一つずつ対処してきた。でもそれは——最初から、誰かに見守られていた中でのことだったのかもしれない。
「ありがとうございます」と私は言った。「言わないでいてくれて」
「お前が言うまで待つつもりだった」と父が言った。「今日言えたのは——よかった」
*
それから話は続いた。
エルナの話、可可流通の話、ヴィルヘルムとの交渉。父は黙って聞いた。時折、確認の質問を挟んだ。感情的に反応することはなかった。
「令嬢が商売を」という話についても、父が反論したのは一度だけだった。
「貴族の格式という観点で言えば、賛成しにくい話だ」と父は言った。
「わかっています」
「だが——」
父がそこで少し止まった。
「お前の話を聞いていると、それが『令嬢の商売』ではなく、別の何かに見えてくる」
「別の何か」
「外交の一部だ。流通の仕掛けだ。それに——」父がまた少し間を置いた。「お前が本当にやりたいことの、一つだ」
私は何も言えなかった。
「違うか」と父が聞いた。
「……違いません」
「だから」と父が言った。「今すぐ反対するとは言わない。話を続けろ」
(この人は、最終的には理解する人だ。時間がかかるが——正しいと思ったことを止める人ではない)
夜が深くなっていった。茶が一度、二度と替わった。暖炉の火が低くなって、グレンが薪を足しに来た。
すべての話が終わったころ、時刻は深夜に近かった。
父が椅子の背に少し体を預けて、目を細めた。
「ファルク殿下は——お前を、幸せにできる人間か」
私は少し考えた。
幸せ、という言葉を、どう定義するか。前世の自分が思い描いていた幸せと、今の自分が思う幸せは——少し違う。前世では仕事と誰かへの感情が別のものだった。今世では——菓子を作ることと、隣に誰かがいることが、同じ時間の中にある。
「私が幸せにする人間だと思っています」と私は言った。
父が、少し目を細めた。
「殿下を、か」
「お互いに、です。どちらかがどちらかを、ではなく」
父が黙った。
長い沈黙だった。暖炉の火が低く揺れていた。外の風が一度、強くなって、また収まった。
それから——父が笑った。
声を出した笑いではなかった。口の端がほんの少し上がって、目が細くなった。それだけだった。でも確かに、笑っていた。
「そうか」と父は言った。
「……はい」
「わかった」
それだけだった。それで十分だった。
夜が、静かに更けていった。




