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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第三十一話 「菓子を売る」という話

 まず、情報を整理することにした。


 「菓子を売ってほしい」という話が来ている——それだけではわからないことが多すぎる。どういう条件で、どういう形で、どこの店が、何を目的に言ってきているのか。条件を確認せずに動くのは、前世でも今世でも悪手だ。


 翌朝、グレンに詳細を聞いた。


「店の名前は『銀の砂糖亭』です」とグレンが言った。「王都の目抜き通りにある老舗で、創業は五十年以上前だそうです。店主はヴィルヘルムという方で、腕のいい職人として知られています」


「なぜうちの厨房に声をかけてきたんですか」


「晩餐会のマカロンが、外に漏れたようです。あの席にいた外交筋の方が王都で話したらしく……それがヴィルヘルム殿の耳に入ったと」


「どういう形での提案ですか。買い取り? 委託?」


「その辺りは、直接お話ししたいとのことで」


 (直接話したい、か。条件を先に出さないということは、向こうも相手を見てから決めるつもりだ)


 前世の商社でも、最初から条件を出さない相手は二種類いた。「ぼったくるつもり」か「相手次第で柔軟に動ける人間」か。どちらかは、会ってみるまでわからない。


「一度、会います」と私は言った。「ここに来てもらえますか」


「厨房に、ですか」


「私が出向くより、ここで話す方が判断しやすいので」


 グレンが「……わかりました」と言って、伝言を送りに行った。


 ファルク殿下が椅子で紅茶を飲みながら「行かないのか」と言った。


「向こうが私の菓子に声をかけてきた話です。私の場所で話した方が対等です」


「……なるほど」


 (前世では、大事な交渉は相手のホームでやるより自分のホームでやれ、とよく言われた)



 翌日の午後、ヴィルヘルムが厨房に来た。


 扉を開けて入ってきた瞬間、私は少し止まった。


 想像より、大きな人だった。背が高いというより、全体的に存在感がある。白い口ひげを整えて、厚みのある革のエプロンを下げていた。職人の手をしていた——節くれだって、何十年も道具を握り続けてきた手だ。


 厨房に入るなり、部屋の中を一度だけ見回した。作業台、棚の道具、石窯オーブン——それぞれに数秒ずつ目を止めた。職人が他人の厨房を査定するときの目だった。


「銀の砂糖亭のヴィルヘルムです」と男が言った。愛想はなかった。


「カルドア家のセシルです。ようこそ厨房へ」


 ヴィルヘルムが私を見た。年齢を測るような、品定めをするような目だった。前世の厳しい取引先に似ていた。


「一つ、先に言わせてもらう」とヴィルヘルムが言った。


「どうぞ」


「令嬢の道楽に付き合う気はない」


 グレンが奥で、気配を殺した。


 私は少し間を置いてから、答えた。


「私もそういう話なら、お断りします」


 ヴィルヘルムが、眉を動かした。驚いたのか、面白がったのか、どちらともつかない顔だった。


「……続けろ」


「道楽で作っていないので、道楽として売る気はありません。私が聞きたいのも同じことで——なぜ声をかけてきたか、それだけです」


「マカロンを食べた」とヴィルヘルムが言った。「晩餐会に出たものを、外交筋の客から分けてもらった。食べて——作った人間を知りたくなった」


「どうしてですか」


「私の店では出せないものだったから」


 (この人は、正直に話す人だ)


 前世で信頼できる取引先かどうかを見分けるとき、「自分に不利なことを正直に言えるかどうか」が基準だった。「私の店では出せない」と言える人間は、少なくとも嘘をつく種類ではない。


「座っていただけますか」と私は言った。「お茶を出します」


 グレンがすぐに動いた。



 ヴィルヘルムが椅子に座った。グレンが茶を出した。


「一つだけ、食べてみてください」と私は言って、作業台に置いていた小皿を持ってきた。今日の午前中に焼いたサブレだ。バターをたっぷり使って、塩を少し効かせた。シンプルなものほど、誤魔化しが利かない。


 ヴィルヘルムが一枚取った。眺めた。裏返した。割った。断面を見た。それから口に入れた。


 止まった。


 三秒間、完全に止まった。


 (……この反応、この家系以外でも出るんだ)


 グレンが背中を向けた。私は表情を動かさなかった。


「……」


 ヴィルヘルムがもう一枚取った。黙って食べた。三枚目に手を伸ばして——途中で止めた。


「聞いていいか」


「どうぞ」


「バターはどこの産か」


「王都の東の農家から仕入れています。冬場は脂肪分が上がるので、この時期が一番向いています」


「塩は」


「南方の岩塩です。粒が細かく、生地に均一に入ります」


「焼き時間は」


石窯オーブンの温度によって変えます。今日は少し低めに、長めに」


 ヴィルヘルムが黙った。職人が何かを考えるときの黙り方だった。


「……五十年やっている」とヴィルヘルムが言った。「菓子を作って、五十年だ」


「はい」


「五十年やって、自分が出せないものに出会うのは——珍しいことだ」


 (また、正直な人だ)


「ありがとうございます」


「褒めていない。悔しいと言っている」


「……そうですか」


「悔しいが——だから話を聞きに来た」


 ヴィルヘルムが、ようやく私をまっすぐに見た。査定の目ではなく、対等に見る目だった。


「条件を聞こう」



 話は一刻ほど続いた。


 私が提示した条件——名前の明示、品質管理の主導権、定期的な試作品の確認——をヴィルヘルムは一つずつ聞いた。否定しなかった。でも即答もしなかった。職人として考えている顔だった。


「一週間、時間をもらえるか」とヴィルヘルムが言った。


「もちろんです」


「悪い話にはしない。ただ、私にも確認したいことがある」


「わかりました」


 ヴィルヘルムが立ち上がって、帰り際にもう一度厨房を見回した。来たときと同じように、作業台と棚と石窯オーブンに目を止めた。でも今度の目は、査定ではなかった。


「……いい厨房だ」とヴィルヘルムが言った。それだけ言って、扉を閉めた。


 グレンが長い息を吐いた。「……緊張しました」


「私もです」と正直に言った。


 部屋の端から「交渉、上手くなったな」という声がした。


 振り返ると、ファルク殿下が椅子に座ったまま紅茶を飲んでいた。


「……見ていたんですか」


「ずっと」


「最初から」


「ああ」


 (言ってくれればよかったのに——でも、いてくれた方が落ち着いたのも、本当だった)


「……ありがとうございます」と私は言った。


 ファルクが「礼は要らない」と言って、紅茶を一口飲んだ。


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