第三十二話 職人と令嬢と折り合わない一点
一週間が、思いのほか長かった。
仕事をしていれば気にならないはずだった。実際、毎日厨房に来て菓子を作っていた。エルナへのレシピを整理して、可可を使った新しい焼き菓子を三種類試して、北方の気候でも使える材料の代替案を考えて——手を動かしていれば、頭は別のことを考えなくて済む。そのはずだった。
前世でも同じだった。提案書を出して相手の返事を待つあいだ、仕事を詰め込んでいた。手が止まると、余計なことを考えてしまう。でも仕事を詰め込んでも、意識のどこかにはずっとあの保留が引っかかっていた。
(答えは、来週でないとわからない。今考えても何も変わらない)
それはわかっていた。
でも、少し——緊張していた。
*
七日目の午後、ヴィルヘルムが来た。
前回と同じように扉を開けて、前回と同じように厨房の中を一度見回した。今日は査定でも確認でもない目だった。何かを決めてきた人間の目だった。
「来ていただきありがとうございます」
「用件があるので来た」とヴィルヘルムが言った。相変わらず愛想はなかったが、前回より少し、圧が薄かった。「座っていいか」
「どうぞ」
グレンが茶を用意し始めた。ヴィルヘルムが椅子に腰を下ろした。
部屋の隅では、ファルク殿下が今日も壁際の椅子に座って紅茶を持っていた。ヴィルヘルムが殿下の方を一度だけ見た。殿下は何も言わなかった。ヴィルヘルムも特に何も言わなかった。
(この二人、不思議と空気が合う。どちらも無駄なことを言わない種類の人間だからかもしれない)
グレンが茶を出した。ヴィルヘルムが一口飲んで、静かに置いた。
「先週の話の続きをしよう」とヴィルヘルムが言った。「仕入れの値段は折り合えた。週二回の納品という形も問題ない。品質管理の主導権を令嬢に残すことも——認める」
「ありがとうございます」
「だが」
ヴィルヘルムが私を見た。
「一点だけ、折り合えないところがある」
*
名前の話だった。
前回の交渉で私が出した条件の中に、「セシル・カルドア作」という明示があった。商品に名前をつけること——誰が作ったか、店頭でわかる形にすること。それが私の条件だった。
ヴィルヘルムが「そこだ」と言った。
「令嬢の名前を店に出すことには、難色がある」
「理由を聞かせてください」
「うちは五十年、職人の菓子を売ってきた。職人の技で店を作ってきた」ヴィルヘルムが言葉を選ぶように少し間を置いた。「そこに令嬢の名前が入ると——店の格が変わる」
「格が下がると?」
「そういう話ではない」
ヴィルヘルムが顎を引いた。
「令嬢の名前が入れば、話題になる。人が集まる。だが集まる理由が変わる。うちの店は菓子の味で来る客を相手にしてきた。令嬢の名前で来る客は——別の客だ」
(なるほど。これは単なる見栄ではない。職人としての店の在り方の話だ)
前世の商社でも、ブランドの方向性を巡る交渉は何度もあった。どういう客を相手にするか——それは、どういう仕事をするかという話と同じだ。ヴィルヘルムの言っていることは、職人として筋が通っていた。
だから——簡単には引けなかった。
「一つ、聞かせてください」と私は言った。「名前を出さないということは、作った人間がわからないということです」
「そうなる」
「令嬢作の菓子として話題になるのを避けたい、という意図はわかります。でも名前がなければ——誰が作ったかわからない菓子になる。それは」
少し間を置いた。
「私の仕事ではない、と思っています」
ヴィルヘルムが眉を動かした。
「どういう意味だ」
「私は菓子を作ります。その菓子が誰かの手に渡るとき、誰が作ったかわからないものを出したくない。名前のない菓子は——私が作ったことにならない。誰かが作ったことにもならない。ただ『菓子』になる」
グレンが奥で、気配をひそめた。
「それは困ります」と私は続けた。「私にとっては。なので——名前を出していただけないなら、お断りします」
少し沈黙があった。
ヴィルヘルムが私を見ていた。前回と同じ、職人が何かを考えるときの黙り方だった。
「……なぜそこまで」とヴィルヘルムが言った。「名前にこだわる」
(前世から——)
喉まで出かかった。言えなかった。
「……長い間、菓子を作ってきたので」と私は言った。「名前のない仕事を続けてきて——それに慣れたくないと思っています」
ヴィルヘルムが少し、表情を変えた。怪訝でも批判でもない。何か別のものを読もうとしている顔だった。
「前の職場でも、そういうことがあったのか」
(……そこまで読むか、この人は)
「似たようなことが」と私は答えた。「誰が作ったかわからない成果が世に出ることが——続いたので。今世では、違う形でやりたいと思っています」
「今世」とヴィルヘルムが繰り返した。
「……失言です。気にしないでください」
ヴィルヘルムが少し口ひげを触った。それから「わかった」と言った。
「今日はここまでにする」
「返答は」
「一週間——いや」ヴィルヘルムが立ち上がった。「もう少し考える。三日でいい」
「わかりました」
ヴィルヘルムが帰り際に、また厨房を見回した。今度は部屋全体ではなく、作業台の上に置いてある今日の試作品——可可を薄く延ばした薄焼き菓子——に目を止めた。
「それは何だ」
「今日試作していたものです。よろしければ」
ヴィルヘルムが一枚取って、口に入れた。
止まった。
(また三秒)
グレンが再び気配を殺した。私は表情を動かさなかった。ファルク殿下も何も言わなかった。
「……」
ヴィルヘルムが何も言わずに扉を開けた。帰り際に振り返って「三日後に来る」とだけ言った。扉が閉まった。
*
グレンが長い息を吐いた。
「令嬢様」
「なんですか」
「……よかったんですか。強気で」
私は作業台を片付けながら少し考えた。
「駄目なら駄目で、別の道を考えます」
「でも」
「でも」と私も繰り返した。「……少し、緊張はしています」
グレンが「そうですよね」と言って、棚から鍋を取り出した。奥に戻って、磨き始めた。
(大事なときに鍋を磨く人だ、本当に)
「強気に出たのは正しかったと思っています」と私は続けた。「ヴィルヘルムさんは職人だから——筋の通った話には、ちゃんと向き合う人です。感情で動く人じゃない」
「……そうですね」とグレンが奥から言った。「私もそう思います」
「だから三日待ちます」
部屋の端から「正しい判断だ」という声がした。
振り返ると、ファルク殿下が椅子に座ったまま、こちらを見ていた。
「……見ていたんですか」
「ずっと」
「前回もそうでした」
「今回も同じだ」
(この人は本当に、いつも見ている。気づかないうちに、ずっと見ている)
「……ありがとうございます」と私は言った。意味がいくつかあったけれど、全部まとめてその一言にした。
ファルク殿下が少し間を置いてから「礼は要らない」と言って、紅茶を一口飲んだ。
厨房の奥で、鍋を磨く音がしていた。




