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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第三十三話 父上が来た

 ヴィルヘルムの返事を待っている三日の間に、父が来た。


 事前の連絡はなかった。グレンが「カルドア公爵様がいらしています」と厨房に知らせに来たとき、私はちょうど可可(カカオ)バターを湯煎にかけているところだった。


「今ですか」


「今です」


「どこに」


「応接の間でお待ちです。令嬢様をお呼びするよう承りました」


 私は湯煎を火から外した。温度が上がりすぎると可可(カカオ)バターは分離する。菓子は待ってくれないが、父も待たせすぎるわけにはいかない。


(父が来るということは——噂が届いた、ということだ)


 心当たりはあった。ヴィルヘルムとの交渉が始まった時点で、王都の菓子店と公爵令嬢が話をしているという話は、すでにどこかで漏れていてもおかしくなかった。貴族社会は狭い。特に「令嬢が商売を」という話は、人の口に乗りやすい。


 私は手を拭いて、エプロンを外した。


「グレン、可可(カカオ)バターは少し冷ましてから戻してください。温度は四十度を切らないよう」


「わかりました」


「私は少し時間がかかるかもしれません」


「……行ってらっしゃいませ」とグレンが言った。普段より少し、低い声だった。



 応接の間に入ると、父がソファに座って待っていた。


 五十二歳の父は、いつ見ても公爵家の当主という顔をしている。背筋が伸びていて、所作に無駄がなく、部屋の中央に座っているだけで空気が引き締まる。幼い頃は正直、近寄りがたかった。今もその感覚はあるが——前世の記憶があってからは、少し見方が変わっていた。この人は厳格だが、話を聞く人だ。


「父上、急なお越しで」


「急ぐ必要があったのでな」と父が言った。「座れ」


 私はソファに座った。父が私を見た。値踏みでも怒りでもない、ただ娘を見る目だった。


「聞いた」と父が言った。「お前が、菓子を商品にしようとしているという話を」


「はい」


「どういうことか、説明しろ」


 私は少し考えた。どこから話すか——順番を間違えると、話が噛み合わなくなる。前世の商社でも、プレゼンは最初の二分が全てを決めると先輩に言われた。相手の頭の中の「前提」を先に書き換えないと、何を話しても別の文脈で処理される。


 父の頭の中に今ある「前提」は、おそらく——「令嬢が商売をしようとしている」という話だ。


 それを言い換えるには、別の話から始める必要があった。


「お話をする前に、一つだけ聞かせていただけますか」


「何だ」


「ヴァネッサ夫人の件は——お聞きでしたか」


 父が、少し止まった。


 一瞬だけ。でも確かに、止まった。


(……やはり、聞いていた)


 父の表情が微かに変わった。怒りでも驚きでもない。娘が先手を打ってきた、という顔だった。


「……聞いている」と父がゆっくり言った。「フォルカー家の件は、話が来た」


「では、そこから続いていることとして、お話を聞いていただけますか」


「順番が逆だ。私が聞いている」


「はい。でも——順番が重要なので」


 父が少し間を置いた。私を見ていた。何かを測るような目だった。


「……続けろ」


「ありがとうございます」


 私は深く息を吸った。


「お話を聞いていただけますか。最初から——全部」


 父が「全部、とは」と言いかけて、止まった。


 また、止まった。


(娘がそういう顔をするとき——という顔をしている)


 父は昔から、私が本気で何かを話しに来るときの顔を知っていた。幼い頃、家庭教師の授業内容に異議を申し立てたとき。菓子の材料を自分で調達したいと言いに来たとき。いつも、この顔で来た。


「……わかった」と父が言った。「聞こう」



 最初から話し始めた。


 厨房に通い始めた経緯、ファルク殿下が毎日椅子に来るようになった話、毒疑惑の件、ヴァネッサ夫人とのやり取り、お披露目会のマカロン——話しながら、父の表情を見ていた。父は口を挟まなかった。聞いていた。この人は話の途中で割り込まない。最後まで聞いてから判断する。


 北方視察の話になったとき、父が初めて眉を動かした。


「ファルク殿下に同行したのか」


「はい」


「それは——」


「報告すべきでした。申し訳ありません」


 父が少し考える顔をした。怒りではなく、整理している顔だった。


「続けろ」


 菓子外交の話をした。エルナの話をした。阿爾珂那(アルカーナ)商事とのやり取り、可可(カカオ)の流通の可能性。ヴィルヘルムとの交渉が始まっていること。


 全部話し終えると、応接の間の中に静かな沈黙があった。


 父がゆっくりと足を組んだ。指先を顎に当てた。考えているときの癖だ。


「フォルカー家との婚約は」


「継続しています」


「ファルク殿下の意志は」


「殿下も同じ意志です」


「お前は」


「私も同じです」


 父がまた少し黙った。


「……ファルク殿下は——この件を、知っているのか」


「菓子の商品化の話は、殿下も最初から知っています」


「知った上で」


「止めませんでした」


 父が私を見た。


「チームなので」と私は言った。


 父の眉が、少し動いた。


「チーム、と」


「はい。私とグレンと、殿下と——同じ方向を向いて動いています。なので」


 父が少し呆れた顔をした。公爵家の令嬢が「チーム」という言葉を使うことへの呆れか、それとも娘がそういう関係を作っていたことへの呆れか、判別しにくかった。


 でも——止まらなかった。


「チームか」と父がもう一度言った。


「はい」


 父が深く息を吐いた。ため息というより、何かを飲み込む息だった。


「……今夜、話を続けよう」とゆっくりと言った。「夕食の後でいい。時間を取れるか」


「はい」


「全部聞いた上で、私の話もする」


「わかりました」


 父が立ち上がった。ドアに向かいかけて、少し足を止めた。振り返って私を見た。


「お前が先手を打ってくるとは、思わなかった」


「申し訳ありません」


「謝っていない」父が言った。「驚いたと言っている」


 それだけ言って、父は応接の間を出ていった。


 扉が閉まってから、私は少しだけ肩の力を抜いた。


 (最初から全部話す覚悟は、していた。でも——父が「全部聞く」と言ってくれたことで、少し楽になった)


 廊下から厨房に戻ると、グレンが作業台の前に立っていた。可可(カカオ)バターはもうきれいに処理されていた。鍋も磨かれていた。


「どうでしたか」とグレンが聞いた。


「夜に続きを話すことになりました」


「……そうですか」


「最後まで聞いてくれる人なので、大丈夫です。たぶん」


「たぶん、ですか」


「……九割」


 グレンが「十分です」と言って、少し笑った。


 部屋の隅では、ファルク殿下が椅子に座っていた。いつ戻ってきたのか気づかなかった。


「報告が遅れました。父が来ています」


「知っている」とファルクが言った。


「……見ていましたか」


「廊下で、少し」


「どこまで」


「『チームなので』というところまで」


 私は少し息を吸った。


「……お恥ずかしいところをお見せしました」


「いや」とファルクが言った。短く、でも確かに。「正しかった」


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